moso magazine Issue 2――コラム1

ボインと巨乳の間――ロリ巨乳という問題系

 
みなさんは「ロリ巨乳」という単語をご存知だろうか。
 女性、とりわけアニメキャラやAV女優などの属性を指す言葉として用いられている。顔は幼いのでロリコンであるにもかかわらず、大きな乳房を持っているということを意味する、いわゆる萌え要素だ。このロリ巨乳という属性のキャラクターは、「涼宮ハルヒシリーズ」にも登場していて、萌え市場でも確固たる地位を獲得しているわけである。
 ロリータで巨乳というのはなぜそんなに萌えるのか?


 このロリ巨乳の魅力の一般的な説明としてよくいわれるのが、「顔が童顔であるにもかかわらず巨乳である」、という「ギャップ」であるからだ、というものだ。
 しかし、ちょっと待って欲しい。
 この「ギャップ」という言葉には注意が必要だ。性的趣向の理由を説明する際にこの「ギャップがあるからいい」という言説をよく見かけるが、本当にそうなのかということを一度疑ってみるべきなのだ。
 ロリータの魅力はそもそも顔に限らず全体的に幼いということ、身体的に未発達であるということだ。それに対して大きな乳房は母性の象徴であり、豊満な肉体、もう子供の生むことの出来る成熟の身体の記号だ。だからそれら2つの要素がコラボレートするとなると、両者のギャップは引き立つことは確かだが、それは両者が魅力を相殺してしまうことも考えられる。
 どうもそれら通俗的ロリ巨乳の説明には、筆者自身が考えるロリ巨乳の魅力の理由も、巨乳自体の魅力の理由も、蔑ろにされていると感じてしまうのである。


 筆者が考えるロリ巨乳の魅力に対して、もっと経験的な側面から迫ってみたい。
 男が異性の胸を意識し始めるのはいつかというと、たいてい小学校5年おそくても6年くらいだ。そのころから、普段はエロティックでもなんともない「発育」というワードが、エロティックなニュアンスを帯びてくる。そう、二次性徴が始まることで、女の子の胸が「発育」し始めるのである。この発育は男子にもあるのだけれども、男の場合一番本人が気にするのは、声変わりと下の毛の発毛だ。声変わりも下の毛の発毛も避けがたいことではあるが、後者は何といっても隠したいことだ。筆者が思うに、この男の下の発毛の後ろめたさは、当然女の子の下の発毛の後ろめたさと対応しているものの、それと同時に彼女らの胸の発育と対応しているのである。


 下の毛の場合は当然ながら、衣服によって隠されている。修学旅行などのイベントごとでない限り他人にその発育具合を知られることはない。
それに対して女の子の胸は、大きくなっていくことを隠すことができない。もし隠すとすれば「金八先生」における上戸彩のように、毎朝学校に行く前にさらしで胸をギュウギュウに締め付けなければなるまい。そんなことまでいちいちしていられないから、結局みんな胸の「発育」が他人にわかってしまう。
 胸は人間の身体構造上、自分の眼前にあるわけである。自分の顔の下にある器官が、自分の意思に関係なく隆起していく経験、考えてみると苦痛の経験なのかもしれない。


 筆者自身の、これにまつわる忘れることができないエピソードがある。6年生のときの運動会のことだ。
 運動会最後の競技、クラス対抗リレーである女の子にバトンが渡った。そのとき、それまでの運動会らしい白熱した雰囲気が一瞬にして変わってしまったのだ。彼女は巨乳だったのである。しかも、学年一いや学校一の。
 クラスの順位が懸かっているから、彼女は一生懸命走った。しかし彼女が加速すればするほど、彼女の眼前の胸が上下左右に激しく揺れるのである。それを目撃した教師、父兄、同級生、みんなが顔を曇らせた。この経験は彼女からすれば、それはそれは耐えがたい苦痛であったのではないだろうか。

 少年少女時代、なぜこうも大きな胸は厄介者扱いされ、それを持つ子は申し訳なさげにしなければいけないかというと、それはおそらく大きな胸にスティグマがついていたからだろう。今でこそあまり聞かなくなったが、「ボイン」という言葉がある。これは乳房の大きい女の子に対するある種の蔑称であり、ボインちゃんと呼ばれたことで泣かされた経験のある女性もいるのではないだろうか。このボインという言葉には、乳房の大きな女性は「頭が悪い」、「性的に奔放である」という根拠のない意味も込められている。
 大きな胸=性的魅力という方程式は確かに存在する。そこからさらに飛躍して、性的魅力を持った女の子=やりマンという間違った方程式が案出され、その二つの連立方程式か大きな胸を持つ子=やりマンというスティグマができたのではないかと筆者は推察している。何はともあれ、巨乳の女の子の大多数は、自分のあずかり知らないところで成熟した巨乳を「罪」として抱え込み、申し訳なさそうなしぐさをしていたのである。


 しかし、この罪の意識や申し訳なさというのは、当の女の子が感じているだけなのである。実はこの時、胸の大きな女の子がとっていた罪を背負ったようなかのような「後ろめたさ」や「申し分けなさそうなしぐさ」に、それらの仕草をされていた当の男たちは魅了されていたのではないか、と筆者は思うのである。我々男は、そのような少女から女への成熟の途上で、自分の身体が自分の意思と関係なく成熟していくことへの、女の子自身の罪の意識と戸惑いの姿に魅力を感じていたのである。


 だからアニメのロリ巨乳は、現実ではありえない少女と巨乳という「不可能な出会い」によって醸し出されるギャップによって持てはやされているのではない。ロリ巨乳の女の子は、我々の思い出の中に実際にいるから持てはやされるのである。おそらくロリ巨乳のアニメキャラが好みの男は、筆者が運動会でしたような少年時代の甘酸っぱい体験を、ロリ巨乳系のキャラクターの上に投影しているのだと思う


 しかし少女は少女もままではいられない。この大きな胸に対しての罪の意識と戸惑いを感じる時代は限られているのである。女の子は成長するにつれ、異性の目を介すことで自分の持っているものが「罪」ではなく「財」であるということに気がつく。大きな乳房が、ボインというネガティブな記号から、巨乳というポジティブな記号へと変身する瞬間だ。たしかに巨乳であることを喜ぶ女性ばかりではないだろうが、男性を魅了しているのであるから少なくとも、もともとあった「罪」という意識からは解放されたとはいえないだろうか。
 こうしてロリ巨乳という属性は、男たちが生み出すフィクションの中でしか生きることができなくなるのである。


 コンビニで週刊誌を開いてみよう。そこには、たわわな胸をアピールした女の子がたくさんいる。彼女らの表情にはもはや「罪」の意識や「後ろめたさ」や「申し訳なさ」など微塵も感じることが出来ない。それどころか、グラビアを彩る彼女らの表情にはいつも、満面の笑みがあふれているのである。何が彼女らの笑顔を作っているのだろうか?
 それはナルシシズムだ。前回の議事録においてもそれについて書いたが、ナルシシズムは自分が自分の性的対象になるという転倒したプロセスを経ることで、欲望される喜びを知ることである。この欲望される「うま味」を知らない限り、カメラの前で愛されるための笑顔は作れない。そして彼女らは、他者の欲望の矛先が自分の胸であるということも薄々気がついている。


 女性の乳房には何がつまっているのか?
 医学的な説明ならばそれは脂肪や乳腺やなのかもしれないが、そんな説明はもういらない。
 「男にとって」女性の乳房には何がつまっているのか?
 女性の乳房には、彼女らの回収されたリビドーがつまっているのである。
 だからオッパイはナルシシズムのかたまりなんだ。


イマダ