僕らの夏休み

大学の夏休みは破格的に長く、まるまる二ヶ月間にもわたるわけであるが、それもあとわずかで終わろうとしている。最近はそうでもないのだが、高校のあたりまでは他人の夏休みが結構気になっていた。
しばらく教師に会わなくていいという言い訳のもと髪を染め、それをもとに戻さないまま学校に来て、教師になにか言われないか心配だということをやたらみんなに喋りまくる奴とか、妙にテンションが高くてニヤニヤしている奴とか、また学校がはじまってしまうことを心から悲しんでいる人とか。新学期がはじまる日は人間の悲喜こもごもを目の当たりにすることができる。そしてそんな日に決まってなされる会話といえば、どこに行ったのだとか、彼氏彼女はできたのかとか、あるいは処女童貞は喪失できたのだとか、そういったようなものだ。誰もがそんなような会話をしながら、しばらく会わないことで忘れてしまった他人との接し方を思い出すのである。
言ってみればこういった会話はリハビリテーションのようなものであって、実際のところ特筆すべき何かがあった人なんてほとんどいないのである。そんなこと誰だってわかっている。だがそれでもわれわれがこの種の話題をさけては通れないのは、「ひと夏の過ち」の存在をどこかで信じているからではないだろうか。あるいはそれを信じたいのである。たとえ自分がその当事者でなかったとしても「ひと夏の過ち」自体はせめてどこかで存在していて欲しい。


現代はリスク社会であると言われるが、そんな時代の理想的なリスクのあり方とは他人のリスクである。誰かがリスクを背負わなければいけないのはわかっている、だがそれが自分であったら困る。このリスク社会においてわれわれに課された至上命令とは、自分ではない誰かがリスクを全面的に背負う状態へと身の回りのあらゆるものを管理していくことである。そしてこの命令の至上性にこそリスク社会なるものの厄介さがある。
リスク社会から抜け出すことはできない。一度でも「ここはリスク社会である」という言明がなされるや否やそこはリスク社会となる。「われわれの社会はリスク社会である」という認識持った人は誰もが一斉にリスクを避けようと必死になる。なぜならばリスクは必ず誰かが背負わなければならず、避けようとしなければ間違いなくスケープゴートにされてしまうからだ。しかしながらここで涼しげに皮肉を言う人がいるかもしれない。「そもそも現代はリスク社会なんかじゃない。君たちが勝手にそう思い込んでいるだけだよ。」だが残念なことに、リスク社会の成員からすればこの涼しげな皮肉屋の態度と行動はそれ自体一種のリスク回避の行動にしか見えない。イソップ物語の「あっちのブドウは酸っぱいんだ」というやつである。リスク社会の成員からすれば、それは単に逃げているにすぎない。さらに悲しいことに結局のところ逃げられてもいない(この寓話はよく精神分析における防衛のひとつである合理化の例に使われる。その意味で、精神分析はリスク社会と同じく「言葉にすることによってそれが現実になる」という魔法の術かもしれない。われわれは精神分析あるいは無意識からは決して逃げられない。)。
誰もが社会的に成功できればいい。だがそんなことあるはずもない。このどこにも逃げ場のない社会の中で、なんとか生き抜くためにわれわれが選んだのはシニシズムである。「リスク社会とかなんとかうるさいが結局のところゲームみたいなものだろう。金持ちだろうが貧乏だろうが犬だろうが、どうせ誰だっていつかは死ぬんだ。でもゲームなら死ぬまでの暇つぶしにちょっと参加してやろうじゃないか。」誰もがそんな感じでリスク社会を生きている。


われわれ非社会人にとってもリスク社会は決して他人事ではない。むしろ、われわれはいつの間にか、このリスク社会にあまりに順応しすぎてしまったのではないだろうか。夏休みというリスク要因に関して言うならば、われわれのリスクヘッジの結果として現れたのは、もはや誰一人として「ひと夏の過ち」を犯すことができない社会である。
過ちとは言うものの、そもそもここで言うところの過ちは実に甘美なものであったはずである。「ひと夏の過ち」と聞いて、大抵の人が連想するのは恋愛だろう。もっと言えばセックスである。さらにもっと言うと正しくないセックスであり、この場合は結果として子どもができてしまったりする。さすがにここまでいくと甘美どころか辛酸をなめるほどの苦しみを味わうことになり、それこそ過ちになるかもしれない。だがふつう、この過ちは決して悪くはないものである。恋の甘酸っぱさや夏特有の開放的なセックスの背徳感。きっとそういうところから過ちと呼ばれることになったのだろう。
ところがわれわれリスク社会の子どもたちは「ひと夏の過ち」を文字通りに受け取ってしまった。なんてバカなんだ奴らだと思うかもしれない。だがこの「文字通り性」こそがリスク社会の産物だとしたろどうだろうか。
たとえばいまあなたはY字路に立っているとする。目の前で道は二つに分かれているのだ。そしてその分岐点には例のごとく道案内の標識があったとする。あなたは二つのうちどちらか一方だけが正しい道であるということを知っているだけであり、この分岐点でどちらに進むべきなのかは知らない。そしてなによりも重要なのは、リスク社会に生きるわれわれと同じく、あなたはこの選択を結局のところどうでもいいものだと思っている。
たとえば標識に「この先、左」と書いてあったとする。ここでわれわれシニシストはどうするかというとさんざん悩んだあげくに左に進むのである。なぜそうなるか。われわれはリスク社会に生きているのである。つまりつねに誰もが誰かを貶めようとしている。なによりの証拠はわれわれ自身がそう思っていることである。そうなるとこの標識の言葉自体信じるに足りないということになる。ここは裏をかくべきか、あるいは裏の裏をかくべきか、いや裏の裏の裏をかくべきか。ここに至ってはもはや標識は意味をなさなくなるようにみえる。だがこの瞬間にこそ標識は最終的に意味を獲得するのだ。どちらに行けばいいかわからなくなったわれわれは唯一のヒントである標識を採用することにする。これこそがリスクヘッジというものだ。それに結局のところどうでもいいことなんだし。
こうしてわれわれリスク社会の子どもたちは「文字通り性」を獲得する。ただしここで重要なのはこの「文字通り性」は「文字通りでない場合を含んだうえでの文字通りである」ということだ。さらに注意しなければならないのは、結局のところどうでもいいということである。


リスク社会に順応しすぎたわれわれのリスクヘッジの結果として現れたのは、もはや誰一人として「ひと夏の過ち」を犯すことができない社会であった。これはこれである意味よかったかもしれない。誰もが話のネタにされて他人に愚弄される危険性からは逃れられたのだ。だがこれにはおそるべき副作用が伴っていた。恋愛できない、もしくはセックスできない社会である。これはあまりにリスキーな社会ではないか。そもそも誰もがリスクヘッジする社会は高度にリスキーな社会である。リスク社会はさらなるリスク社会しか生み出さない。
新学期がはじまる日、われわれは他人の夏休みの思い出を聞くことによって、このリスク社会から抜け出す道を探っていたのである。自分が抜け出せなくたっていい。でもせめて抜け出すことができるという事実はどこかに存在していて欲しい。
この困難な社会から抜け出す道は果たして存在するのだろうか。残念ながらそんな道はありそうもない。じゃあ自殺でもすればいいのだろうか。でもそれもどこか別のよりよい社会にいけるわけではない。ただ単に消えるだけだ。
すでにあまりにもリスク社会に順応してしまったわれわれは、この際さらにそれを推し進め、究極的にリスク社会に順応してみたらどうだろう。ありとあらゆる無駄を省き、すべてを人任せにし、何事にもたいしても他人事として振る舞うのだ。
そう考えてみると、なによりも無駄なのはわれわれリスク社会の子どもたちの「文字通り性」である。この「文字通り性」とは「文字通りでない場合を含んだうえでの文字通り」であった。さきほどのY字路の話に戻るが、「どうして左を選んだの?」と聞かれた場合、われわれはこう答えるのである。「いや、左って書いてあったから。もちろんこれは罠なのかもしれないとは思ったよ。でも結局左を選んだ。そう書いてあったし。だし、そんなのどうでもいいじゃん。」
この標識こそがまさに最近話題のフラグである。われわれシニシストは、もともとは単なる標識であり補助装置であったようなものにこそいろいろ思い悩み、みずからのCPUをフル回転させてリスクヘッジを試みる。その結果まさにコンピュータのようにフリーズする。そして無関心というアリバイを作ったうえで、結局のところ文字通りを選ぶのだ。
でも、なんだかんだで最後には文字通りの道を選ぶのであったら、あらゆるフラグ問題は無駄である。そんな無駄はわれわれには必要ないはずだ。そうでなくてただ単に文字通りを選べばいい。登校中に曲がり角で転入生とぶつかったり、本屋で偶然同時に同じ本に手を触れたならば、単にその娘と付き合えばいいのである。「恋愛フラグが立ってしまった。どうしよう。」とか考えているんじゃなくて、その娘と付き合ったらどこにデートにいこうとか、映画の次はどうしようとか、どんなプレイをしようとか、そういうことを考えればいいのだ。
われわれはリスク社会に生きている。その中で生き抜くために身につけたのがリスクヘッジであった。だがいまやリスクヘッジそのものが自己目的化している。リスクヘッジのためのリスクヘッジのためのリスクヘッジ・・・。これじゃ携帯電話の分厚い説明書をすべて読み、完全に理解したうえでないと、もはやケータイを使えないようなものである。
われわれは「読む」ことによって「行為」の遂行を遅らせようとしている。「ひと夏の過ち」も、たしかに読んでみたら過ちである。だが「行為」してみればいいのである。もしかしたらそれは素晴らしいものかもしれない。
さぁ、きみもこんなブログを読んでいる場合ではないはずだ。夏休みはあと一週間しかない。もうとっくに夏は終わったかもしれないが、まだ夏休みには違いない。「読む」のをやめて、いますぐ「行為」に移るべきだ。そして新学期がはじまったらきみの「ひと夏の過ち」を私に聞かせてくれないか。


湯川