テレ東的、あまりにテレ東的な



僕ぐらいになると、番組表など見ずとも半ば無意識の範疇で、その曜日のお気に入りの番組の時間になれば、そのチャンネルを合わせてしまうものである(なんちゅー自負だ)。

先週の土曜日のちょうど今ぐらいにも、僕は1時25分にテレビを12チャンネル、テレビ東京にリモコンで切り替えた。しかしそのとき、テレビには本来映っているはずの今田耕治と東野浩二を始めとする「やりすぎコージー」のメンバーが映っておらず、その代わりにホリケンと有田哲平の「アリケン」が放送されていた。

うっかりしていた。やりすぎコージーは10月から月曜9時、通称「月9」の番組枠に移っていたのである。知ってはいたのであるが、もはや習慣づけられている僕の番組チェックの「生態」までは変更するのを忘れていたのだ。しまったしまった。


ところで僕は、この「やりすぎコージー」の端から見たら明らかに喜ばしいこと、「ゴールデンタイム昇格」に、一抹の寂しさを禁じ得ない。
それは、「いつもの曜日のいつもの時間」という僕のテレビを見る習慣との別れというレベルにおける寂しさでもあるが同時にもう一つ、あの番組がメジャーになってしまうことに感じる寂しさでもある。それは、おそらく「やりすぎコージー」が月9ドラマやその他の局の番組にコテンパンにされて敗退するということを予見した上での寂しさなのだろう。もちろん「やりすぎコージー」がゴールデンで、今までそれを視たことなかった層の視聴者をも笑いの渦に巻き込んで欲しいという、応援の気持ちもある。


しかし、僕の寂しさはやりすぎコージーが成功したとしても、おさまらないだろう。


僕の落胆はどちらにしろ、「やりすぎ」がメジャーになった時点で、テレ東的なものを失ったことに起因するのだろうから。僕が思うに、「やりすぎコージー」は「テレ東的なもの」を体現している番組の一つだったのである。その「テレ東的なもの」とは何か。


例えば、日本のどこかに旅に出たとき、駅に降り立ち、その街をめぐる内に一抹の落胆を感じてしまうのは僕だけだろうか(いや、僕自身そう誇れるほど旅行したことはないし、一人旅なんて正気の沙汰ではないと思っている超ド級のインドア人間なのだけれど、そういうのはほっといて想像してくれ)。
旅というのは、日常とは隔絶された、自分の全く知らない土地に感じる違和感と、その違和感から勝手に自分の中で培養し、その土地から疎外感を得るというマゾヒスティックな快を求める営みであると思う。しかし今の時代、地方といっても中央からの情報はドンドン入ってくるし、地方だからといって言葉が伝わらないほどのきつい方言を前に面食らうということもないだろう。悪い意味で、地方は関東を基準に平均化されてしまった感は否めないのではないか。
もちろん、街の構造や、その他の微細な部分ではなじみの街と違うのだろうけれども、大枠の部分で僕らは降り立った街に、旅の醍醐味であるはずのその違和感と疎外感は持つことができない。そしてその違和感と疎外感の不在に、落胆するのである。


しかしそれは何も、今ではもう地方を訪れた際に感じるはずの違和感と疎外感が、どこにもなくなってしまったということではない。
旅先の街の違和感と疎外感の不在に落胆しながらも、旅館に着いた僕は部屋に荷物をおいて備え付けられたテレビでも付けて、一息つこうとする。
ブラウン管をながめる。すると、どうだろう。


なんだ?この見たことないおっさん。それになんだ?その横に座る女子アナらしき女。ビジュアル的には70点ぐらい(ちなみにキー局の女子アナのビジュアルは85点以上が相場だ)で、ビミョーなところだ。そんな二人がテレビの中で、さもおなじみのように、自分たちがさも有名人であるかのようにふるまい、番組を進行している。
どうやらそれは地方局の夕方のローカル番組ようである。


テレビ人間と言われればそれまでではあるが、僕が旅先でもっとも違和感と疎外感(=つまり旅の醍醐味)を覚えるのは、旅先にあるもはや教科書などでおなじみになってしまった観光名所などではない。そうではなくて、あまりに自明の如く存在する地方の全くかってのわからないローカル番組空間に放り込まれることこそが、今やその旅先で感じることができる疎外感と違和感の極地なのである。


関東に住み、テレ東を見るというのは、この旅先における全く知らない番組編成の、全く知らない番組群にさらされたときの、違和感と疎外感を再現するための代替行為なのである。
僕らは、関東に日常的に存在するにも関わらず、なぜかゴールデン番組で演歌ショーを放送したり、海のものとも山のものともつかぬうさんくさいテレビショッピングが横行するあのテレ東のテレ東的なものに、旅先で見る謎のローカル番組の違和感と疎外感と同等のものを感じるのである。


しかし、「テレ東的なもの」とはそれに尽きない。
僕らはテレ東に対して、疎外感と違和を感じとともに、「チープさ」をも感じてはいないだろうか。そしてそのチープさとは、地方出身の僕らにとっては、あの生まれ故郷のローカル局を思い起こさせる、懐かしさにも通ずるところがあるのである。


さきに疎外感と違和を論じておいて、懐かしさを列挙するのは、何か矛盾しているように感じられるが、その違和感と疎外感とチープさと懐かしさが、喧嘩しながらも平気で同居できるのが、他のキー局ではなく紛れもなくテレ東なのである。


だからこそ、「やりすぎコージー」のゴールデン昇格ということに対して、僕は寂しさを覚えるのだ。
マイナーのままでいいではないか。メジャーとなって何も誰にでもウケるようなことをしないでも、一部の人間を深夜の寂しい一時に楽しませる、唯一無二の存在であっては、いかなかったのだろうか。


TBSにはダウンタウンがMCで豪華なセットの「リンカーン」があるのに対して、異常なほどシベリア文太をリコメンドする「やりすぎコージー」がテレ東にはある。
それでいいではないか。

日本テレビの朝は極楽とんぼ加藤浩次で始まるのに対して、かつてテレ東の朝はダチョウのリーダー肥後ちゃんで始まっていた。
それでいいではないか。

フジテレビには世界各地の地区予選を勝ち抜いた猛者たちが集うK-1グランプリがあるのに対して、ほとんど誰も知らない「Cage Force」という総合格闘技の団体の中継がテレ東にはある。
それでいいではないか。


昼と夜、男と女、と同じように、メジャーキー局4社とテレ東という区分が当然の如く成立するのである。もちろんメジャー/マイナー、−あるいは優性/劣性―という区分と同義として。しかしそれは、テレ東およびテレ東的なものがいずれ消滅するということは意味しない。もしそう考えるとすれば、それはものの構造をわかっていないというもんである。当たり前だが、夜がなければ昼は説明できないし、男というものを女なしには説明できない。それと同じように、メジャーキー局の栄華とは、テレ東というマイナーの極地、負の極星が存在しない限りありえなかったことである。


テレ東の番組には、中にはヒットして長寿番組へと成長していく「なんでも鑑定団」や「TVチャンピオン」などもあるが、そういった例外を除けば次々と入れ替わる。みな、同時刻の他の局の番組にコテンパンにやられてしまうからである。それはテレ東というマイナーの極星に咲いた花の、それはそれは儚い運命なのかもしれない。


しかし、それはテレ東が衰退することやテレ東が無くなるということを意味するわけではない。何度も言うが、マイナーなものは滅びるかもしないが、「マイナーという概念」自体は、全く傷つくことなく、この先も存続するしていくのである。

そのことから、当然の如く導かれるのは、「テレ東とテレ東的なもの」は永遠不変に不滅ということに他ならない。


イマダ