「歴史的」精神分析――フロイトとベンヤミン 3

お久しぶりです。
前回の更新からひと月ちょっと経ってしまいました。あらためて過去2回を見返してみたのですが、1回目と2回目のあいだもひと月あまりの期間があったようです。もしかしてこれが私のペースなのでしょうか。もちろん意図したわけではありませんが、だからこそなおさら真実味がありそうで嫌です。ブログ「症候会議」への他の寄稿者の方々は週1ペースだというのになんということでしょう。


さて、はじめにこれまでの歩みを振り返ってみましょう。
私たちはまず夢の奇妙な性質からこの考察に入りました。夢では時間が圧縮されているのではないかということです。ほかに同じようなものはないだろうかということであらわれたのが写真です。写真はその技術的な性質上、時間を圧縮するという特性を持っていました。ここから私たちは夢と写真それぞれ分析者たるフロイトベンヤミンの考察を見てみました。そこで明らかになったのは、時間を圧縮しているのは夢そのものではなく、夢に大きな影響を及ぼしている無意識なのだということでした。さらに無意識の時間を圧縮しているという性質をより一般的なものとして「無意識は無時間的である」と言い換えることができたのです。同様に写真も複製技術というより一般的なものとして考えることができました。
前回はここまで来て、次回こそは表題のテーマについて考えると予告して、中途半端に終わったのでした。


ということで、今回は「では複製技術も無時間的なのか」というところからはじめたいと思います。
この問いへの回答としてはじめに思い浮かぶのは否定的なものではないでしょうか。とりあえずここでも写真について考えてみましょう。私たちにとって写真とはまずなによりも記録ではないでしょうか。写真集に入るようなものから雑誌にちりばめられているようなものまで、写真にはアートとしてのものやただ単に情報を伝えるものまでいろいろあります。そしてそれらの用途は実際重なって存在しています。けれども私たち一般人からしたらやはり写真といえば記録です。旅行や子どもの運動会こそが自分のカメラが最も活躍する瞬間であるという人は少なくないでしょう。ですが写真は記録であるということになると無時間的であることとは正反対のものになってしまいます。報道写真などに顕著なように、そこでは決定的瞬間という時間性あるいは歴史性こそ重要なのです。単に映画というと劇場で公開されるものなんかを思い浮かべてしまってちょっと感じが違ってきてしまうのですが、広い意味でいう映画も事情は同じでしょう。
となると、やはり複製技術は無時間的ではないのでしょうか。でもここで気をつけなければならないのは、私たちが問題にしてきたのは複製技術であって、それによって生産された個別的・具体的なモノではないということです。写真についていうならばそれは「あのとき、あの人と、あそこで撮った、あんな写真」ではなくて、DPEを含めたような写真というシステムそれ自体です。このシステムに目を向けてみると複製技術は無時間的だといえるのではないでしょうか。そこでは同じ瞬間を同じように記録した写真が何枚にも複製され、人々によってあらゆる時間に見られるのです。たとえば、ここにおられる方ならば誰もが見たことがあるだろうフロイトが葉巻を片手にカメラを鋭く睨んでいる有名な写真があります。もしかしたらあの写真はもう70年近く決して途切れることなく世界中の誰かに見られてきたかもしれません(それはちょっと言い過ぎかもしれませんが)。そういう意味ではフロイトはいまも生きていて私たちを睨みつけているかもしれないのです。
このように複製技術も無意識と同じく無時間的であるといえるのではないでしょうか。一度複製技術の手にかかったものは抑圧されたものと同様に永遠に保存され何度でも繰り返し回帰するのです。だからこそ「あのとき、あの人と、あそこで撮った、あんな写真」をばらまくといって人を脅すようなことが可能になるわけです。複製技術は私たちの意識が本当は見ているのに見なかったことになっているものをも保存しています。それは本当は知っているのに知らなかったことになっている無意識に似ているのです。


ここまできてやっと表題のテーマへと進むことができます。私たちは夢と写真、無意識と複製技術との類似性を見ていく中で、それらの歴史性という問題にぶつかりました。ベンヤミンは複製技術を歴史的なものと考えていたようですが、そうなると無意識あるいはその存在に大きなものを負っている精神分析も歴史的なものであるということになるのでしょうか。実際のところ精神分析はそのような批判を受けてきました。精神分析を理解できるという人でも「エディプス・コンプレックスなどというものは19世紀末のウィーンにおける中産階級という特殊な歴史的な状況においてこそ考えられえたものであり、そのような状況以外では大した有効性を持たない」というように考えている人もいるのではないでしょうか。私自身実際に何度かそう言われたことがあります。そういう意味では、この一連の文章は彼らのために書かれたといってもいいでしょう。精神分析は歴史的なものなのかそうでないのか。要するにいまも使えるのかそうでないのか。しかしながら急いで結論を出してしまう前にまずベンヤミンが「複製技術時代」というときのその歴史とはいかなるものなのかということを考えてみなければなりません。


ということで、本当なら今回はここからはじまるはずだったのですが、前回の不足を補っているうちに長くなってしまいました。突然ですが今回はここまでです、というようにいつも通りおわりにしたいところですが、今回はまだ続きます。


ベンヤミンは複製技術の時代である近代をどのように考えていたのでしょうか。ベンヤミンにとっても、私たちがふつうに考えるように、近代は古典古代や中世やルネサンスとともにならべられるようなひとつの歴史的な時代であったように思います。ただひとつ違うのは、ベンヤミンは私たちが考えるように近代という時代が進歩や発展の時代だとは考えていなかったということです。ベンヤミンにとっての近代はどこまでいっても近代にほかならないのです。その意味で近代は歴史のどん詰まりです。ふつう私たちは近代こそが進歩と発展の時代だと考えています。実際、私自身が生きた四半世紀弱を振り返ってみても携帯電話やらインターネットやらが科学技術の展開によって生まれ、変化してきましたし、それ以外の領域においてもモードによって次から次へと新しいものが現れてきたように感じます。しかしながらベンヤミンにいわせると、それはらはつねに新しいということにおいてなにひとつ変わらないのです。それどころか進歩やら発展という概念自体が私たちが見ている商品世界の夢の産物であるといいます。
私たちは「木を見て森を見ず」という状況にはまり込んでいるのかもしれません。さきほど見た複製技術において言うならば、個別的・具体的なレベルではつねに新しいものがつくられていくわけです。映像でいうならばそれは誰もが見たことのない決定的瞬間であったりします。そしてそれらの映像は「カメラがとらえた決定的瞬間100連発」みたいな番組で一挙に放送されたりして、私たちはなんの疑問もなくなんとなくそういう見てしまうのですが、実はおかしなことになっています。そもそも決定的瞬間が100個もあっていいのでしょうか。それでもより決定的な瞬間を求めて番組を見続けられるならば夢を見ていると言われてもしかたないでしょう。撮影・編集・放送といったような番組のシステム自体はなにひとつ変わらないにもかかわらずです。
「つねに新しいということでは同じであるもの」というベンヤミンのいう近代の夢を私たちは精神分析においても見つけ出すことができます。それは抑圧されたものの回帰としての症候にほかなりません。私たちは抑圧したものの回帰をすでに知っていたのにも関わらずいつも新しいものとして経験するのです。ベンヤミンの近代の夢はまさにフロイトにおける症候としての夢なのです。


いま見てきたように、ベンヤミンの歴史の概念はふつう私たちが考えるものとは違っていました。そしてもしフロイト精神分析に「歴史の概念」があるとしたらそれはベンヤミンの歴史の概念と重なるといってもいいのではないか。ベンヤミンの複製技術の分析やそこから導き出された近代の見方の有効性は多くの人が認めてくれるでしょう。ということはつまり、フロイト精神分析は現代においても有効なのではないでしょうか。というよりもフロイト精神分析が有効であった時代はまさに私たちの時代なのです。エディプス・コンプレックスやヒステリーといった古めかしく思われている言葉たちは私たちの時代のものなのです。
ここでやっと表題の「歴史的」精神分析における括弧の意味を明らかにすることができたのではないでしょうか。精神分析はたしかに「歴史的」です。だがそれ故にこそいまも使えるし、あるいはいまこそ使えるのです。


フロイトベンヤミンは症候と近代の夢にたいしてどう考えていたのか。それを最後に見てみましょう。
フロイトにおいてのそれはよく引き合いに出される『続入門』の第三十一講の言葉ではないでしょうか――“Wo Es war, soll Ich werden.”。この言葉はふつう「エスのあったところに、自我をあらしめよ」と訳されます。つまり、エスにおける無意識的なものを意識化することによって自我に取り込むこと。自我の拡大こそが精神分析の使命であり解決であるというのです。
しかしながら、フロイトのこの言葉はベンヤミンの『歴史の概念について』の第VIIIテーゼとともに考えられるべきではないでしょうか。

抑圧された者たちの伝統は、私たちが生きている〈非常事態〉が実は通常の状態なのだと、私たちに教えている。この教えに適った歴史の概念を、私たちは手に入れなければならない。それを手にしたときにこそ、私たちの課題として、真の非常事態を出現させるということが、私たちの念頭にありありと浮かんでいるだろう。*1

エスという自我にとっての非常事態を自我によって解除するということではないのです。それでは結局のところまた新たなる「抑圧されたもの」を生み出すことにしかなりません。そうではなくて、エスという「〈非常事態〉が実は通常の状態」なのであり、そのような非常事態を出現させることこそが重要なのです。
ベンヤミンにおいて近代はどこまでいっても近代であったように、自我はどこまでいっても自我です。フロイトはよく自我を樹木の皮層のようなものとして説明していましたが、皮層とは内的な秩序と外界とを調整するものにほかなりません。ところでそのようなものをどこまでも拡大していったどうなるでしょうか。樹は最後には皮だけになってしまい、それは枯れていることとほとんど変わらないでしょう。
だからこそ、“Wo Es war, soll Ich werden.”はラカンがそう読んだように次のように読むべきです。


「それがあったところに、わたしはあらなければならない」


湯川

*1:ベンヤミン・コレクション1』(ちくま学芸文庫)、652頁