6通目


ストロベリーショートケイクス」という映画を某レンタルチェーン店からレンタルして家で見ました。普通の大衆映画としてみようと思ったのですが、予想以上の性描写に「えっ」という驚きを隠せないわけです。大衆映画の性描写といえば、目に見えないある壁にぶち当たるのが常としてあります。大衆という壁ですね。
壁に阻まれるシーンを簡単に言ってしまえば昼ドラによくある、白いシーツの下にいる二人の男女、をプロトタイプとして想像してもらうのがよいかと。行為をしているのは分かるけれども、それだけというか。単なる記号といってもいいかもしれません。もしくは行為前後というのが挿入的にあるわけです。
しかしこの映画はその壁を越えてしまったのです。中越典子が顔射されるシーンとか女優として登場する原作者が急に上半身裸になるとか。想像していた紋切り型をみごとに裏切られると。
そもそもなんでこの映画を見たのかということになります。それは僕がガールズストーリー的なものにはまりつつあるからです。それはつまり、幸せになりたいけど不幸な自分、それでもいいじゃん?といった共感の嵐で成り立っている世界のように感じられるのです。細部が逸脱したりするとはいえ、やはりそこにはベタの存在が大いにあるわけです。そのストーリーの最終的なまとめかたには何かしらの救いがあり、肯定されることが大きなポイントではないかと思います(例え主人公である女性が自殺したとしても、まるでそれが正しい行為だったかのように描かれてしまうような)。


さて、自分の中にあるボタンみたいなものを押される感覚というのをよく感じてしまうのです。そのボタンはいろいろあり、押されるボタンによっては泣いたり、怒ったりしてしまうのですが、問題は必要な手段を踏めば、いとも簡単にそのボタンが押されてしまうということです。それは決まりきったパターンによって等式のように答えがでてしまう、「ベタ」の存在がまさにそのボタンを押すのではないでしょうか。
ダチョウ倶楽部にみられる笑いとか、密室閉じ込められ型パニック映画とかいい例です(つまらない例えで申し訳ないですが)。それは内部にあるフツフツと沸いて出る欲求を対象に向けて解消しよう、という構造ではなく、対象の存在が強制的に欲求を解消させる、解消させられる(欲動があらゆるエネルギー、つまりガソリンであるならばそれが不快であろうとも保存しておきたいと思う人もいると思いますので)という構図になってはいないでしょうか。むしろ手法という言葉が存在する時点でベタによる強制的な影響を確認することができるとも思います。
そう考えていくと私的感性とはいったい何なの?と思うようになるわけです。「アイデンティティを保つためには・・・」みたいな話がありますが、結局あなたも根本は僕と一緒でしょ?という感覚に陥るのです。
データーベースという考え方があります。大型スーパーに行って目に付くものをかごにいれてお会計を済ます感覚に似ていると思うのですが、しかしそれでは要素の山にしかならないのではないでしょうか。つまり何らかの方法でそれらの要素をまとめ上げなければならないのです。そこで用いられるのがレシピのごとくに存在している『ベタ』だと思います。こういう手順でこうこうすれば精度の差はあったとしても取り敢えず完成はするよ、といった感じでしょう。
結局ベタからの逸脱は難しいようで、僕の見た映画もガールズムービーというベタの中で材料を少し変えてみただけだったのかもしれません。
こだわりなんてそれくらいのものかもしれませんね。



保坂