面白くなくたって、いいじゃない!



みなさんこんにちは。
清原の引退セレモニーで剛が歌っていました。
え?誰かって?
剛といえば長渕以外いないでしょう。
まぁそれはいいとして、清原のために歌うといって、清原に背を向けバックネット側の客に対して歌っていて何か不自然に見えます。どうもイマダです。
テレビ的には、二人を同時に押さえたカットが取りたかったかもしれませんが、それにしても長渕剛越しに視る清原は、それはそれはもんのすごい赤ら顔で号泣しているわけで、いくら歌手歴長い長渕でも歌うとこをそんな顔で見られたことはないよというような形相で背中を凝視しているわけで、そんな画は当然ながら不自然なのです。どうもイマダです。


例えるならそれまでは真面目一辺倒だったクラスの学級委員長が、「俺は実は面白いんだぜ」的にキャラチェンジをしてふざけだし、しかもそれがあまり面白くなかった時のあの鬱陶しさと似たものを感じる最近のNHKであるが、耳の痛い、というかテレビなので耳も目も痛くなるような番組をやっている。「めざせ!会社の星」である。
まだ入社してまもない若手社員が抱えている仕事や上司への不満や悩みを、毎回一つテーマとして取り上げて解決に導くバラエティーなのだけれど、作っているのがNHKだけに、自らも受信料を払っている公共放送なだけに、何か「置いてけぼり」にされた気持ちになる。「若者は働いていて当然っ!」「若者のデフォルトは就職!」というメッセージが、いつも視るたびにどこか漂っているように感じる。まぁ実際にそうなんだろうけども。ワーキングプアを社会問題化したのもNHKであるが、若いもんは有無を言わさず働けといっているように見えて、あの番組は大学院生の僕には苦々しい表情でしか視れない番組なのである。


そんなNHKであるが、最近単発ものながらさらに嫌〜な番組をやっていた。「ソクラテスの人事」である。
最近の採用試験には、あらかじめ答えの決まった知識を問う問題ではなく、「地頭力」なる応用力を駆使して、自ら答えを創造しなければならない問題が出題されるらしい。この番組はGoogleなどで実際に採用を担当して社員が採点者となって、ゲストの答えを採点していく。いわゆるクイズバラエティーである。

まず、就活を連想するから採用試験なんてテレビでとりあげんじゃねぇということを思うし、それよりも問題なのは内容である。「富士山はどう動かしますか?」とか、単純な円筒や直方体の積み木を渡され「未来の車を作りなさい」だとか。それを、ゲストのタレントが頭をひねって考え、答えを導いていく。そして、最後には採用される人が決まる。もちろん、それは本当に採用されるのではなく、番組の優勝者ということだけど。
視ていてわかった。このテストって、要は大喜利なのである。面白い発想をした回答者ほど、ウケるし「独創性」の名の下に、採用に近づいていくのだ。そして何よりも、このテストがバラエティーの題材として使えるという事実自体が、そのテストが大喜利化しているということを物語っているのではないか(そして現に優勝した一人はかの「おしゃべりクソ野郎」こと品川裕である)。
この番組を見たときに僕が感じたあの「嫌〜な感じ」っていうのは、おそらくこの番組が世間の大喜利化の波に迎合したものであるからだと思う。


「前回はタグ化だし、お前の記事は本当に「〜化」ばっかりだな。お前のためにそのうち『化』する社会」とか「『化』症候群」っていう記事書いてやんよっ!」という威勢のよい反論が返ってきて欲しいところだが、社会は大喜利化してはいやしないだろうか。それは一つの症候である。大喜利症候群である。


僕の中ではこの症候群は、あるもう一つの症候群と共鳴する。それはずばり「アーティスト症候群」である。


アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

どんな古くさい絵を描いていても、アーティストと言われるている。が、現代美術作家というのは、オールドタイプとは明確に一線を化しているという自負があるものだ。それは今もあまり変わらないだろう。当時の「アーティスト」という言葉は、その自負を支えるつっかえ棒の一つであった。
我々が一番面白い!我々が最前線である!」常に前のスタイルや思考を変革することで展開されてきた美術の、その先端に立とうとする人々がそのように気張ったのは、当然のことである。

大野左紀子『アーティスト症候群』(24P)

(強調――引用者)

アート、特に現代美術と「面白さ」(ひらがなの「おもしろさ」ではなく、漢字の「面白さ」であることも重要)というのは、一見結びつきにくいものにみえるのだが、突き詰めて考えてみると、それらはかなり通ずるところのあるようにも思えてくる。もちろん森村泰昌など、関西人気質の「面白さ」を追究するアーティストもいるが、そもそもアートのその全体に「面白さ」を追究する、その志向性が備わっているのではないか。そしてアートが「面白さ」と通ずるのであれば、大喜利とも根底の部分ではつながっているようには見えないだろうか。


アートも大喜利も、一方は手を使って制作することであり、もう一方も問題の答えを頭で考え書くことであるから、表面的には「創造」ではあるが、その内実はといえば、むしろ反対の破壊である。例えば、大喜利において次のような問題が出る。「画期的な新しい携帯電話が出ました。どんな携帯でしょうか?」この問題に対して答えを書くということは、新しい携帯電話を頭の中で生み出す創造の行為ではあるが、それよりも重要なことはそれに先だって、「既存の携帯電話という物」の概念を自分の頭の中で一時的に「破壊」する、ということである。そうでなければ面白い回答は書くことが出来ないだろう。

でもこれって、現代美術でも同じではないだろうか。こんなこといったらあれだけど、この本にも紹介されるデュシャンの「泉」は、「あなたは美術館に出展します。どんな作品を出展しますか?」という大喜利の回答とも、解釈できる。それは「美術という概念」の破壊なのだから。


壊していくということはどんどん細かくしていくということでもある。しかし、細かくしていくのにも限度というものがあり、あまりに破壊しすぎて細かくしすぎると、それこそ飛沫のようになってしまい、もはや破壊のしようがなくなってしまう。皮肉なことに、そういった手詰まり感もアートとお笑いの世界は共有しているのであるが。


大喜利症候群とアーティスト症候群。採用試験がアーティスト化したのか、それともアートが大喜利化かしたのか、卵が先か鳥が先かではないが、どちらがどちらの亜種なのか、それとも独立した二つの症候群なのかはわからない。ただアートが「面白さ」に近づき、アート以外の社会の営みが独創性やユニークさを希求して、結果的に似たようなアーティスト症候群と大喜利症候群という二つの症候が生まれたのかもしれない。


ところで、この大喜利化はオタク界隈でよく使われる「ネタ」化と同じものではないのか。
たしかに、ネタ化と大喜利化というのはよく似ているようにみえる。
ただ、今よくネタにされるという場合は、嘲笑するニュアンスがきわめて高い。つまり、その対象をある程度貶めている場合が多い。大喜利においては必ずしも相手を陥れることだけがよしとはされてない(歌丸は楽太郎からたびたび大喜利のネタにされていたが)。
そして何よりもまず、ネタ化においては「独創性」を目指さなくてもよいのである。


例えば、車体にアニメキャラを描いた痛車というのがある。あれは間違いなく、車のネタ化であるが、それでも描かれるキャラクターにおいてオリジナリティーは感じられない。目にするのは圧倒的にハルヒや「らき☆すた」であり、その他のキャラクターはあまり見あたらない。
例えばあの痛車のムーブメントが、車体で大喜利をするという需要のされかたなのであれば、「他人と同じキャラクターを貼る」とはつまり「他人と答えがかぶる」と同義であり、一番やっては行けないミスの一つである。その点から考えると、ネタ化は大喜利化と似ているようで若干違う症例らしい。


それにしても、アーティスト化も大喜利化もネタ化も、みな同じくしんどいのである。「人志松本のすべらない話」ではナレーターが毎回冒頭でとんでもないことを言っている。「誰でも一つはすべらない話を持っている」。そんなこと、いったい誰が決めたんですかっ!


この言葉のせいで(かは知らんが)、僕たちは今や、人と会えば面白いことを言わなければならなくなっている。毎日がオーディションである。面白くないヤツはどうなるのだ。人と会ってはいけないんですか!?


アーティスト化、大喜利化、ネタ化は同時進行で進んでいると思う。オタクもやがて高齢者になるときが来る。僕の中では、その内アニメキャラがデザインされた葬儀場や霊柩車(その名も痛霊柩車)が、想像の上では成り立っていて、それが薄ら寒いのであるが。いかにもそういう葬儀場が「ありそう」ではないだろうか。


その点、先頃亡くなった赤塚不二夫に向けてタモリが読んだ悼辞は示唆的である。


「あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。」


それは、赤塚不二夫が先達ではあったとしても、彼だけもことではないのかもしれない。もはや僕らも、彼と同じ道を歩まなければならないのかもしれない。

「僕たちにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。」


イマダ