僕が女性になりたいとき


去る6月10日、21歳の誕生日を迎えたゆーざきです。どうやら僕にとって21歳はモテ期だそうで、これから一年、目血走らせて頑張っていきたいと思います。


さて、最近の一番の事件といえばやはり「アキバ通り魔事件」であるのは間違いない。イマダさんもこの事件について記事を書いていたが、僕もこの事件について書いていきたいと思う。個人的な印象ではあるが、この事件で一番取り上げられているのは犯人と一人の被害者であるように感じている。犯人はもちろん加藤智大容疑者であり、一人の被害者とは唯一の女性被害者、武藤舞さんである。この若い男の犯人と若い(綺麗な)女性の被害者という構図は事件の悲劇性と犯人の非道性を際立たせるこの上ないプロットである。今回のように意図しない形であれ、遺体をトイレに流したというような恣意的なものであれ、この構図は多くの人に強い印象を残す。もはや我々はただの殺人では驚かなくなってしまった。犯人たちも、いかに印象に残るようにするかと苦心しているかのように次々と想像を超えるようなことをやってのける。

しかし、なぜここまで若い女性が被害に遭うと悲劇性が高まるのだろうか。若い男性でもなく、年配の女性でもない。例えば、子供が被害に遭う場合が一番悲劇性が高められるというのは分かりやすい。それはもちろん子供は社会の宝であり、未来を背負っているからであるし、まだ無力な彼らに死という運命、結果は酷であるという思いがあるからなのは明らかである。子供が被害に遭うことの衝撃は分かる。しかし、それ以上に若い女性だと必要以上に悲劇性を高めるような演出や印象を目にしてしまうのは、我々も若い女性を子供と同じような存在として認識しているからだろうか。それとも将来子を宿す「産む機械」として彼女たちを認識し、その結果大事にしようと思ってしまうのだろうか。少なくとも、子供生産機として女性を認識している部分はあるにはあると思うが、彼女たち全員が結婚して子供を生むわけではないと思うし、それを期待するのは身勝手な物言いである。しかし、彼女たちが今回の事件のように綺麗であったなら、それは少し状況が異なる。これは単なる確率論になってしまうかもしれないが、綺麗な女性の方が不細工な女性に比べて男性との付き合いが多いと思ってしまう傾向があるように思う。その点で我々が綺麗な女性が被害に遭った場合に「まだまだ幸せが待っていただろうに」という同情というか失念が生まれやすくなる。



若い女性が社会に果たすもうひとつの役割は「社会の華」である。若い女性は綺麗に着飾るし自身も明るく見えるので、見ているこちら側も晴れやかな気分になってしまう。この役を自分も含めた若い男性が担っているかといえば、そうとはいえないと思う。そして、その華が満開で一番美しいであろう時期に生命を絶たれてしまったなら、ひとつ社会からその彩が消えてしまうことになる。それは我々、社会にとって大きな損失である。とりわけ今回の事件では東京藝大4年で、複数社から内定も出ており、将来を嘱望されていたということもあいまって、その損失感はこれまでかというほどに高まっている。


さて、ここまでは分かりきっていることを述べているという印象があったが、問題はむしろ僕のような若い男性が被害に遭った場合にある。この事件でも僕と同世代の男性が2名亡くなっているが、報道では前述した武藤さんほど取り上げられている印象は無い。もちろん亡くなったという事実は変わらないのだが、どうしても違って見えてしまう。武藤さんは成人式などの華やかな写真がたくさん映し出され、その幸せ絶頂振りが強調されているが、他の男性はいたって普通の顔写真程度しか映されない。この際多く写真が流された方が良いのかというような議論は置いといて、これでは明らかにイメージが異なってしまう。きっと亡くなった彼らだって幸せを感じていたかもしれないし、彼女もかなりつらい悩みを持っていたかもしれない。普通の日常からの悲劇という同じ状況においても、若い女性の場合はなぜか幸せの絶頂からの転落という印象が色濃く演出される。なぜ僕のような若い男性が幸せの絶頂にあると想定されないのだろうか。あるとすれば新婚の場合か、子供が生まれた場合ぐらいである。


若い男性は社会の歯車として期待されているわけではあるから、社会的に無価値というわけではないだろう。しかし、そこに個人的な充足や感情の起伏は想定されていない。ただ社会システムに介入して、ひたすら社会の為に奉仕していれば良いのである。それに加えて、宝を生み出すためにちょっと女性と付き合ってもらわないと困るのであるが、それは本職に対する副業のような位置づけであり、あくまで個人の自助努力によって為さなくてはならないタスクである。


そこに若い男女の違いがある。男の幸せは何の特にもならないが、女の幸せは社会の喜びである。女性が幸せなら華やかだし、子供も増えて消費も増える。男性が幸せであるというと、外へ向かっていくというイメージよりは内に篭っているようなイメージであるし、だからこそ仕事に幸せを求めることが美徳とされ、家庭に奉仕するように言われたのは女性が不満を感じたからである。社会は女性の幸せ度数によってドライブしていく。しかし女性が、いや人間の欲望が完全に満たされるということは無いので、永遠にその潮流は止まらない。

人の死の価値は等しいように見えてそうではない。きっと若い男女なら、女性が被害に遭った方が損失感は大きい。それが綺麗な人であったならなおさらである。普段見えない男女の存在意義、あるいは何を期待されているかという点は死によって露呈される。それによって僕は自分が幸せを期待されていないと悟るし、その意味で若い女性が羨ましいと思ってしまう。もちろん死ぬのはまっぴらごめんだが、果たして死んだときに自分の幸せを惜しんでくれる人がどれほどいるだろうか。知り合いを除いたら、片手ぐらいはいるだろうか。分かりきっているのはこの、男の幸せに価値は無いという事実の方かもしれない。今回の事件報道を見て、そんなことを思ってしまった。亡くなられた方々の冥福を祈るばかりである。



ゆーざき