リア充はどこにいる


初めましてこんにちは。
前任者からのバトンを受け、今回から金曜日の連載を担当することになりましたイマダと申します。連載タイトルは(仮)でありまだ変更する可能性がありますが、今週から先走って執筆させていただきたいと思います。
よろしくお願いします。



さて、華々しく始まった新連載。最初のテーマはリア充である。
こういったネットスラングは、「サブカルチャー大辞典」ことウィキペディアをあたるのが一番。以下がウィキペディア日本版のリア充の項の抜粋。

リア充(リアじゅう)とは、「リアル(現実の生活)が充実している状態、またはそのような人物」を指すインターネットスラング2ちゃんねるの大学生活板から発生し、2007年夏頃にブログやtwitterで流行した。
当初「リア充」の語は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するためのものであった。このニュアンスは、従来のネット文化に触れていない、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。

まず着目すべきは、この「リア充」という語の使われ方の変遷だ。当初は使う者自身が「リア充ではない自分」に対する自虐的なニュアンスであったのに対して、「携帯電話を介したネットの利用者たちが流入」し、その「彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと」シフトしたらしい。「携帯電話を介したネットの利用者」というフレーズが気に掛かる。携帯電話を介してネットを利用する人は、なぜだか恋愛と仕事が充実しているらしい。
携帯電話だと屋外でもネットに接続可能=活動的であり、よって恋愛も仕事も充実する傾向があるということだろうか。またここら辺は、非リア充(つまりリア充を妬み恨む者たち)の「ケータイ小説」に対する侮蔑心にも通ずるのだろう。


おっと、話が逸れそうになった。前任者のブログを読むと彼も相当話をそらすタイプの人間をだったようなので、そういう負の因習をこの連載では受け継がないようにしたい。なるべくね。


リア充にまつわるひとつのパラドックスがある。
傍目から観て、恋愛あるいは仕事で明らかに充実している人がいたとしよう。いや、それどころではないもっと極端な例をだそう。あらゆる女を意のままにできて、巨万の富を稼ぎ出し、万人をひれ伏させるという、悠々自適な暮らしをおくるヒルズ族、あるいは石油王、もしくは某国将軍様。要するにそんじょそこらのリア充ではない、特Aクラスのリア充である。すばらしいではないか。うらやましいではないか。


でもその人たちはたして、自分のことをリア充だと自認するだろうか。その人がシャレの通じるヒルズ族なら、ウィットに富んだ石油王、某国将軍様であるならば「うん、俺リア充だよ(笑)」と言えるだろう。客観的に自分を見れば、自分の女性遍歴、年収、乗ってる車。それら自分のステータス全てを総合して「(他人からすれば)俺はリア充なのだろうなぁ」という結論は導けるはずだ。
いやしかし、ここで問いたいのはそういった客観的な事実としての充実ではなくて、あくまでその人の本心。その人が実感としてリアルの充実を手にしているのかが問題なのである。そうなると話は変わってくる。
ここら辺は筆者と前任者の気が合うらしく、彼の最終回のブログで展開された妄想の話とつながってくる。妄想においてのみ私たちは「充実した自分」を思い描くことができる。しかし、それが現実となるということはありえない。たとえ、思い描いたとおりの状況(例えばあらゆる女を意のままに扱い、巨万の富を稼ぎ出し、万人をひれ伏させる悠々自適な暮らし)が整ったとしても、心が付いてこないからだ。肝心の充実「感」という実感がそろわなければ、本当の意味で「充実した自分」にはなれない。

そういった意味では、ヒルズ族、あるいは石油王、もしくは某国将軍様でさえも、リア充であって「リアルリア充」ではないのだ。彼らだって、爪が割れたらヘコむし、口内炎ができたらヘコむし、風邪を引いたらヘコむのだろう。彼らには揺るぎないステータスがあろうと、充実という実感はいとも簡単に揺らいでしまう。

逆に言えば、リア充への飢餓感みたいなものが生きるためには必要なのかもしれない。もしリア充になれたとして、さらにそのリア充の状態が揺るぎないものであったのならば、その後僕らは何を成し遂げればいいのだろう。というかリア充であるのだから、何も成し遂げなくていいのである。目的もなく、ただ漠然と呼吸し生命が維持されているのみの存在。そんなやつ、廃人とどこが違うのだろうか。
ACの有名な文句をもじれば「リア充やめますか?それとも人間やめますか?」。


そうなると、リア充なんて存在しないんじゃないか?リア充なんてフリーメイソンみたいなもんで、社会に対する鬱屈した感情が総体となって築き上げた一種の仮想敵なんじゃないか?みたいな議論の落としどころもあるのだろうが、そうではない。ウィキペディアリア充」の項に「状態」とあることに注目しよう。
むしろ逆である。「みんなリア充」なのである。いや、リア充の余地があるのである。


最近筆者の身の上に、驚くべきことが起きた。筆者自身はご多分に漏れず「非リア充」を自認しており、リア充に対しては批判的な見解を持っていたのであるが、当の自分自身がリア充の「状態」になっていたということに気がついたのである。
筆者は先日偶発的かつ突然に、大変なある試練に直面した。そしてそれを成し遂げた。
問題はその試練成し遂げつつあったときである。その時筆者の脳内では、成し遂げた筆者とそれを出迎える側の友人たちが登場する、それを成し遂げた瞬間の情景が上映されていた。
それはそれは大偉業である。脳内ではBGMの「ロッキーのテーマ」が鳴り、「パッパカパーン」とけたたましいファンファーレも鳴り、くす玉も割れていた。「ちょっと目に汗がたまっちゃうかもっ!」ぐらい思っていたわけである。
そんな騒がしくもあり感動的な情景を胸にようやくゴールインすると、なんともつれない、あまりにも冷たい待遇で迎えられた。筆者は内心絶望した。興ざめである。なんとも冷たいではないか。お前らの血は何色だ?


しかし、自分のテンションが冷めたときに、筆者は2つのことに気がついた。一つはどんなその試練がどんなに大変だったか、筆者と経験をなんら共有していない彼ら出迎えた友人たちに別に非はなく、むしろ自分の脳内の想像が過剰で間違っていたのであるということ。もう一つは、自分の頭が今の今まで「リア充」一色であったということ。

この経験で筆者は悟った。リア充とは脳内が「おめでたい」状態のことだったのだ。


さらには、リア充が顕在化するのはこの筆者のおめでたく沸騰した脳内と、冷静に傍観していた周りの人間たちの「温度差」においてなのである。当然ながら、リア充は非リア充が「リア充」を叫ばなければ存在し得ない。


すると、リア充の問題は充実ではなく、むしろ「リアル」の方に重点が移ってくる。そもそもリアル=現実って何なのだろうか。それは、現代人にとって本当にみなが共有しているものなのだろうか。人それぞれが別のことをリアルと認識しているのではないだろうか?
moso galleryでも描いたが、先々週の爆笑「朝まで生テレビ」(いや、マジで下手なお笑い番組より笑わせてもらった)。皇室問題を熱心に論じる西尾幹二の発言の一つ一つにスタジオの観覧席からどよめきが起こっていたが、あのどよめきは西尾の発言が的確であったり、他の発言者に勝っているということを示しているわけではない。もっと言えば、あのどよめきは西尾や西尾の発言に向けられたものではなく、彼が彼の脳内で勝手にこしらえた彼独特のリアルに対して発せられたものなのである。
冷静に、地に足の付いた生活をしていれば、今更天皇制がどう変わろうと、実生活にはほとんど影響は無いということぐらい、わかるだろう。皇室問題は問題として失効した、はっきりいって不毛な問題である。筆者としてはそれよりか、そんな虚妄にとりつかれた西尾のはげ上がった頭に、誰かが「何言うとんねん!」とツッコミを入れたときに聞こえるだろう乾いた「ペシッ!」という音の方が、遙かに「リアル」なはずである(そんなことする勇気があるやつなんていないだろうが)。
しかし今なお西尾にとって皇室問題とは、国家の存亡がかかった重要課題であり、彼の脳内が構築するリアルにおいては未だ、皇室問題が「充実」しているのである。


もはやリアルは、共有されるのが重要なのではない。今や当人にとってそれがいかにリアルでありそのリアルがいかに充実しているのか、それが重要になってきているということを、西尾幹二の炸裂ぶりは教えてくれる。
しかし筆者は彼を笑えない。なぜなら先に書いた「大偉業達成の瞬間の筆者」が「皇室問題に我を忘れて熱中する西尾幹二」に相当し、「感動を共有できない友人たち」=「西尾のテンションにびくつく共演者ならびに番組観覧者」に相当するからである。

こんな風に、あらゆる人が別々のリアルを選び(あるいは選ばされ)生きているのではないか。そういう気がしてならない。


奇しくも最近、東浩紀が『リアルのゆくえ』という新書を出版した。まだ読んでいないが、彼がかつてデリダを通して展開したのは「手紙は届かない」(話が通じない)という問題についてである。ポストモダン社会で他人と話が通じないというのは、そもそもそれぞれが別のリアル=現実、つまりそれぞれの異世界を生きているからではないか。それぞれがそれぞれの異世界に住んでいるのであれば、投函した手紙が相手に届くはずがない。


以下、先に挙げたウィキペディアリア充」の項の続き。

日経BPの記事では、アンサイクロペディアの「リア充」の項目に列挙されているリア充の条件から、いずれも携帯電話さえ持っていればパソコンを必要としていないことを指摘し、そこから、ネットとは別にリアルの充実に価値を見いだす、ネットとリアルの住み分けが進んでいるのではないか、と分析している。

(強調――筆者)

この強調箇所は、厳密に言うと正しくない。「ネットとリアルの住み分け」ではなく正しくは、「ネットのリアルへのすげ替え」が進んでいるのである。



すいません。初回から飛ばしすぎました。


イマダ