そろそろ次に行こうか



みなさん、こんにちは。
昨夜ダウンタウンDXにおいて、たけし軍団ガダルカナル・タカがその妻・橋本志穂と共演していました。それを見た僕は出自不明の嫌な予感とか、タカさんに対する「ブルータスお前もか」という気持ちとか、いっぱいない交ぜになった複雑な気分になりました。
バラエティー番組に夫婦で出演するのといえば、中尾彬池波志乃とか、ジャガー横田とあの挙動不審のお医者さんとか、そしてここ最近頻繁に見かけるのは三船美佳高橋ジョージだと思いますが、彼らはなぜ夫婦でテレビに出るのか。
端的にいって、夫婦で出ればチヤホヤされるんですね。いや、これはまだオブラートに包んだ言い方だな。もっとはっきりいえばですね、夫婦で出ると「すべる」というパターンがないんですよ。でもそれは、何も夫婦で出たら絶対に面白いというわけではない。共演者も視聴者も、彼らには面白くなくても面白いふりをしてあげなければいけないんですよね。本当のところは「どーでもいいっ!」なんですけどね、国民の総意として。でもいかにも楽しそうに夫婦のやり取りを見なければいけない。あー、めんどくさ。
先週くらいにその三船美佳が、あの虎舞龍のボーカルに抜擢される(別にダンナがやってるバンドなんだから抜擢でもなんでもないだろうという話ですが)という「どーでもいいっ!」な芸能ニュースが流れておりました。二人して芸能リポーターの囲み取材を受けていたんですがどうでしょう、その本人たちとマイクを向けている人たちの凄まじい温度差っ!北極で活火山が噴火したといえばわかってもらえます?
自分がクリスマスを楽しむために、子どもに無理矢理サンタさんを信じ込ませる母親をモンスターマザーというらしいですが、赤の他人まで自分たちの「お遊戯」に巻き込んではいけませんよね。せめて家の中だけでやって欲しいものです。どうもイマダです。


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もはや今さら感のある話題ではあるが、押井守の劇場作品「スカイ・クロラ」が今夏に公開された。この作品で押井は、永遠に死なない子ども=「キルドレ」という存在を通して、現代の若者が、無限に続く(ように感じられる)生に対して感じる息苦しさ、閉塞感や倦怠感、そしてそれでもなお生を全うしなければならない、ということを表現しようとしている(というかそんなことをインタビューで語っていた)。映画のデキとしては何とも言えないものであるが、とりあえずはこの映画において押井はキルドレという存在を通してそういったメッセージを描いているわけである。
しかし、押井は、そのように「不死」やそれにまつわる閉塞感を、「キルドレ」という存在を通して直接的に描くよりずっと以前に間接的に、そして間接的に描いたがゆえにラディカルな批評性をともなった作品を創ることに成功していると僕は思う。それは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』を通してである。


高橋留美子原作のアニメ『うる星やつら』の劇場版であるこの作品は、主人公諸星あたるが通う友引高校の学園祭前日から始まる。といっても、ストーリーはその前日からいっこうに先に進まない。次の日の朝が来ても再び、「学園祭前日」が繰り返されるのである。本作は、この友引高校から半径1キロメートル以内が、その「永遠に続く学園祭前日」という異空間になってしまい、そこに閉じこめられたラムちゃんを始めとする主要キャラクター達が、そこからの脱出をする過程を描いている。


先に書いたこの映画作品がもつ「間接的であるがゆえにラディカルな批評性」とは何か。


それは、この映画は原作のキャラクター、設定、世界観を利用しつつも、実はその原作である「うる星やつら」、そして「うる星やつら」に代表される「1話完結型」というアニメ・マンガのスタイル、形式の批判を行っているということである。それはいったいどういうことか。


時が「学園祭前日」を無限に繰り返されていることに気付いた当初あたるたちは、その異空間からの脱出を試みる。しかし、何度もそれに失敗していくにつれて、何も問題のない(不思議なことにガス・電力・水などのインフラ、そして食料はどこからともなく不足のでないように補われている)その異空間から脱出をあきらめてしまう(あるいはいつかは出られるだろうという楽観的な状態に居直る)。そしてその「学園祭前日」が続く異世界に耽溺してしまうのである。彼らが陥った異世界は、予想にも反して居心地が良く、楽しい世界だったのである。
実体験からしても、実は学園祭当日の人でごった返す最中よりも、前日までの深夜遅くまで仲間達と切磋琢磨して準備する時の方が楽しかったということを記憶している人も多いのではないか。学園祭のピークとは、この映画が描くようにその前日にある。もしそんな前日が永遠に続くとしたら・・・。この作品で描かれる「永遠に繰り返される学園祭当日」とは、ユートピアの別名なのである。
しかし最終的に、その異空間とは妖怪「夢邪鬼」によって見せられていった悪夢であったことが暴かれ、あたるたちは、現実の世界への脱出を成功させる。


押井守がオリジナル脚本を手がけたこのストーリーは、高校時代の思い出にノスタルジックに没入するための道具として機能する類の作品ではない。この「永遠に続く学園祭前日」というのは、実は「うる星やつら」やそのほかの1話完結型というアニメ・マンガの形式を暗示してもいるのである。


1話完結型のアニメ・マンガとは、よく考えてみれば不思議なスタイルである。その回の中で、どんなに町が破壊されても、どんなに人が傷つけられても、あるいはどんなに人間関係がこじれたとしても、次の回ではそれらはみな元の状態に戻っている。まるで前回の話はなかったかのように。
ドラえもんにしろ、サザエさんにしろ、ちびまるこちゃんにしろ、アンパンマンにしろ、こち亀にしろ、先日亡くなったギャグマンガ界の巨匠赤塚不二男の代表作「天才バカボン」にしろ、みなこの1話完結型のスタイルをとっている。それら人気アニメ・マンガは毎週ごとに、先週に起きた事態がまるでなかったかのごとく、「初期設定」に立ち返り放送され、出版されていく。「1話完結型」のアニメ・マンガにおいては、それら人間関係の変容や、時が経つということは許されない。永遠に「今・ここ」が繰り返されるのである。そしてそのようにして描かれるアニメを、マンガを、僕たちアニメ視聴者は、マンガ読者は至極当然のごとく享受してきた。


1話完結型のアニメ・マンガが僕たちに与えてくれるのは、もしかして永遠不変の世界が醸し出す「安心感」なのかもしれない。そしてその安心感とは、1話完結型の時が経たないという性質ではなく、不変の「人間関係」であるように思える。
うる星やつら』で考え得る最悪のシナリオとはなんだろう。例えば、ラムちゃんが年老いていくというのはどうだろうか。確かに、あのヒョウ柄のコスチュームを肉体が重力に負け始めたラムちゃんが着ればちょっとばかり厳しいものがあるが、それでもそれは最悪とまでは言えないだろう。僕が考えつく最悪のシナリオは、ラムちゃんがあたるのことを好きでなくなる、というシナリオ。もしくは、あたるがラムちゃんの片思いに応えて、ラムちゃんのことを好きになるというシナリオである。なぜなら、彼らの片思いの関係こそが、『うる星やつら』という1話完結型の世界観をつなぎ止めていたのだから。
僕らが、1話完結型の作品に求めている不変性とは、おそらく時間に対してでも空間に対してでもない。人間関係の不変性なのである。


のび太はいつまで経ってもしずかちゃんを好きであり、しずかちゃんはしずかちゃんで、いつまで経ってもOKとは言わない。でも、「もしかしたら・・・」という可能性をのび太と僕らに抱かせ続けてくれる。
僕ら視聴者は、自分がのび太に感情移入する立場、あるいはのび太の恋を応援する立場にいると錯覚しがちであるけれど、間違いなく僕らはのび太としずかちゃんのあの微妙な人間関係から、安心感を享受しているのである。彼ら二人が演じる、「絶対に成就しない、かといって破れもしない片思い」から。
だからこそ、のび太はいつまでもしずかちゃんを好きでいて「くれる」。
だからこそ、バイキンマンアンパンマンに負け続けて「くれる」。
だからこそ、両津勘吉はプラモ屋のオヤジに借金をし続けて「くれる」。


しかし、それは所詮、歪んだユートピアではないか。現実社会では、時が経てば別離や死も訪れる。固い絆で結ばれていた親友とも呼べる相手でもいずれは疎遠になるかも知れない。どんなに愛し合った男女も、時が経てばその愛が冷める可能性だってありえる。それら時の運行による物事の変容は、当然ながら苦痛を伴う。しかし、その苦痛をともなうことこそが「自然」なのではないだろうか。永遠に変わらない関係性なんて、ゾンビと何が違うのだろうか。
押井は「ビューティフル・ドリーマー」の中で、「永遠に繰り返される学園祭前日」といユートピアを設定し、あたるたちにそれを超克させることによって、そのような問題提起をしているように僕には思える。


さぁ、準備は整った。僕らもそろそろ「次の日」に進んでみようか。


イマダ