フロイト「「愛情生活の心理学」への諸寄与――処女性のタブー」


処女性のタブー、童貞のタブー
――童貞から処女をとらえなおす


 ――処女
 彼女らがポジティブな意味でイメージされる場合、その構成要素は何だろうか。それはまかり間違っても身体的な意味においては、つまり「処女膜が破られていない女」としてはあらわれない。そうではなく、もっと漠然とした「やさしそう」とか「清純」、「純粋」といった性格のイメージで構成されるだろう。
 では、元来処女は尊ばれる存在だったのかというとフロイトによればそうではない。「「愛情生活の心理学」への諸寄与――処女性のタブー」において彼は未開人文化の先行研究の中に、未開人にとって処女性は忌避されるもの、ネガティブなイメージがあったことを発見する。未開文化において女性は、愛情にもとづくSEXの前に通過儀礼としてのSEXや、それに代替する行為で処女膜を破られていたのである。それらの理由は「血液畏怖」と「初めてのものへの恐怖」が挙げられている。部族によってバリエーションはあるものの、共通するのは「夫婦間で最初に性交が行われる以前に娘を破瓜させる」ことであり、それはつまり「処女であることが高く評価されていなかった」ということでもある。
 ここで論点は「処女の価値」になる。
 文明社会と未開社会。フロイトの生きた時代も処女であることは評価されており、彼は未開民族における処女性の評価に「奇異の感」を抱いている。これらのことから、あたかも文明社会では処女は尊ばれ、未開社会で処女は嫌われていたという二元論が成り立つかのように思える。
しかし現代でも処女が尊ばれるものという価値観が、絶対視されているわけではない。例えば『SPA!』(扶桑社)10月9日号の「”女の微妙な過去”許容ライン大調査」という記事におけるアンケートによれば、女性の体験人数は0人から5人の間がもっとも好まれているが、必ずしも0人つまり処女がもっとも評価されているというわけではない。これは、現代でも処女に対するネガティブなイメージが残っているということを示している。このネガティブなイメージにおいて彼女らは、身体的な意味での額面どおりの「処女膜が破られていない女」として現れる。破瓜によって流れる血液や痛み、またいろいろな所作が女の子にとっては初めてのことであり、一から教えてあげなければならない。(経験のある)男からすればめんどくさいことなのだろうか。
 理由は多少異なるといえども、このように未開社会の男と文明社会の男の間では、処女を評価しないという認識を共有している部分もあるのだ。


 こうなると処女の価値の差異は未開社会か文明社会かどうかが根本的な問題ではないことがわかる。では、何が処女の価値に変動をもたらしているのだろうか。
 私は男側の性的な属性に関連性があるのではないか、と考える。その男が童貞であるか童貞でないか、あるいは童貞っぽい(D・T)か童貞っぽくないか。それが処女の価値に大きな影響をあたえているのではないか。つまり童貞と処女の価値には相関性があるのではないだろうか。そして規模をさらに拡大して、童貞含有率が高い社会ほど処女に対しての評価は高くなると、私は断言したい(ここでいう童貞については近日中に掲載予定の新しい論考を参照してほしい)。



 童貞が「処女」をあるいは処女性を求めているのである。それには理由が2つある。
 1つ目の理由は彼ら童貞が「自分は今までSEXしなかった(あるいはできなかった)のだから、はじめてする相手もSEXが初めてであって欲しい」と考える、名づけて「処女道連れ志向」だ。なんとも自己中心的な考え方だが、これは1920年代に東大生や京大生のような当時としては特権階級の子息の間で流行った純潔思想に通ずるところがある。当時彼らの間に結婚するまでは童貞のままでいようという考え方があったのだ。そこには現代の忌まわしい童貞のイメージとはまったく違うものがある。童貞は「脱出」するものではなく守るべきものであった。1920年代の一部の青年たちはKEEP ON 童貞を積極的に志向したのだ。
 しかしながら、男側からの純潔思想には「相手の女性が処女を守るのならば」という条件がついた。いやむしろ、大前提として「女性が処女を守ること」というものが存在したのだ。そこには女性は初婚まで処女であって当然という、差別的な思想も見え隠れする。彼らインテリ青年たちが志向した童貞は、無償の愛の結果などではない。あくまで独りよがりな理由に起因したものなのである。
 それはともかくとして、この純潔思想は、恋愛の市場において「童貞であること」と「処女であること」の両者が、結婚(あるいは恋愛)において等価交換されるに値するものであるという認識が存在したことを意味する。重要なのは童貞と処女が同じ水準において評価される土壌がかつてもあったということである。
 この童貞と処女を交換するという考え方が、現代でも特に童貞の間で受け継がれている。それのゆがんだ結果が「処女道連れ志向」なのである。


 そして童貞が「処女的の女の人」を好むもう1つの理由は、妄想にある。
 人間には「妄想力」というやっかいな力がある。いい大人になっても童貞でいる男は、いやおうなくSEXの妄想をしてしまう。これは本人にも止めることができない。仕方ないことだ。その「症状」が進むと、SEXの妄想は理想に転化する。その結果SEXに対しても、自分にとってはアンタッチャブルな女性という存在に対しても、崇高なイメージを頭の中に勝手にこしらえてしまうのだ(この崇高なイメージを極限までつきつめると、「処女であり母」という不可能を可能にした女性、聖母マリアになるのかもしれない)。このように童貞の妄想内で、女性の崇高なイメージは、処女であるということに結びつく。冒頭に述べた処女に対するポジティブなイメージ、「やさしそう」とか「清純」、「純粋」も、比較的に性的体験の少ない男たちによる独りよがりの妄想に起因する、全く根拠のないものだ。論理的に考えれば、性格がめちゃめちゃ悪い処女が存在することも考えられる。この無根拠な童貞の「処女崇拝」が妄想によって構築されるのだ。
 男がSEXを初体験すること。それは単純に童貞を喪失するということではない。それ以上に重要なのは、SEXや女性に対する崇高なイメージが解体されること、つまりこの「処女崇拝」が解体されることなのである。


 話はそれるが、これを書いているとき「ミュージックフェア」で槙原敬之が歌うのを見て思ったが、彼やミスチルスピッツなどのアーティストは(甘い作風からすれば意外だが)男性ファンが多い。彼らのラブソングにはリアルな女性は不在なのだ。彼らはモノローグで淡々と彼女との思い出を「あんなこともあった、こんなこともあった」と歌う。そこには生々しい性交渉の体験はほとんど描かれないし、女性は常に崇高な存在なのである。二人が別れたという設定であるならば、悪いのは男の自分のほうにあるという物語が主流を占めている(ここで男が浮気したという設定も、現実ではモテていないリスナーにとっては程よい妄想のオカズとしてありだ)。彼らの女性ファンの心性まではよくわからないが、彼らの男性ファンが童貞かあるいはD・Tの気質があるのは十二分に納得できることなのである。
 それとは反対にある知人から「スガシカオは童貞にはわからない」という「名言」を聞いたことがあるが、彼女の胸がシリコンだなどと歌い上げる彼の作品世界は童貞には到底受け容れることができないものなのである。


 童貞が処女を好むのには理由があるということを述べてきた。それは童貞特有の「処女道連れ志向」と「処女崇拝」によって説明されるのである。これによって、未開社会で処女にたいする評価が低い、あるいは通常のSEXより前もって処女喪失が急がれた理由も解明できるのではないだろうか。
 ここまでの議論でいけば社会総体としての処女の評価は、その社会にどれくらい童貞がいるか、つまり社会の「童貞含有率」が影響するという推論が成り立ちうる。
 そしてこのことが、未開社会において処女性のタブーが存在したことの謎も解明する。つまり未開社会で処女が儀礼的に喪失させていたこと、尊ばれていなかったということは未開社会特有の問題としてとらえるよりも、むしろ未開社会がただ単に「童貞含有率が低かったから」と考えるべきなのである。
 未開社会に童貞が全くいなかったかということは断言できない。しかし、例えば日本では、近代以前のムラ社会では、精通する年齢になれば大人の女性によってSEXは半ば強制的に体験させられていた(筆おろし、女性の場合は水揚げ)。童貞でいることに悩まなくてもよかったし、童貞という概念すらなかったかもしれない。傾向で考えるのであれば文明化が進めば進むほど、社会の童貞含有率が高まっているのは明らかだ。数値的には測れないが、未開社会/文明社会という二項対立で概念立てて思考することは十分可能だろう。
 このように未開文化において童貞が少ない、あるいは童貞であることの屈辱感が存在しなかったという仮定が成り立ちうるのだとすれば、その「童貞なき社会」に処女を尊いものだと評価する理由もまた存在しえなくなる。なぜなら童貞による「処女道連れ志向」と「処女崇拝」が剥ぎ取られたとき、彼女ら処女は現実的な問題として男にとって「めんどくさい存在」として現れざるを得ないからである。
 未開社会と文明社会における処女の評価の差異は、童貞の存在と相関する。その意味において童貞と処女は「結ばれている」のである。


イマダ

フロイト著作集 10 文学・思想篇 1

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