15通目 オタクの夏、日本の夏


あまり言いたくないんですが、あえて言わせてもらいます。暑いですね。あらゆる状況の中で、ここまで素朴に感想を言えるというのも気候のことぐらいじゃないでしょうか。

さて、皆さんが触れられているとおり夏は恋の季節なわけですが、片一方で恋に興じる人間がいればその裏側ではそこからあぶれた人間がいる。そう、みんな大好きオタクたちです。先日も日本最大のフィギュアの祭典「ワンフェス」でのエスカレーター事故が報道されていましたが、エスカレーターぶっ壊すほどオタクの存在感は大きかったのです。それに加え、8月15〜17日には世界最大の同人誌即売会コミックマーケット」通称コミケが開催されます。これも同じく東京ビッグサイトにての開催なんですが、もはや期待と不安で胸がいっぱいな人も多いのではないんでしょうか。かつてコミケ会場前にて「みなさん、ここに10万人の宮崎勤がいます!」と言い放ったリポーターがいたそうですが、それから10数年、その規模は拡大の一途をたどり、延べ30万人もの人間がひしめく巨大イベントへと成長していったのです。30万人というと僕の出身市の人口よりも多いです。


そう、夏は恋人たちだけのものではありません。オタクたちもこの細胞が一番活性化するであろう季節にここぞとばかりに活動するのです。そんなオタクたちに混じって、いや、僕自身オタクと化して去る7月27日、パシフィコ横浜にて行われたコンサートに行ってきました。どんなコンサートかというと、アイドルマスターというゲームのイベントなわけですが、ぶっちゃけて言うと声優イベントです。声優ライブといえば今最もホットなオタクイベントのひとつですが、僕自身そういったものに参加するのは初めてだったので緊張しながら行ったのです。結果的には楽しく過ごすことが出来て満足だったわけですが、この声優という存在については色々考えさせられる部分があったので、今回はそれについて書いていきたいと思います。

声優ライブといっても大まかに三段階に分けられます。一つは声優本人名義のライブ。これは、例えば「水樹奈々○○ライブ」みたいに、声優が一種の歌手と同じ扱いでツアーを回ったりイベントを開催するというもの。これは、キャラや作品に依らない展開なので本人の歌唱力や容姿やトークの面白さなど、求められる部分がたくさんあるのでそんなに多くの声優が出来るものではありません。このタイプが最もキャラクター依存が低いといえるでしょう。


次は、今回僕が行った「アイドルマスター○○ライブ」などのように、名義としては作品やキャラクターが勤めているのですが、その実は声優のライブというもの。トークもキャラクターではなく、一声優として話し、作品について語ったり裏話やハプニング話を言ってみたりするようなものです。このパターンがおそらく最も普及しているといえるでしょう。声優個人名義ではなかなか集客が見込めない場合も、作品として扱ってしまえば各声優のファンを呼び込めるので、イベントとしては企画しやすいのではないでしょうか。入り口としては作品が想定されているのですが、イベント中やイベント後は単にどの声優がミスっただとか、誰々がかわいかっただとか、結局他のアイドルイベントと変わらない状態になります。


最後に、これはそんなに多くないのですが、「サクラ大戦○○公演」のように完全に作品世界の再現、あるいは共有の場として扱われる場合。ここ最近では声優イベントというよりは、テニスの王子様ミュージカルとかミュージカルセーラームーンみたいに若手俳優の登竜門的な存在意義が大きくなっているようです。これも、イベント自体多くの部分を作品世界に依存しているからでしょう。

このように見てくると、第二段階の倒錯ぶりが際立っているように感じてしまいます。第一段階は単純にその声優が好きだからライブに行く。第三段階もその作品世界が好きだから公演に行く。とても良いことだと思います。でも、第二段階は作品世界を崩壊させかねない声優のぶっちゃけトークや、声優自身もキャラになりきっているのか違うのかはっきりしない感じで進行していく。第一段階では声優をその役名で呼ぶことはためらわれるだろうし、第三段階では声優本人の名前を呼ぶことはナンセンスでしょう。しかし、これもアイマスライブで感じたことなんですが、ライブ中はどっち(声優名・キャラ名)で呼んでもかまわないのです。釘宮理恵に対して「くぎゅううううう」と言っても良いし、「伊織ー!」と叫んでも良い。

作品の性質によっても多少は変わってくるのでしょうが、この第二段階の空間においてはキャラと声優個人が並存している。その作品世界を共有しているものにとって、キャラも声優もその一部であり、その両者において優劣はありません。この状況は並列化する世界とかいう風に拡大解釈しても良いかもしれませんが、それはひとまず置いといて、ここではもっと声優という存在に注目していきたいと思います。声優の大きな特徴として、演じたキャラのビジュアル=声優でないということが上げられます。俳優であれば、多少の衣装やメイクの変更があってもその画面上に登場しているのは紛れもなく本人です。しかし、声優はそうではありません。キャラを演じたのがあの声優だと分かっていても、同一視するには無理があります。中には瓜二つのように似ている場合もあるにはあるんですが、それはコスプレの完成度がめちゃくちゃ高いというレベルの延長線上にあるようなものです。

では、どうあがいても埋められない二次元と三次元のギャップをライブに参加した人たちはどうやって補完しているのでしょうか。まさか、ライブ中ずっと目を閉じているわけではないでしょう。それに目を閉じたところで声優は地声でトークします。


ここでひとつの仮説として、従来のキャラ受容の仕方と現在声優を含めた形でのキャラ受容の形態が異なっていると考えることが出来ます。つまり、従来ではテレビやゲームで目にしたキャラクターや世界観に魅了され、その後詳しく知っていくうちにその裏方である声優や監督や演出に注目するというのが一種の王道であったはずです。しかし、ここまで声優や監督や制作現場などの裏方情報、楽屋事情が流布されてしまった昨今では、情報に敏感なオタクたちはキャラを認知すると同時に声優の存在を意識せざるを得ないのです。かつてほど声優の顔出しがタブー視されないのも、声優の容姿向上だけではなく、アニメから派生する形で多くの商品を展開する商形態によってキャラと声優の結びつきを刷り込まれてきた結果ではないのでしょうか。

もはや、僕含むコアなファンは単純にアニメを楽しむことは出来なくなってしまいました。常にその裏方情報を意識し、作画がよければスケジュール管理が良かったとか作画監督のおかげだとか、思案をめぐらせずに入られない。これはきっと多くの場合そうであるかもしれません。その世界を深く知りすぎることによって、素朴に楽しんだり感動したり出来なくなるというのはどの分野にもあるでしょう。しかし、アニメ・ゲームとその他分野が決定的に違っているのが、目にしている世界と現実とのギャップではないでしょうか。アニメという虚構を享受していても、それと同時にそれを演じる声優のことを想起する。その関係は映画におけるそれとは決定的に異なります。本質的には相容れないものをキャラソンや声優ラジオなどを蔓延させることである程度の人間の神経を書き換えることに成功したのは業界の勝利と言って良いでしょう。


でも同時に、声優というのがアイドルファンにとっての最後のユートピアのようにも感じてしまいます。我々がアイドルに求めていたのは単純に容姿だけだったでしょうか。その親しみやすさや、素朴さが良かったりしたのではないでしょうか。かつてのアイドルがファンの存在を蔑ろにしているように感じられてしまった今、向こう側にいながら、常に我々のことを気にかけてくれているような存在として声優は求められているのではないでしょうか。少なくとも、そこまで多くの市民権を得ていないだろう声優に我々が接近したくなるのも分かるように思います。声優というほどよい知名度と距離感はかつてのアングラアイドルを思い出させますが、そこに(表面上、あるいは名目として)純粋な演技への熱望やキャラへの愛がある分、愛するに値する存在として君臨しているのではないのでしょうか。この声優ユートピアがいつ崩壊するかは分かりませんが、平野綾のグラビアを鼻で笑いながらも、「冒険でしょでしょ?」を口ずさむような状況も悪くは無いと思いませんか?


ゆーざき