moso magazine issue22



「あなたは平凡ですか?」という問いにあなたならどう答えるだろう。


平凡と非凡。
もしその2つのうち、自分でどちらかを選択できるとしたら大抵の人は、後者を選ぶのではないか。その非凡な才能で名を上げたいという気持ちは、よほどの恥ずかしがり屋でもない限り、誰もが持つ欲求だと僕は思っていた。


でも最近は「そうでもないらしい」ということを、思い知るできごとがあった。
つまり「平凡でもいいではないか」「大衆に埋没してもいいではないか」という思想(とまでたいそうなものではないかもしれないが)がわりとポピュラリティーを獲得し始めたということなのである。

たしかに「凡庸になるな」というメッセージが過剰になると、それはただのメッセージから命令へと転化する。これに似たのに「個性的であれ」というものもある。


それらの過剰は息苦しい。それに出る杭は打たれるということわざもある。非凡を語ることは、それ自体社会から疎まれる可能性もある。
もっと肩肘張らずに生きたい。そうなると反対方向の「平凡に埋没する」という生き方に、傾く傾向があるかもしれない。


また、ちょっとひねくれた人なら、「凡庸になるな」というメッセージの過剰を読み取り、その文言自体が凡庸になっているということを察知して、「あえて」非個性的に振る舞っているのかもしれない。
しかしそのひねくれた者の場合だと、見る人がそのひねくれ者の内面までのぞき込んでくれないと、その「平凡」の狙いがわかってもらえないわけで、「わかった上での平凡」であることは、事情をよく知らない赤の他人には「単なる平凡」になってしまう恐れもある。


ところで、僕自身には「非凡な才能」のようなものが備わっているのだろうか?
それは僕自身にはさっぱりわからない。備わっていない事実を認めたくないだけかもしれない(どちらかご存じの方は僕には知らせないでください)。少なくとも僕は、「平凡です」と言い切れる彼らと同じようには、口が裂けても言えない性分なのである。しかし、非凡であるかわからなくて、平凡であるとも言えないとなると、僕はいったいぜんたい何者なのだろうか、と言う話にもなってくる(ちなみにどっちでもない、となると結局平凡になるだけだけれども)。
平凡なのか、非凡なのか。その判断を保留にし続けたまま僕がここまで来たのには、自分のものすごい目立ちたがり屋という性格があるのではないだろうかと、僕は最近思っている。


小学六年のときの社会科歴史、卒業式前の最後の授業で僕の担任はみんなに向けて次のようなことを言った。


源頼朝徳川家康など、歴史の偉人は僕たちの生きる今の日本を作った人たちではあるけれども、忘れてはならないのは、彼らのようには教科書に載らないけれども、日本を底辺から支えたお百姓さんをはじめとする一般人の人がいたということです。」


いかにも小学生が「はは〜」と感銘を受けそうな、いわゆる「鉄板話」なのだけれども、今考えると「前日から言う気満々だっただろ!」とか「絶対今でもその話を使い回しているだろ!」とか思ってしまう。
しかし当時それを聞いていた僕は、そんなツッコミよりもまず、「先生!僕は教科書に載れないと(目立てないと)嫌です!」と思ったわけだ。もちろん面と向かっては言わなかったけれど。


「平凡に」進学して、「平凡に」就職して、「平凡に」お給料を稼いで、「平凡な」女の人と付き合って、「平凡に」結婚して、「平凡な」セックスをして、「平凡な」子どもを育てて、「平凡に」老いていく。それが当時の僕には考えられなかった。「平凡なんて死んでるのと一緒じゃん」、というラディカルなことまで僕は考えていた(今では多少の理解はあるけれども)。


しかし、そのように「反平凡」は目指せども、非凡にはなかなかなれない。
その資本となるべき才がないからだ。


自分が平凡なのか非凡なのか。それについて知ることは、実は女よりも男の方が臆病なのではないかと思う。つまり、女性の方があっけらかんとそれを受け入れてしまう度量の大きさがあると言うべきだろうか。


ここで久々に、「失われた言霊」に登場してもらおう。
今回は、自分が非凡なのか平凡なのか、その判断はとりあえず保留しておいて、「とにかく目立ちたい!」という欲望のみによって駆動しているイベント「ミスコン」について。



ミスコン     
    

けたたましく鳴り続けるドラムロールがピタッと止み、それと同時に今まで値踏みするかのように壇上を言ったいり来たりしていたいくつものスポットライトが集結して、コンテストの主役ただ一人を照らし出す。グランプリの発表、ミスコンのフィナーレだ。
選ばれた女性は、一瞬信じられないという表情を浮かべ、口に手を当て、感極まって涙ぐむ。オーバーリアクションをとる人ならそこに座り込んだりもするだろう。


おもしろいのは、この「一瞬信じられないという表情を浮かべ、口に手を当て、感極まって涙ぐむ」のがミスコンに選ばれた女性の定番のリアクションになっているということだ。当たり前だけども「一瞬信じられないという表情を浮かべ、口に手を当て、感極まって涙ぐむ」のは、他の選ばれなかった女の子だったかもしれないのである。つまり、グランプリ発表を待つ女性すべてがこの「一瞬信じられないという表情を浮かべ、口に手を当て、感極まって涙ぐむ」準備万端で、賞の発表を待っていたということだ。
エントリーした女の子の数だけ「ドラマという名の人生」がある。


「人生という名のドラマ」ではない。なぜなら、彼女ら全員が自らの主役の座を信じて疑っていないからである。彼女ら全員が主人公(仮)で壇上にスタンバっているのである。ところが、それらの中で最終回のハッピーなエンディングを迎えることができるドラマは1つしかない。10人いれば9人が、20人いれば19人が主人公(仮)のその(仮)が取り払われることはない。代わりに女Aやら女Bという脇役の台本が回ってくる。選ばれなかった彼女ら自身のドラマは、完結しないどころか始まってさえいなかったということが、グランプリの発表されることで時間をさかのぼって発覚するのである。


だから私はミスコンとミスコンに出る女性に対して定番の批判は加えない。ミスコンに出るということは、相当に精神的にタフでないとできないギャンブルなのだから。ミスコンで選ばれないということはミスコンに出るタイプの女性にとっては、自分の人生はやっぱり偶然以外の何物でもなかったということを自ら証明する危険性をはらんでいる。彼女らは拍手しながらも、やっぱり人生は偶然の積み重ねであり、この壇上に立っていることも、これから超絶に長く続く退屈な日常のただの1ページだったということに気づかされるのである。裏を返せば、ミスコンにエントリーするということは、この「偶然(グランプリ受賞)が必然的に私には起こるという根拠のない自信」がなせる技だ。


しかし、みんながみんなドラマの主役は自分であると思い込んで参加しているのは、ミスコンだけの話じゃない。考えてみたら人生だってそうなのである。そう思わないとやっていけないのである。
そして壇上で拍手をするはめになった彼女らのように、誰もがいつか気づくのかもしれない。「あっ、俺ではなかったんだ、主人公は。」ということに。


ミスコンに出場するというのは、僕のように平凡か非凡かの判断をとりあえず保留しておくというへたれな態度ではなく、むしろ自らの意志で前倒しして知ろうとするという、精神的なタフネスが強いられる行動だと思う。しかも、そのタフネスが報われるのはわずか一人である(でないと非凡ではない)。


そこでは、当日までになせる努力なんて存在しない。だって極端な話、競われているのは容姿だけなんだもん。それはこのように生を受けたその瞬間に宿命的に決まっているようなものだ。「友達に誘われて・・・」という言い訳もダメ。友達に誘われようと、自分の意志で堂々と出場していたとしようと、結果は同じ。


それは才能ではないと言う人もいる。でも、本当の才能というのは、素人目でも「一目見ただけで」即座に「才能がある!」=「天才だ!」と思わせてしまう代物ではないだろうか。例えば、天才バカボンを書いた赤塚不二夫のように(金曜11時にこれを書いていました)。
そういう意味で、「一目見ただけで」わかる容姿を競い合うミスコンこそが、純粋な平凡と非凡を分かつ分別機なのかもしれない。


では男はどうするのかって?そんなの僕に聞くな、他人に聞くところに君の平凡さが現れているぞ。


まずは「俺は平凡がヤダ!」と思うこと。
「反平凡」の意志を貫くこと。
それによって非凡への蓋然性(というよりも自分が平凡か非凡かの判断を保留し続けること)が開かれるのではないかと、僕は思う。


イマダ