moso magazine Issue17――今週の「歌」と「映画」


「ファスナー」と「ジョゼと虎と魚たち


作詞家も人間であり、成熟というものがある。
彼らが書く愛の歌もいつしか、デビュー当時のような「好き好き好き好きーッ!」という通り一遍等で自分勝手で押しつけがましいものではなくなり、その愛という現象からある程度距離をとったところからの、少し冷めた(覚めた?)叙述に変わっていく。

そのことは古今東西あらゆる詩人に当てはまるのではないだろうか。
『LOVE ME DO』を歌い上げたジョン・レノンも、年嵩をますにつれてその愛は個人的なものから、人類を包み込もうとするそれへと拡大していった。


Mr.childrenの10枚目のオリジナルアルバムに収録されている曲、「ファスナー」。
重層的なストリングスが心地よいこの曲の中で桜井和寿は、パートナーへの愛情をただただ「すばらしいもの」として一面的に称揚するのではなく、ある角度から見れば淫猥なものに、また別の角度から見れば陳腐なものに変わってしまう多面体として歌っている。

昨日 君が自分から下ろしたスカートのファスナー
およそ期待した通りのあれが僕を締めつけた
(「ファスナー」『Its a wonderfull worild』収録 作詞:桜井和寿

「君」に「僕」は肉体的なレベルではまだ欲情できる。
スカートのファスナー越しに見える「君」の肢体によって反応する「僕」の下半身がそれを証明している。
でも男の愛情が肉体的な興奮だけでは成り立っていないのである。

欲望が苦し紛れに
次のターゲットを探している
でもそれが君じゃないこと
想像してみて少し萎えてしまう
(同上)


欲望という名の電車に終着駅はない。私たちは常に「途中下車」しかできない宿命を背負っている。
ある街が気に入ったので駅を降りてみる。降りた駅から何から何までその街は、まるで自分の生まれ故郷であるかのようななつかしさで私を包んでくれる。


ところが、ここでなら一生暮らしていけるという思いが確信であったとしても、それでもある日、不意になぜかそれができないのではないかという不安に私たちは駆られる。
それは「何か」として言い表せない何か、「違和」だ。
そしてそれがこの曲のいうところの「ファスナー」の中身なのである。
普段ファスナーの口が閉じている内はわからないけれど、一旦ファスナーが口を開き、それが見えてしまうともう後戻りはできない。
結局私はその街からまた電車に乗って去っていく。一時は一生一緒にいようと思っていたはずなのに。
それは「飽き」ではなくもっとちがう、根本的な何かの喪失感である。
彼女の「ファスナー」から顔を覗かせた何かによって冷めていく愛情。
一旦「萎えてしま」った気持ちはもう戻らない。下半身のあれは再起できたとしても。


そのことをこの曲は歌っている。

大切にしなきゃならないものが
この世にはいっぱいあるという
でもそれが君じゃないこと
今日僕は気付いてしまった
(同上)


「気付いてしまった」という表現には、錯綜した「僕」の気持ちが込められている。
「大切にしなきゃならないものが」「君じゃないこと」に気付いたのであれば、普通に考えれば相手と別れてまた違う女性を探すまでだ。
でも、なぜだか「僕」はそこで感傷に浸ってしまう。
そこには「僕」の内的な分裂が表現されている。


肉体として「君」を欲しているオブジェクトレベルの「僕」と、「君」と一生は愛し合えないということに「気付いてしまった」メタレベルの「僕」。
そして、相手に対して人間としての情があるからこそ、「僕」は一生愛し続けることができないということの「気づき」を、「してしまった」という「過失」ととらえているのである。


フロイトはかつて「喪とメランコリー」でいった。
私たちは、愛する対象を失ったことに失望しているのではなく、愛する対象に対して欲望を抱かなくなった、抱かなくなってもよくなった当の自分自身に対して失望しているのだと。


電車のたとえ話に戻ろう。
また電車に乗って去るとき、私たちは車窓からある種の憂いの込めた瞳で、かつて途中下車した街並み―かつての「わが街」―を見据える。しかし、いくら感傷に浸っても、電車(このたとえ話では欲望を指すのだった)は前進し続ける。一度電車が走り出したら後戻りはできない。街は遠のくばかりである。


また、「僕」にとって「君」が途中下車のためだけの駅であるように、「君」にとっても「僕」は途中下車の駅ではないのだろうか。

きっとウルトラマンのそれのように
君の背中にもファスナーが付いていて
僕の手の届かない闇の中で
違う顔を誰かに見せているんだろう
そんなの知っている
(同上)        


「肉便器」というひんしゅくを買い気味の言葉がある。
女性は男の単なる性欲のはけ口である、ということを揶揄した表現だが、その反対もあり得るのではないか。男のペニスも女性にとってはバイブレーターの「代用品」であり、ペニスさえあれば上に付いている顔は、別に「僕」でない「誰か」でもいいのではないか。
「君」の上で腰を振る「僕」は「そんなの知っている」。
多少心の痛みは伴うものの、そんな事実を「僕」は甘んじて受け入れようとする。


愛する女性が「ファスナー」から欲情した真の姿を現すときの男のたじろぎ。
犬童一心はそれを『ジョゼと虎と魚たち』のなかで描く。


「帰れって言われて帰るようなヤツははよ帰れ!」という、恋愛の非論理性をみごとに言い当てた名言を吐きだした後、池脇千鶴演じるジョゼが不自由な足を引きずりながら、靴を履こうとしてかがむ恒夫(妻夫木聡)の背中にしがみつくシーン。そこで二人は初めてキスをする。
唇が離れ、しばらく見つめ合った後、ジョゼは恒夫にか細い声でつぶやく(ちなみにジョゼは関西弁をつかう)。


「なぁ ええよ しても」


それを聞いた後の恒夫は驚いて彼女から実を離してしまう。
この「たじろぎ」は何を意味するのだろうか。障害者である彼女にも、他の女性と同等に「ファスナー」が存在し、その中に男の身体に欲情するジョゼがいたから―ジョゼにも健全な女性と同じく性欲が備わっていたから―、だから恒夫はたじろいだのだろうか。しかし原因はそれだけではないらしい。


(恒夫)「つうか、俺は隣のエロ親父とちがうし」。


「隣のエロ親父」とは、前段で胸を揉ませてくれたら足の不自由なジョゼのかわりに朝のゴミ出しに行ってやろうと交換条件を持ちかけている隣人のことで(ちなみに彼の話題がもとで二人はケンカになった)、恒夫は自分のジョゼへの愛情が、そのような即物的な隣人の性欲とは別ものであると考えている、いや考えたがっている。


とりわけ若い男の恒夫が女のジョゼに対して、最高度に高まった愛情を表現する形式は、残念ながら人類史上今のところ1つ―セックス―しか私たちは知らない。しかしそれと、ジョゼの身体のみに興味を示す「隣のエロ親父」は何がちがうのだろう。この点において、恒夫はたじろいでいるのではないか。


つまり、欲情したジョゼの仕草に恒夫がたじろいだのは、障害者である彼女でさえも「ファスナー」の中身((=欲情したジョゼ)を開陳し、それを見てしまったことであると同時に、障害者の彼女でさえも女として欲してしまう自分の奥に巣くう男性性に対してなのである。
ジョゼを通して恒夫は自分の醜い欲望と対面してしまったのだ。


恒夫の言葉に対するジョゼの返しがおもしろい。


「ちがうの?どうちがうの?」


まるで問い詰めるようなジョゼと、問い詰められているような恒夫。
そう、やはりエロ親父と恒夫がジョゼに抱いているものに、本質的な違いは見出せないのだ。
ジョゼに恒夫は「どうせ、最後は色やろ?」とやんわり諭されている。しかしそれは、「結局、男って射精しなきゃおさまんないんでしょ?」という男の性欲に対する悲観的なあきらめというよりもむしろ、もっとポジティブな意志であり、「御託はええから、さっさと楽しも!」に近い。


そこから、部屋の片隅で所在なげにポツンと正座するトランクス一枚の恒夫と、ふとんを黙々と整えるジョゼという光景にシーンが変わる。結局二人はその日のうちに結ばれたのである。


恒夫はジョゼとの恋の結末で、激しく自戒する(詳しくは述べません。知りたい人は見てください)


きっとウルトラマンのそれのように
君の背中にもファスナーが付いていて
僕にそれをはがしとる術はなくても
記憶の中焼き付けて
そっと胸のファスナーに閉じ込めるんだ
惜しみない敬意と愛をこめて
ファスナーを
(同上)


それに対して、桜井の書く「僕」は「君」の「ファスナー」の中身に失望し、ほろ苦い感傷に浸りながらもなお、「君」とその「ファスナー」の中身に対しての「敬意」は忘れない。

そこに20代そこらの恒夫と比べると、30代の桜井の描く「僕」の人間的な成熟がちょっとばかし感じ取れるのである。

  • (長らく休んでいた)今週のRecomende

セックスボランティア (新潮文庫)

セックスボランティア (新潮文庫)


この本が出るまで、(私を含む)一般人が語る障害者についての言説は「性欲」という項目が徹底的に欠落していた。
「知らないこと」の無垢性が、暴力になることの典型的な一例だと思う。


イマダ