話を盛る話


issue――32


ほんっと、2週続けて言うのはさけたいところだけど、とにかく親の敵のように連日暑いのである。暑すぎるのである。こんなに暑いとなんも物を考えたくなくなるし、ましてやその考えたことを整合性のともなった文章にして人様に見せびらかすことに費やす気力もなくなってくる。


しかし人間はそんなときでもなお、考えなければならないことに出くわすことがある。


「話を盛る」ということについてだ。

この表現は、まだあまり一般的ではないので一応意味を説明しておくと、「話をふくらますこと」とか「大げさに言うこと」とかそんなとこ。他にも「話に尾ひれをつける」とも言うことがある。
症候会議ではたびたびこの話を盛るという表現が使われてきたが、どうもイマダ、この僕について使用されることが多いという印象がある。少なくともイマダまわりでは、おそらく話を盛る率(通称「盛る率」)が高いのは僕自身なのだろうと推測される。本人にはまったくそういう意識がないのだが、どうやら僕は相当に話を盛っているらしい。盛りに盛っているらしい。
やったね、キングオブ盛りスト!と喜んでいる場合ではない。お察しのとおり「話を盛る」とか「話をふくらませる」とか「大げさに言う」とかは、どちらかというと批判的な文脈で使われることが多い。下手すると、嘘つき呼ばわりに近いのではないだろうか。そうなると、必然的に「盛る率」の高い僕は、キングオブ盛りストの僕は(しつこい)、嘘つきまで行かなくとも、「嘘つき」(まがい)として批判されてる、ということになる。


由々しき事態である。


ここは一度、「話を盛る」ということについて真剣に考えてみたい。僕の考えてみたいことは、大きく分けて二つある。
一つは、<そもそも「話を盛る」ということは、どのように定義できるのか。>ということ。もう一つは、<はたして「話を盛る」ということは、本当に悪いことなのか>である。


前提条件として「話を盛る」ということについて、僕自身に自覚がないということである。何も僕は、(ケケケ、今日はあいつに話を盛って困らせてやろう)とか、悪意を込めて盛っているわけではないし、そんな悪魔のささやきが耳に聞こえているわけではない。いたって普通に事実を伝えようとしているわけである。
にもかかわらず、僕の話は最終的に「盛られた話」としてアウトプットされているようである。これはどういうことなのか。


そう思われてしまうのは、僕の中の「話編集機能」に原因があると思う。
これは、別に素人の僕が初めてやったわけではない。たとえば、今や超人気コンテンツと化した「人志松本のすべらない話」をみてみよ。考えてみればあの番組はものすごくきつい番組だ。サイコロを振られて自分の目が出たら問答無用で抱腹絶倒もんの爆笑話を繰り広げなければならないのである。しかも、スベり笑いは禁物だ。同じサイコロトークでも、「ごきげんよう」とはわけが違う。オチなしの話なんてしゃべれないのである。にもかかわらず、彼らの話はほぼ100%、実際に爆笑を取っている。すべらないのである。


でも、少し疑問が浮かばないだろうか。なぜ彼らは、あれほどまでに多くの面白い話を持っているのだろうかと。彼らの話す話は作り話ではなく、あくまでプライベートや職場で体験した実話なのである。彼らの創作ではない実話であるならば、一般人はなんでそういった抱腹絶倒の面白いことに出くわし、彼らのように多くのすべらない話をもっていないのだろう。まるで彼らお笑い芸人は、一般人の住む世界とは違う異世界、毎日なにがしかのおもろい出来事に出くわす「おもろい世界」かなにかの住人のようだ。


もちろん住む世界が違うわけはない。違うのは話の編集機能なのである。
お笑い芸人も僕ら一般人も、同じ現実をみている。でも、それを吸収し、今度それをエピソードとしてアウトプットするとき。そのときに言い回しやら、脚色やらという彼らそれぞれが持つ話芸の編集機能によって決定的な差が現れるわけである。でもこの編集機能って、ある意味「話を盛る」と同じなのではないだろうか。


たとえ話を一つ。「おもしろい君」と「つまんない君」という二人のお友達がいました。二人は一緒にいたときにAという出来事(以降A)に出くわしました。
その後で、おもしろい君はまだAを知らないお友達にAのことを教えてあげました。つまんない君も知らないお友達にAのことを教えてあげました。ところが、おもしろい君からAを聞いた他のお友達は、アハハワハハとおもしろがってくれましたが、つまんない君からAを聞いたお友達にはあまりうけませんでした。それで、その日の内にAのことを忘れてしまいました。
不思議な話だ。同じ出来事を説明しているのに、彼から聞くそれはどうしてもおもしろくなってしまうという人。でも、そういう人って、実はけっこう身の回りいないだろうか。そしてこういうことってけっこう起きてはいないだろうか。
同じAを体験した二人なのに、どうしてこういうことが起こってしまったのか。二人のユーモアのセンス、話芸とかすべてひっくるめて棚に上げて、端的に言うとおもしろい君はAはAでも、「おもしろいA」をしゃべったのに対して、つまんない君はAはAでも、「つまんないA」(もしくは脚色してないA)をしゃべってしまったわけだ。重要なのは、現実で何が起きたかではなくて、その現実をいかにしゃべるかということだ。


話を編集するということは必然的に「話を盛る」ということになりそして、お笑い芸人の繰り出すいわゆる「すべらない話」というのもまた、必然的に「盛った話」の一種になるわけだ。


でもそうすると今度は反対に、「現実」というものの存在が怪しくなってはこないだろうか。もし、何も盛られないままの姿の「真の現実」があったとしてそれを僕たちは再現なんてできるのだろうか。あるいは先のたとえ話で言えば「純粋なA」を、おもしろい君は、つまんない君は再現できるのだろうか。そもそも「純粋なA」なんて存在するのだろうか。真っ白でまだ何も盛られていやしない現実というのは存在しうるのか。


黒澤明に『羅生門』という映画がある。あれなんて「盛る話の映画」と言ってしまっても過言ではない。ある一つの出来事をめぐって4人の当事者達が後日談を繰り広げるんだけども、どうも要領を得ない。言ってることが4人ともバラバラだからだ。そして、最後に映画は4人の話した4つの話のうちのどれか一つが「真の現実」だった、ということを解き明かしてくれるかというと、そうではない。結局うやむやにされる。


この映画のように結局は、ある視点に立脚して話すと言うこと自体が、「真の現実」(というものがあると仮定すると)から遠ざかってしまう、つまり「話を盛る」ということになるわけだ。


したがって一つめの問い<そもそも「話を盛る」ということは、どのように規定できるのか>、というのは問いそのものがナンセンス。なぜなら、「話す」という行動そのものに、盛ることが含意されているからだ。
誰かに何かを伝えようと思ったとき、僕らは目にした現実を頭の中で再構成する。その再構成がそもそも盛ることなのだから。
結局、「盛られてない話」(真の現実)なんて虚構でしかないわけで、僕らは常に「盛った話」しかできないし、「盛った話」しか聞くことはできない。


おい、イマダ。それでも全くのウソはダメじゃないか?話すこと自体が常に「現実を盛る」ことだとしても、「現実により近い盛り方」ってもんがあるんじゃないか?お前のように、何でもかんでも盛ると言うやり方は気に喰うわねぇなぁ。


きみぃ、意外と食い下がるねぇ(それにずいぶん口が悪い)。
それが二つめの問い<はたして「話を盛る」ということは、本当に悪いことなのか>だね。


確かに「話を盛る」にしろ、「盛り方」というものがある。なんでもかんでも、ウソも憶測もじゃんじゃん乗っければいいというものではない。それではコミュニケーション自体が成り立たなくなるだろう。

この「現実により近い盛り方」、つまり事実を正確に伝えるということがよしとされているということは、みな現実により近づきたいということをも表している。
でもさぁ、そんなにみんな本当のことなんて知りたいのだろうか、と僕は思う。そんなに真の現実は、魅力的なのだろうか。もしかすると現実を知ったときに、「こんなつまらないものだったら知らなきゃよかった」と後悔しない保証が、どこにあるのだろう。もし「すべらない話」で特別ルール「話を盛らない」「話をおおげさにしない」というルールが施行されたらどうだろう(そんなことあるわけないが)。その回の番組はディストピアである。だれもおもしろい話なんてできやしないだろう。


僕らが何かしらにの興味を持つとしたら、それはおそらく話の余剰の部分つまり「盛られた部分」なわけである。その部分があるからこそ、僕らは現実に興味が持てるのではないか。


オー・ヘンリーの有名な有名な短編「最後の一葉」を思い出したまえ。
あれの変型バージョンで、医者が「話を盛る」種類の小話がある。オリジナルでは貧乏画家が画を描いて騙すわけだけど、こっちでは医者自身が、患者のベットからは枝が確認できないことをいいことに、ずっと最後の一葉が落ちていないと報告し続けるという話だ。
考えてみれば、あれなんてかなりの「盛る話」である。なんせ9割近くがウソなんだから。ふつうは事実の上になにかを盛るのを「話を盛る」というが、あれなんて本当は何もないところにドッカリとウソを乗っけているのである。あんなのダンボール肉まんではなく、蒸したダンボールそのまま売っているようなものだ。


でもしかし、みんなあのお話に感動するのではないか。だれもオー・ヘンリーを捕まえて、「やいやい!話を盛る医者なんて描くな」なんて詰め寄らないだろう。そもそも、あの医者が患者に話を盛らなかったら、どうなっていたろう。


患者「先生、落ち葉はまだ枝についてますか」
医者「ああ、言いませんでしたっけ?とっくの昔に落ちましたよ」


患者の容体急変である。そもそもそんな話ならオー・ヘンリーは書かなかっただろう。



現実社会はつらい(押井守がいまさら映画にしなくてもそんなことは知ってる)。でも僕らは、そのつらいモノクロの現実を人に話すことができる。話を盛った、彩りのある現実にして。


みんなを幸せにしたいから、今日も僕は話を盛り続ける。


イマダ



(追記)
書いてるうちに、予定していたのとまったく別の話になっちゃいました。本当はデリダとかジジェクの出てくる「郵便は届くのか」(別にこれは国の郵便局事業の機能の不備を論じる話ではありません)という、もうちっとインテリジェンスな話をしたかったのですが、それはまたの機会に。