ちゃんと後悔したかった。
後悔20日目
『蟹工船』が、売れているらしい。滋賀の本屋でも、文庫コーナーにどっさりと平積みされていた。先週の名古屋での読書会で少し話が出たこともあって注目していたが、横浜や東京でも本屋にたくさん積まれていた。書店員の手書きポップにはこうある。
フリーター、アルバイト、派遣社員、「労働」に翻弄され正規雇用へとたどり着けない20代の若者を中心に、「 売 れ て い ま す 。 」 +ちっちゃい蟹のイラスト。(moso galleryのネタになりそう)
- 作者: 小林多喜二
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1953/06/30
- メディア: ペーパーバック
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プロレタリア文学という肩書きしか知らず、日本史の授業でそう言えば聞いたことがあるな、くらいの認識しかない人が多いであろう『蟹工船』だが、新潮社の戦略が見事にハマったのかどんどん部数を伸ばしている。プロレタリアートの切々たる嘆きを記した本が、一億層中流化、バブル、失われた10年を経た日本でまた興隆したのは、やはりポップの言葉通り、正社員になれない不安定な労働に従事する現在の20代を中心とした需要があったからなのだろうか。あるいは、ひょっとしたら今の20代が読んでいないだけで、学生運動に興じていた世代はがっちりと呼んでいたのかもしれない。フロイト先生も人間の本質は働くことと愛することだと言っている。
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加えてもう一つ、復刻版『ドラゴンクエスト5』が、すごく売れているらしい。ニンテンドーDSで7月に発売されたロールプレイングゲームのリメイクは、数多ある「新作」ゲームを押しのけて、すぐに売り上げトップに躍り出た。Wiiやら何やらで新たな道を開拓せねばならない業界において、リメイクがこれほど売れるなら、ゲーム制作会社も新作を開発したくなくなって然りである。
バイト帰りに、東横線に座ってDSを開いている人の画面を覗き込むと、DQ5の懐かしい画面にスライムナイトが生き生きと躍っていた。中には、膝/ガイドブック/DSと三段重ねにして車中プレイに勤しむツワモノもいる。ダンジョン内の宝箱を一つ開けるたびに、ガイドブックの街頭箇所を鉛筆でチェックする、という作業も含めて、電車内ではいくつもの「冒険」が行われているようだった。
- 出版社/メーカー: スクウェア・エニックス
- 発売日: 2008/07/17
- メディア: Video Game
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『蟹工船』の読者は、しかし、闘争に立ち上がろうとすることはどうやらないようだ。Web上の感想を見ていても、「今現在の社会と少しも変わらない。ワーキングプアーの現状をよく表した小説。」や、「共感しました。今の私の労働環境そのものです。」「なんというか、身につまされました。自分も、頑張ろうと思いました。」と、どことなく力ない。
オホーツク海で操業し、暴利をむさぼる蟹工船の内部で、国策の名のもと、リンチなど過酷な労働を強いられた労働者たちが、団結して闘争に立ち上がる。一度は、駆逐艦から乗り込んできた水兵に代表たちが拉致されるが、労働者たちは再び闘いに立ち上がっていく。
(あらすじ)
という大筋から「闘争」「団結」といったキーワードは拾われることなく、その報われなさ、社会の不条理さのみが今、読み取られているのである。「何か大きな力が、自分とは遠くはなれたところで働いていて、それによって、今の自分の状況が作り出されているのだ…。」というある種他人事めいた気持ちが、一種のナルシシズム的無常観となって今の読者に広く取り込まれているのではないかと思う。間違っても、革命などと呟いたりはしない。
自ら共産党員となって拷問により死亡した小林多喜二は、こんな船乗りたちの登場など予想だにしなかっただろう。
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そこへきての『ドラゴンクエスト』である。ドラゴンクエストをはじめロールプレイングゲームに漂っているのは、今の社会と同じ「何か大きな力が作用しているようだ」というぼんやりとした雰囲気である。魔王の力、先代の血、龍の伝説、というファンタジックなものから、プログラム、乱数といったゲームの裏側にあるものまで、自分の思い通りにならないやんわりとした作用が、存在している。
宗教などに成り代わってある種の悟りを僕らに開かせてくれたゲームが、この生き辛い社会の中で厳然たる「経文」となる。南無阿弥陀仏と唱える代わりに、ホイミ、ケアルと唱えることで、我々は少し楽になる。
福田総理の辞任が「投げ出し辞任」「他人事辞任」などと批判を通り越して嘲笑されているが、あらゆることが他人事に見える我々は、この一年間、福田氏のそうした他人事政治にどこか自分に似た姿を見て、胸をきゅうっとさせていたのではないだろうか。総理もきっと、「なーんか、どこかで、大きな力が働いているようですねぇ…。」とずっと思っていたかもしれない。
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そうした他人事の連鎖はどうにも止まらないようで、これを書いていても書いている自分とパソコンの前の自分とはまた遠く離れているような気がしてくる。思えば出来事を他人事として扱うのは、後悔やらなんやらをすることから逃れるためのリスクヘッジであったはずだ。最近、上手く後悔することができないのも、そうした他人事ムーブメントによるものかもしれない。
後悔できないことに、
後悔した。
おおはし