タグ化する社会



小泉ジュニアが地盤を引き継ぐことに僕が憤怒しているのは、それが世襲であるからではなく、彼が間違いなくモテそうだからです。
どうもイマダです。


先週僕がタイフーンの通らない場所にいると書いて、読んでいる人の中にはどこにいたんだ?という疑問を持たれた人もいるかと思うが、何のことはない。長崎にいたのである、家族旅行というやつで。

長崎にある「ハウステンボス」というテーマパークを聞いたことがあるだろうか?
日本にあるテーマパークは、何もディズニーリゾートやUSJだけじゃない。「知ってるよ、富士急ハイランド」「花屋敷は、行ったことあるよ」というヤツ、チミはまだまだ甘い。それらは関東地方にあるだけ、まだマシである。日本の各地で、いろんなテーマパークが頑張っているのである。ほとんど誰も来ないのに、もぎりのおばちゃんが入場者を待ちかまえているのである。たいして可愛くないマスコットが、ゆらゆらゆれながら園内をさまよっているのである。日夜、誰に頼まれるでもなく、メリーゴーランドが回っているのである(誰も乗っていないメリーゴーランドほど悲しいもんはない)。そんな中の一つであるハウステンボス。一応説明しておくと、出島で有名な長崎にオランダの町並みを再現しようというコンセプトのテーマパークである。


行ったのは日曜日だったのだが、寒気がするほど人気がまばらだった。休日であれだと、平日の客の入りが気になってくる。テーマがヨーロッパの町並みだけに、本当のゴーストタウンのような不気味な様相になってしまうのではないだろうか。そんなことを来た客に心配されるハウステンボス(人がまばらなメリーゴーランドもちゃんと回っていた)。


歩いていろいろまわっている内に、なんでハウステンボスがダメなのか、ということの一因がわかってしまった(ような気がした)。
一言で言うと、あのテーマパークはコンセプトがぼやけているのである。キャラが薄いのである。
僕の行った日は特設ステージみたいなところでなにやらやっていたのだが、思いっきりドイツ国旗が掲げられていた。「なんだなんだ、ここはオランダ(を再現しているの)じゃないのか?」という疑問を持ったのだが、そんな僕を尻目にステージ上では、明らかにドイツ語をしゃべる大男たちのブラスバンドが、陽気に踊り狂っている。腑に落ちないので家に帰ってネットで検索したら、どうやらハウステンボスはいつのまにやらそのテーマをオランダからヨーロッパ全土に拡大したらしい。数年前に会社更生法を申請したとされているので、もしかしてそれを期に集客力アップを狙って変更したのかも。


それにしてもヨーロッパといってもいろいろなのである。極寒のロシアだって東欧には当てはまるだろうし、パリの緩やかなカーブを描く町並みだってもちろんヨーロッパだ。トルコだってヨーロッパに数えられるかもしれない。そんな多種多様で漠然としているヨーロッパを、一括りに出来るだろうか。結果何が売りなのかということが漠然としていて、週末以外はゴーストタウンなわけである。
このように、ハウステンボスはいわば「キャラ」が薄いテーマパークなのである。


それに比べて、ディズニーリゾート、USJは徹底している。特にディズニーリゾートは従業員の応対も完璧に近い。その世界観を壊すようなものは何もないのである。そこは日本ではない。一応外界のルールにあわせて「千葉県浦安市舞浜1番地1」という住所があるが、あそこは本当は夢の国ディズニーランドなのである。
「園内にミッキーマウスが現れる時間帯は、世界に各地にあるディズニーランドで連絡を取り合いながら調整されている。なぜならミッキーマウスは世界にたった一匹しかいないのだから」という都市伝説があるほど、その世界観は完璧に保たれている。ハウステンボスとは反対に、これら盛況のテーマパークはキャラが濃いといえる。
このようにキャラが薄いと生き残れない。逆に言えばキャラが強ければ強いほど人気者になれるとしたらどうだろうか。それは人間にも言えるだろう。


キャラ系芸人というのが出現しだして久しいが、僕は最近そのキャラ芸人がテレビの中で「死ぬ」時がいつなのかというのがわかった気がする。その時とはずばり、「彼女からの手紙」である。いや、もちろんそれだけではないが、大まかに言えば私生活を暴露されることである。
そのなかでももっともプライベートな部分であるはずの彼女にまで、テレビの魔の手が迫っていたら、もうその芸人はテレビの中では死亡宣告を受けたといっていいのではないだろうか。なぜならそれは、そのキャラ系芸人のキャラが消費し尽くされたということを意味するわけだ。彼女からの直筆の手紙の一言一句にマジ赤面する芸人たち。彼らのキャラを味わいつくした視聴者に楽しむ余地があるのは、もうその素のリアクションだけなのだから。昨日「メレンゲの気持ち」に「髭男爵」が「彼女からの手紙」、おもいっきりやられていた。
ではキャラが尽きたら、そのタレントは死んでしまうのか。そこまでテレビは無慈悲ではなく、蘇生術というのか延命処置というべきか、一応まだ手段は遺されているのである。端的に言ってそれは、キャラを「増やす」ということ。あるいは「タグ」を増やすことである。
えっ、「タグ」って何?
はい、今から説明します。


キャラというのは性格と近いのかもしれない。キャラや性格というのは、その人の情緒的な部分であり、それが変わると周りの人に「あっキャラ変わった」と、すぐに気づかれる種類のモノである。それに対して、タグというのはその人の分類表みたいなもんである。キャラほど情緒的な側面はない。
タグというのはもともと荷物を整理するために付けられる荷札のことであるが、インターネットでも使われる。この症候会議ブログでも使用しているカテゴリーと同じようなものである。例えばあるブログで、[料理]というタグないしカテゴリーがあるとする。料理関連の記事だけをピックアップしたいときなどに、その[料理]のタグをクリックすると、[料理]がついている記事だけ取り出せるという便利な機能である。


そんなタグみたいなものが最近バラエティー番組では横行してはいないだろうか。例えば品川庄司の品川や土田晃之なんてタグが付き放題なのである。
はてな風に記せば品川は


品川[オタク][ブログ][本の出版][インテリ][家電][元ヤン]


土田晃之だと


土田[オタク][元ヤン][インテリ][家電][サッカー][子だくさん]


という風になるだろう。
書き出すとわかるが、この二人はタグでかぶっているものが多いため、比較的によく共演しているような気がする。特に最近の「雨トーーク!」などは、本当にタグでゲストをキャスティングしているように思える。そして芸能人の方も、一昔のグラビアアイドルが趣味に、意識してしたこともないくせに「人間観察」と書いていたように、好きだからというよりもテレビに出るために、テレビでそれについて話すがために「タグ」を増やしているようには思えないだろうか。
それを趣味といってしまえば、話は簡単なのかもしれない。でも彼らのそのタグについて話す身振りには、どうもそこまでの切迫感がない。というよりも、本当に好きなモノであるならば、恥ずかしくて人前でネタになんかできないと僕は思うのだが。


先に書いたようにタグとは「荷札」であり、物事を整理するために使うモノである。そして整理するというのは、似たものがたくさんあってはじめてできることだ。36色の色鉛筆セットを色ごとに整理しようなんて、だれも思わない。なぜならどれも他の鉛筆と色が同じものなどないため、そんな整理は意味をなさないからである。一色ずつが一つしかないから。

しかし、タレントでも特にお笑い芸人というのは、それこそ「整理できない」という剰余があるからこそ、はみだしもんだからこそ持てはやされるのではないか。そうではない。もはや、それはキレ芸もメンヘルも[キレ芸]、[メンヘル]というタグになるのである。
では鳥肌実はどうか。あのヤバイ芸風はタグになっていないのではないか。
確かにタグにはなっていないだろう。しかし、彼ではテレビに出れないのである。それは彼のネタが放送コードに引っかかるということが原因でもあるが、彼に合うタグがないからともいえる。


タグとは言わずとも、僕らテレビ視聴者も「キャラ」の呪縛から逃れられなくなったことは言うまでもない。テレビを見なくなったと人は言う。でもそれは人の興味がテレビからインターネットやその他のものに分散してしまったわけではなく、世界がテレビ化してしまったのではないだろうか。テレビの外もテレビになった。だからテレビを見なくてもよくなったのではないだろうか。ではなぜキャラが外せないのだろうか。それはテレビ化した日常に耐えれないほど面白くない一面だからだろう。それゆえに日常的な場面で僕らはもうキャラから素には戻れない。戻ったら(社会的に)死ぬからである。もしかするとディズニーランドやUSJというのには、普段キャラを作って生きている僕たちが、キャラを作らなくてよいつかの間の安息を得るために足を運ぶのかもしれない。そこでは自分がキャラを作る代わりに、キャラの濃い世界観が待っていてくれるのだから。


女性の本質は表層に宿るというのは精神分析の知見である。曲解すればそれは、女の本質は化粧を落としたスッピンではなく、むしろ化粧をしてオシャレをしたよそ行きの姿にあるということでもある。
しかし現代では男も女も、人間の本質は表層(=キャラ)に宿っていると考えてもいいのかもしれない。すると男の僕にだってスッピンがあるということになる。いやだなぁ、そんな醜いスッピン見られたくないなぁ。


そんなスッピン見てあげると言ってくれる人はいるのだろうか。
そしてその人は、そのスッピンを見ても僕を嫌いにならないのだろうか。


イマダ