番外編――『童貞。をプロデュース』


童貞。をプロデュース』を見る


*症候会議の会員5名で使節団を結成。巷で話題の「童貞。をプロデュース」を渋谷のユーロスペースに見に行く。


 ――童貞
 その言葉の前に、すべての男が向き合わなくてはならない。
 「今の自分」の状態として、「昔の自分」の呼び名として、まったく関係ない者として、あるいは忘れたい思い出として。
この映画に向き合うことはそれと同じく、自分の男としての立場を決めることでもある。


 2人の童貞が映画には出てくる。
 両者にいえることだが、童貞であることの苦痛は計り知れないものの、それ以上に彼らの眼前に広がる現実のほうがはるかにつらすぎる。とにかく明日がない。
 例えるならばそれは、末期がん患者が苦痛のあまり投与されたモルヒネだ。モルヒネで脳の感覚は弛緩し苦痛は和らぐけれども、病魔は確実に進行する。童貞も、現実によって緩和されて苦痛はないだろうが、確実に進行しているのである。本当にそのままでいいのだろうか。
確かに「童貞」は今流行である。しかしそれは、「ダメだからイイ」や「つまらないから面白い」というポストモダンの逆説的な方法論においてである。童貞の本来の意味を反転させることで、今それはもてはやされている。
 そしてそれは大槻ケンヂサブカル的論法、ダメ人間であることの実践的問題(ダメ人間からどのように脱出するか)から認識的問題(自分だってダメ人間なのはわかってるよ!)へのすり替えにも通ずるところである。
 この映画がすばらしいのは、そのような悪しきサブカル的習俗を断ち切ったところ、童貞を実践的問題に送り返しているところだ。つまり「童貞は捨てるべきものなんだ!」という朴訥なまでにクラシックな手法で撮られたドキュメンタリーであることが、評価に値するのだ。あくまで「童貞は脱出すべきもの」であり、その意思と熱き情熱は決して捨ててはならない。


 ところがラストシーンで、観客はこの映画がグッドエンディングなのか、それともバットエンディングなのか判断つかなくなる。
彼の夢はある意味では叶った。
 しかし勘ぐればあれは、彼が永遠にサブカルの世界から抜け出せない童貞であるということを表現しているようにも読める。
最初と同じく映画は、またしても我々に立場を決めることを要求している。


イマダ