moso magazine issue24――古畑任三郎の精神分析



古畑任三郎精神分析―前編


僕は根気がなくて、連続ドラマというものを1話から最終話まで通して見届けることがなかなかできない。途中で飽きるか、一度視るのを忘れてしまうと、飛ばしてしまった1話が気になって続きに入り込めなくなり、結局見るのを止めてしまうのである。しかしそんな僕でも、「古畑任三郎」は第一シリーズから、おととし年始に放送された「ファイナル」まで、スピンオフも含めたほとんどすべてを見ている。はっきり言おう、僕は古畑オタクなのである。


古畑シリーズの脚本はいわずと知れた三谷幸喜が担当しているのだが、彼の脚本はアメリカンコメディー顔負けの、独特の「アットホーム」感をかもし出している。彼の書く脚本にはいわゆる「お笑い」ではなく、「ユーモア」が散りばめられているのである。

一方で、現在の日本のテレビを含むエンターテイメントで猛威を振るうのは、彼のそれとは異なる「お笑い」である。
ユーモアとそれの違いは、「下品かそうでないか」ぐらいであると僕は思っている。下品というのは、もちろん下ネタも含むがそれと同時に「貧しさ」が不可欠なのである。子どもの頃の―物質的にも精神的にも―貧しかったという経験が、お笑い芸人各々あの前に出てくるあつかましさ=下品さを成り立たせている。
それに対して、三谷の書く笑いというのは、上品なのである。彼の書くものからはほとんど「貧しさ」の香りがしない。もちろん無臭ということでもない。しかし、貧しさは感じられないのである。そのような理由から「笑いを手がける人」の中でも彼はかなりの特異点に位置している。
まだ見てはいないが、三谷の新作映画『Magic Hour』はそれだけに、同じく現在公開されている「ランボー」とは違って、カノジョと観に行っても絶対に安心な映画なのである。それだけは見なくても太鼓判が押せる。

そんな彼だけに、その映画の宣伝で番組出演している中、「ガキ使」と「ダウンタウンDX」で松本人志と合間見えたという出来事は、両者のファンとして固唾を呑んで見守らざるを得なかった。
特に、「ガキの使い」では、見た人はわかるとおり、松本側の土俵、つまりテレビバラエティーという「お笑い」の領域で、三谷がふんだんに弾けたということに、驚愕と困惑を覚えるばかりなのである。
前置きが長くなってしまいました。今日は「古畑任三郎」について。

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古畑任三郎」における古畑任三郎というキャラクター*1は、精神分析家のスラヴォイ・ジジェクによる探偵の定義、古典的探偵とハードボイルド探偵の内の、古典的探偵の分類に見事に符合する。

(古典的探偵とハードボイルド探偵の―引用者)真の相違は、実存的な意味で古典的な探偵はまったく「関与」していないという点にある。彼は一貫して奇矯な立場を維持しており、死体によって結成された集団内でのやりとりから排除されている。
スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』119p)

そもそもジジェクが探偵の話を持ち出すのは、この古典的探偵という存在が、患者にとっての「知っているはずの主体」の役割を果たす「精神分析家」の役割によく似ているからである。

分析家の治療法とはずばり、神経症患者の語りに耳を傾けることに集約される。そこから彼は患者の症候の原因となっているトラウマ的な経験を探り当てるのだが、重要なのは分析家の仕事が患者の真理(実際に起こった出来事、真相)をさぐりあてることではない、ということである。分析家の職務は、実際に症状の原因となったはずの出来事を探り当てることではなく、その症候を患者の心的現実の文脈に当てはめること、症候を物語化することである。だから、分析家の仕事は症候の犯人を「捏造」するといってもいいのかもしれない。
だからこそ、分析家は患者の症候の原因を、真相を、つねに「知っている」。
それだけに、ここで言われる「知っているはずの主体」というのは、実体的な人物ではなく、患者と分析家の共同作業によって生まれる物語という、間主観的な「現象」といってもいいのかもしれない。

もちろん探偵は、自分が事件の真の犯人でない限り、他人の起こした事件の真相など「知らない」はずである。しかし探偵小説という、事件が“必ず”解決されるという特異空間において、探偵は容疑者達に意味深な尋問をして、謎の網の目を解きほぐし、解決へと導いていく。

古畑任三郎」では、次のような場面がもはや定番ともいっていいほど頻繁に描かれる。
古畑が事件の真相にたどり着き、犯人に推理を明かし自白させた後、不思議とうち解けた間柄になった犯人は幾分晴れやかな心持ちで古畑にたずねる、「いつから疑っていた?」かを。
すると決まって古畑はこう言う。「初対面の時からあなたを疑ってましたよ」と。
それはもちろん、三谷幸喜による古畑任三郎という刑事の魅力的なキャラクターの描き方の一側面ではあるが、古畑任三郎に限らず古典的探偵というのは視聴者から見て、その人が事件の捜査を開始した時点であたかも、(事件の真相をまるで)「知っているはずの主体」として描かれるのである。
精神分析家が患者の症候の真の原因を知っているかどうかが問題ではないのと同じように、ここでも問題は作品内部の探偵キャラクターが、犯人あるいは真相を「知っている」かどうかではない。重要なのは、その作品を受容する者がそのキャラクターをいかに「知っている“はず”の主体」と見なせるか、信じることができるか、なのである。

ジジェクによると、このような精神分析家の位置をとる古典的探偵小説は、必然的に「一人称で物語ることは構造的に不可能(同上 122p)」ということになる。
「古典的探偵小説」における探偵とは、いわば「ブラックボックス」なのである。「探偵が奇妙な質問や意見を口にするが、それは、探偵の頭の中で何が起きているかは想像もつかないのだということをさらに強調するためである。(同上 122―123p)」読者、あるいは探偵の助手、そして当の犯人までも、彼が真相を語り始めるまで、真相と彼がその真相にいたった思考の経路などはけっして明かされない。

したがって、探偵小説における古典的探偵の位置にいる人物による語り(探偵の一人称の叙述)という体裁は原理的不可能なのである。それはつねに周囲の第三者の視点から、彼の奇っ怪な言動をなぞる文章でしか表現できない。

古典的探偵による一人称の語りがこのように不可能なのは、もしそれをすると「主体の位置=事件の内部空間」に探偵を「引き戻してしまう」からである、ともいえる。
ジジェクは古典的探偵と精神分析家の類似点を、対象(殺人事件の空間、患者)との転移関係からの「外部性」にも求めている。
精神分析家が患者とそれを共有しないように、古典的探偵は容疑者と同じ土俵には立たないのだ。探偵は常に(事件の真相を)「知っているはずの主体」として、立ち現れなければならない。この外部性を有する古典的探偵の最たるものと言えるのは、「アームチェア・ディテクティヴ」である。

アームチェア・ディテクティヴ安楽椅子探偵とは、探偵が現場に一度も訪れることなくその外部から、人からの伝聞や客観的なデータ、証拠を元に事件を推理して事件を解決へと導いていくという筋書きのミステリーのジャンルである。まさにこのアームチェア・ディテクティヴこそが、空間的にも隔絶して(現場の外部から)、事後的に(事件発生に立ち会うことなく)事件を分析しその真相を暴く、外部性を象徴するにはもっともふさわしい古典的探偵といえるだろう*2

では「古畑任三郎」における古畑の外部性はどのように保たれているのだろうか。
古畑任三郎」シリーズの、特に初期の作品の特徴は、そのどれもが単発の殺人事件であるということだ。それはつまり、刑事である古畑が現場に到着した時点で、事件はすべて「完結」しているということになる。物語はあと、古畑による「分析」を待つだけなのである。当然ながら古畑は職務として事件現場にやってくるため、彼の訪れはつねに「事後的」である。この事後性によって、殺人事件への彼の立ち位置の「外部性」は担保されていると言える。
この「一話一殺」の原則ともいえる傾向は、後に連続殺人事件などの古畑が実際に対面したことがある人物(つまり容疑者)が殺されるケースの作品も作られていくため、次第に崩されていくことになるが、それでもなお古畑の事件への外部性は保たれている。それは、古畑自身の性格によってである。

古畑任三郎の「外部性」は、彼の事件への「不真面目さ」と彼の「めんどくさがりや」の性格によっても表現されているのである。例えば事件現場に向かう際、いくら管轄だからといっても、都心から遠方であったり不便なところである場合、「めんどくさがりや」な性格の彼はひどく嫌がる。都内に住む彼は、都内でも山奥のほうで事件がおこると、あろうことかその事件を事故と決め付け、早々に現場を立ち去ろうとさえするのだ。しかし、いつものごとく「小さなほころび」に気づくことによって、謎の糸をたぐり寄せはじめ、いつの間にやら事件を解決してしまう。
この事件への「不真面目さ」と「めんどくさがり」な彼の性格。それは、事件の容疑者たちへの深い思い入れを持たないというところにも現れている。彼は常に「他人事」として、外部から事件に臨むのである。

このようにして古畑任三郎は「古典的探偵的」刑事と呼べるのである。

それに対して、ジジェクのいうところのハードボイルド探偵というのは、現代の日本のマスカルチャーでいうところの、テレビの「2時間ドラマ」のヒーロー・ヒロイン、はたまたマンガにおいては『金田一少年の事件簿』の金田一一(はじめ以下金田一)、あるいは『名探偵コナン』の江戸川コナン(工藤新一以下コナン)にあたるだろう。
彼らと古畑を隔てるもっとも顕著であり、かつ分かりやすい特徴は、ハードボイルド探偵的ミステリーキャラクター(つまり金田一やコナンそして2時間ドラマの主人公)は古畑に比べて、断然「危険な目に遭っている」、というところである。職務が警察官である古畑が危険な目に遭わずに鮮やかに事件を解決しているにもかかわらず、彼らはまさにお決まりのパターンのように自ら危険な目に吸い寄せられているかのようにさえ見える。現に金田一にしろコナンにしろ、旅行などの行楽に訪れた先々で事件や事故に遭遇する。2時間ドラマのヒーローヒロインにしたってそうだ。彼らは事件解決間際になると必ず、「崖っぷち」に追い込まれる。結果的に助かるのだろうけれど、それでも一般の人間であるかれらほど、なぜか事件解決をするには危険な目に遭わなければならない。それは裏を返せば、彼らが事件の内部にいるからだとも言える。

そのようなハードボイルド探偵と、古典的探偵(そして古畑)を決定的に分かつのは報酬に対する態度の違いにおいてである。

(古典的探偵とハードボイルド探偵―引用者)の違いを示す一つの手がかりは、金銭的報酬に対する両者の態度の違いである。事件を解決した後、古典的探偵は自分の骨折りにたいする報酬をはっきりと喜んで受け取るが、ハードボイルド探偵はたいてい金を軽蔑し、倫理的なつとめを果たすかのように、個人的な肩入れによって事件を解決する。
(同上 119p)

言うまでもなく、古畑は刑事である。
彼が事件を次々と解決していく理由は、事件解決中の彼の胸にあるトリックの謎への好奇心は否定できないまでも、一番の理由はそもそも彼が公務員であり、それが「義務」であるということは間違いない。彼はあくまで「職務として」現場に現れ、「職務として」事件を捜査して、「職務として」事件を解決し、犯人を逮捕する。そしてその代価として市民から徴収される税金を給料としてお上から受け取っている。その行為は、事件と彼を結ぶ内的な根拠、宿命などに基づいているわけではないのである。

二時間ドラマの主人公の職業あるいは地位は、タクシードライバーや温泉女将、あるいは葬儀屋まで、多種多様な職業である。また金田一一は高校生、コナンにいたっては小学生なのである。つまり彼らは身分からして、事件を解決する義務がまったくない。しかしそれでもなお、彼らは好奇心、家柄に対するプライド(金田一一の決め台詞「じっちゃんの名にかけて!」)などの、「個人的肩入れ」によって事件の闇に飲み込まれていく。そんな彼らの事件との関わり方は、解決後も収入は受け取らないという彼らのポリシー(?)ともいえる振る舞いに集約されるだろう。
事件解決はあくまで、ヒーローヒロインによる「勇敢な正義感」によって解決される。だからこそ、彼らハードボイルド的探偵は事件のネットーワークの外部に止まることが出来ないのである。


さて。ここまで長々と古典的探偵的刑事である古畑任三郎と、そのほかのハードボイルド探偵的なミステリーの特徴と相違を考えてきた。
しかし、ここで次のような疑問が生じるかもしれない。

「おいイマダ。お前が古畑任三郎が好きなのはよ〜くわかった。そして古畑が古典的探偵的刑事であるということもな。しかし、刑事もののミステリー、あるいはサスペンスは他にもいくらでもある。例えば最近流行っている『相棒』だってそうじゃないか。それらに登場する刑事たちは、事件解決の代価として給料を受け取っている(右京のキャラだって古畑に似ていなくもないぞ!)。それら他の刑事ものと『古畑任三郎』は本質的な違いはあるのかい?もしないのだとしたら、よくもまぁこんな長文読ませておのれのオタク趣味の語りにつきあわせてくれたなぁ、ということになるんだが。」

まあまあ、落ち着いてください。。

僕自身も、既存の「古典的探偵」的小説を読むことに潜む快楽と、「古畑任三郎」というドラマを観ることに潜むそれは別である、と考えたい。

古畑任三郎』というドラマは、純正の「古典的探偵的」刑事ドラマなのか。
実はそうではない。

そのことについては、次回「moso magazine Issue24 後編」で。


イマダ

*1:ややこしいので以降、作品名は「古畑任三郎」、本人については古畑任三郎あるいは古畑と表記する。

*2:ちなみに古畑任三郎にも、アームチェア・ディテクティヴといえる作品が複数ある。例えば鈴木保奈美がゲスト出演した「ニューヨークでの出来事」では、古畑はニューヨークへ向かう高速バスに偶然乗り合わせた女性(鈴木)に殺人事件の謎解きを持ちかけられる。この回ではニューヨークに到着するまで、まったく殺人は起こらない。つまり、その女性からの伝聞をもとに古畑がバスに乗車中に、かつて起こった殺人事件(実はその女性が起こしたのだが、無罪となった)のトリックを解き明かすということがメインに描かれる(しかも回想シーンは一度もない)、テレビドラマとしては非常に特殊なスタイルをとっている。