希望なんて二度と抱かない



みなさんこんにちは。連載の更新が大幅に滞っておりました。すいません。

ところで先週は、出来レースの総裁選よりもタイフーンの話題で世間はもちきりでした。タイフーンが関東を通り過ぎたそうですが、みなさんのお住まいは大丈夫だったしょうか。僕はといえば、全く影響を受けない場所にいたので、テレビで流れるタイフーン情報と、タイフーン通過前の世間のあのどこかソワソワした雰囲気に、あまりピンときていないところがありました。


子供の頃から、タイフーンというのは心がなんだかソワソワするものでありました。でも子供のタイフーンに対するソワソワする気持ちは、「ワクワクする気持ち」と限りなく近いものでありまして、口ではタイフーンが来ることを迷惑がるものの、実のところ子供っていうのはタイフーンがくることを心底楽しみにしているんですね。夏休みが終わり、ちょっと寂しくなっている時とちょうど重なりますから、タイフーンの通過がその年の夏最後のビッグイベントになるわけです。
大人にとってタイフーンは、仕事に支障をきたす、家が停電になる、場合によっては命をも危うくなる自然災害ですから、それは来ないならこないでそれにこしたことはないのですが、子供にとってはタイフーンも、タイフーンによってもたらされる停電などの非常事態も、それらすべてが明らかにお楽しみの出来事であったのであります。


近年、荒れる成人式など、はたして二十歳が子供と大人の境界線なのか、という議論がよく持ち上がります。しかし、もともと時代が成長することを止めた「思春期ポストモダン」(@斉藤環)なわけですし、安部、福田両首相による、負けそうになってオセロ盤をひっくり返したガキんちょのごときあの唐突な辞任劇からしても、そもそもこの国に「子供でない人」なんているのか、という話にもなってしまうわけです。
ですからこの際、タイフーンでワクワク「できる/できない」を「子供/大人」という境目にするというのも、ありなのではないでしょうか。もちろん、ここでいう大人とは「まだましな子供」ぐらいの意味でしかありませんが。

ん?僕ですか?
もちろん、今回のタイフーン騒動に参加できなかったことを、心底残念がっております。
どうも、永遠の15歳イマダです。

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さて、今回のタイトルは「希望なんて二度と抱かない」。
僕の性格について少し知っている人には、僕がまた期待していた何ものかに裏切られて、「希望なんて二度と抱かねぇよ!ばっきゃろーっ!」という自暴自棄な心境で書く、なんともみっともない記事かと連想をさせてしまうかもしれないが、そういうことではない。

ここでいう希望とは、「フラグ」と言い換えてもいい。フラグについては、先月おおはし君が書いてくれた。フラグについて知らない人は、 そのときの後悔日誌を読んでほしい。


おおはし君がいうとおり、今やフラグはインフレーションを起こし、小説やマンガ、アニメやゲームといったフィクションの世界を飛び出し、僕たちの日常世界さえも侵食しようとしている。
現実の世界におけるフラグのインフレーションは、フラグへの反応のインフレーションをも併発させる。フラグが立てば、もはや重要なのは現実がフラグの筋立てどおりに進行するのか、それとも思っても見なかった別の展開へと進むのか、そういった文字通り二進法の、0/1の貧しい見方しかできなくなる。


「登校中に曲がり角で転入生とぶつかる」、「本屋で偶然、同時に同じ本に手を触れる」などは、フィクションの世界における恋愛フラグの代表選手である。そして現実でフラグが立つという表現を使うときのフラグとは、概して死亡フラグではなく、この恋愛フラグなのではないだろうか―もちろん上記のような超奇跡的な怪現象のようなフラグは立たないが。


ここで言いたいのは先にも書いたとおり、このように現実で使われるフラグとは、旧来の「希望」の一種であるということなのである。恋愛のきっかけや希望の光のようなものは、もちろん昔から存在した。昨日や今日初めて会った人間と、熱烈な恋愛に陥ることなんてハリウッドバカ映画の世界だけであって、現実にはまずありえない。そういうものは段階をもって進展するのである。そういった恋愛のきっかけ、希望をなぜ、今ではフラグというようになったのか。


それは自意識の問題だ。僕がある現実における出来事の展開に、恋愛のほのかな萌芽を感じとったとしよう。それを希望と読み取れば、どうなるだろうか。その恋がもし破綻をきたした時、それを希望と解釈した過去の僕が傷を負うだけである。
それに対して、その恋愛をフラグ化したらどうか。さきに書いたとおり、もはやフラグとは、当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界である。たとえその恋が実らなかったとしても、さらに言えばどんなに的外れなものだったとしても、「フラグ通りにはいかなかった(笑)」というネタ化が防護膜の役割をはたす。そこには、ネタ/ベタのアイロニカルな主体にとって、本当は失恋に真面目にへこんでいる自分(ベタな自分)を覆い隠し、「フラグに裏切られた(笑)」と笑ってすませられる自分を前景化することができる「ずるさ」がある。
そのずるさは、フラグが「立つ」という言い方にも現れている。決して自分で立てるわけではない。勝手にフラグが立っていたのである。そこには「俺が立てたわけじゃない。フラグが勝手に立ってたんだ!」という言い訳の余地が残されているのだ。


現実におけるフラグのずるさは、そういうところに現れる。


ん?別にいいじゃないか、フラグを立てたって、だって?ずるく見えたって、別に実害はないのだし。たしかに、「フラグが立った!」(クララが立った!みたい)が、自己防衛の手段になっているのであれば、当人にとってはそれで満足だろうが、見ているこっちが不満足なのである。そんな生ぬるい生き方でいいのか?チェスト―ッ!と。
人に厳しく自分に優しい、それが僕イマダの信条である。


フラグが立った、立たないとさわぐ輩は、根本的な間違いを犯しているのかもしれない。精神分析ラカンの言葉のひとつに「手紙は必ず宛先に届く」というものがある。これをもじれば、「闇の精神分析家イマダ」のテーゼは次のようになるだろう。


「フラグは必ず実現する」


僕の陰湿な趣味の一つに、オリンピック後にオリンピック前の出場する選手のインタビュー記事などを読むというものがある。僕の手元には今、五輪開催前の特集号で星野仙一のドアップが表紙を飾るNumberがあるのだが、今となってはこれなんかフラグ立ちっぱなしなわけである。
中見出しで、かなりおいしいことを言っているのだがその中でも、みなさんも記憶にあるだろう五輪開催前に彼が発した名文句、「金(メダル)しかいらん」。五輪の結果を知っている僕らが、彼がフラグに裏切られた、フラグが折れたと単純な判断を下すのは早計である。むしろフラグは実現したのである。

北京五輪が終わり、星野ジャパンは金メダルどころか、銀メダルも銅メダルさえも持たぬまま成田空港に降り立った。唯一の目標と思われた金メダルは獲得できなかったが、よく考えてほしい。「金しかいらん」ということは、金でなかったらどのメダルもいらない、ということを意味している。そして実際に彼は、手ぶらで日本に帰ってきた。彼は自分の欲望を、自分のフラグの実現した現実を、反転した形で受け取ったのである。
ゆえに「フラグは必ず実現する」。


ところで、今週のタイトルは「希望なんて二度と抱かない」であるが、冒頭で書いたとおり、このタイトルには筆者の個人的な情念や怨念が練りこまれているわけではない。そういった感傷的な意味合いではなく、字義どおり希望は抱かなくていいのである。

フラグ論者(ここでは「フラグが立った!」といちいちうるさい輩をまとめてこういう)は、フラグ論者であると同時に、「運命論者」であるということも注意しよう。「フラグという導き手に導かれていった先で、自分は運命の女性の元にたどり着くんだ」。彼らの脳内では点と点を線で結んでいった先に、運命の女性がいて、その人と恋に落ちるという視覚的なイメージができあがっているんじゃないだろうか(ご多分にもれず僕もそうなのだが)。先にも書いたとおり、それゆえにその点を途中で見失ったときに、希望が実現し損ねたときに、僕らは落ち込むわけである。

しかしそんなおめでたい(前回の記事でいうところのリア充的な)「虚妄」を吹き飛ばすようなジョークがある。
以前松本人志がラジオで言っていて笑ってしまったのだが、彼が自宅マンションから車を出すときに、急いでいたのに出口のところでそこの住人のブラジル人に横切られ、一瞬ながら邪魔をされた形になり、「イラッ」ときたという。そこからが彼の発想の独特なところなのだが、松本からすればそのブラジル人は、「ブラジルで生まれ、わざわざ俺の車が車庫から出るのを邪魔するために日本に来た」と考えることもできるのである。
こういう例は他にもある。車つながりでいうと、交通事故を起こして相手を死なせた車は、その時点から翻って考えると、「人を殺すために工場で製造されていた」という発想もなりたつ。


こういった発想は、一見ばかばかしく見えるが、よく考えてみたらそう考えられなくもないという不思議な余韻を残す。すべてが最終的な目的地(手紙の宛先)に向かうためにあらかじめ決定づけられた運命にそって動いているように見えるのである。


恋愛だって同じではないだろうか。僕らは「あの時ああなっていたなら」「あの時そうしていなかったら」という発想をしては、それを打ち消す。「そうなっていなかったら」の現実も容易に想像できるから、僕らは怖いのである。「今・ここ」の現実のあまりの不確定性に。運命なんてない、すべてがただの偶然の集積だったということに。


しかしだからこそ、こうも言える。「フラグは立つのではない。知らないうちに立ち、さらに実現していたのである」と。常に事後的に、「フラグがあの時に立ち、そして実現していた」と考えれば、そもそもフラグというずるい考え方さえしなくていい。常に希望を、事後的に想定すれば、すべてが「すでに叶えられた」希望になるのである。

だからこの記事のタイトルはこう付け足すべきである。
「希望なんて二度と抱かない。だって気づいた時にはもうすでに叶ってるんだもんっ!」と。


ところで、僕のこの文章はどういうフラグになっているのでしょうか?


イマダ