警視庁からのチラシ――「振り込め詐欺急増中 騙される前に家族で話し合おう」

もう大分前の話になるが、ドラクエVIIのキャッチコピーは「ひとは、誰かになれる。」だった。
いまではめっきりゲームをしなくなってしまったが、私も小さい頃は人並みかそれ以上にゲーマーだった。なかでもドラクエシリーズはフェイバリットで、特に印象深いのはドラクエIIIである。ドラクエI・II・IIIは同じ世界を舞台にしている連作なのだが、IIIにおいて前二作から続く物語が閉じられる。IIIにおいて、IとIIの世界の由来が描かれるのだ。そのような神話的な世界観も好きだったが、印象に残っている最大の理由は膨大なプレイ時間から来るものだろう。なにしろ「ぼうけんのしょ」がしょっちゅう消えるのだ。セーブが消えるのである。システムにおいても内容においても、ファミコン時代のゲームというのは、いまでは決して市場に出回ってはならないほどいい加減なものだった。だがそんな悪条件にもめげず、大魔王ゾーマを倒すために、何度も何度も同じことを繰り返したものである。
ゲームにたいする情熱を持っていた私も、中学の半ばあたりからあまりやらなくなり、ドラクエVIIが出る頃にはかなり関心が薄れていた。「『ひとは、誰かになれる』わけないよ。それってゲームのなかの話でしょ。もし誰かになれるなら、おれだって、カッコよくて才能のある人間になりたいよ。それで、もっと楽しく日々を過ごしたい。」某国民的アイドルグループの出演するドラクエVIIのCMを見ながらそう思っていた。
ところが数年前からこの日本で起きている事態はどうだろうか。そこではテレビゲームの中じゃなくても「ひとは、誰かになれ」ている。「振り込め詐欺」のことである。


振り込め詐欺のひとつであるオレオレ詐欺(いつの間にか、「架空請求詐欺」なども含めて「振り込め詐欺」と総称されるようになったが、それらを含めても「オレオレ詐欺」という名の方が事の核心を突いていると思う)が世間を賑わすようになってからもうだいぶ経っている。犯行手口の紹介や注意喚起などがメディアでさかんにされているのに、いまだに被害は跡を絶たない。これほどまでに周知されているにもかかわらず、どうしてオレオレ詐欺はなくならないのか。その謎を知りたい人はいますぐ近くのATMに行ってみるべきだろう。
最近では被害予防のために、巷のATMに警官が常駐するようになった。ちょっとやり過ぎではないかとも思うが、不憫な被害者を増やさないためには必要なことなのかもしれない。だがどうもあの光景を見かけるたびに、なんだか嫌な感じがしないだろうか。いや、するはずだ。そうである。われわれはみな、すでにオレオレ詐欺をしているのだ。オレオレ詐欺がなくならない理由とは、われわれが人間であることのために、避けられずに背負ってしまう性(sex/nature)から来ているのではないか。



オレオレ詐欺において「ひとは、誰かになれる」。もっと言うと「ひとは、誰にでもなれる」。Y川M智だろうがI田Y介だろうがS村D介だろうが誰にでもなれるのである。しかも、どのようにして誰かになれるのかというと、そもそもその誰かを名づけた張本人に呼ばれることによってである。犯人は決して自分からは名乗らない。ただ「オレオレ」とか「あたしあたし」とか言うだけである。そう言って自分のことを呼ぶ得体の知れないなにか。それを名づけ承認するのは被害者の方である。実のところ、これは「本物」であるわれわれ自身の状況とまったく同じである。いまだに親のことをはっきりと呼ぶのが恥ずかしく、「ねえねえ」とか「ちょとちょと」とか言っている人もいるだろう。そのときあなたはオレオレ詐欺と同じことをしているのである。だがたとえ、「おふくろ」とか「おやじ」とかはっきりと呼べているとしても同じことである。自分が名づけられる前にその命名者を呼ぶことができる人間なんてどこにも存在しない。


ドラクエVIIが出たころの私には思いもよらなかったことだが、フロイトも「ひとは、誰かになれる」と言っている。フロイトはそれを同一化と呼び、精神分析の最重要概念のひとつとした。
最初かつ最大であり、その後のあらゆる同一化の基礎となる同一化とは、ほかでもないエディプス・コンプレックスの過程において見出される。エディプス・コンプレックスにおいて、子どもは母との親密で居心地のいい関係の持続を望み、邪魔をする父を疎ましく思う。だが生きていくために、子どもは母との未分化で一体的な関係から切り離され、一人の人間にならなければならない。そのとき子どもがたどる道筋こそが、最初かつ最大であり、その後のあらゆる同一化の基礎となる「父への同一化」である。寄る辺ない子どもの生死を握るエディプス三角形の最大の権威である父。その意向を受け入れることよってのみ、子どもは生きていくことができるのだ。われわれはこの父への同一化によってはじめて、社会的な存在としての人間になることができる。そしてこのときにわれわれは、父に与えられた名を自分のものとするのである。
オレオレ詐欺においても同じことが起きているのではないだろうか。犯人は誰かになれるまで、つまり名前を呼ばれるまでは、被害者より圧倒的に弱い立場にある。いたずら電話だと思われて一方的に切られてしまう可能性は高い。だが一度名前を呼ばれるやいなや飛躍的に立場が上昇する。そこから犯人は、子どもを思う親心につけこんで、金をだまし取ろうとするのだ。そうすることによって犯人は、犯罪者という一人の人間として生きていくことができる。



オレオレ詐欺の核心とは誰かになるということである。そしてわれわれはみな幼い頃に同じことをしていたのだ。だからこそATMの前にいる警官になんか嫌な感じがするのである。われわれはみな誰もが逃亡者なのだ。
しかしながら、どうしてオレオレ詐欺から手を切ることができないのか。誰もがかつて同じようなことを経験したことと、オレオレ詐欺から離れられないこととは別のことである。なぜわれわれはオレオレ詐欺を繰り返すのか。なぜわれわれは同一化を繰り返すのか。


エディプス・コンプレックスにおける父への同一化は重要なものである。このことはどんなに強調してもしすぎることがないほどである。フロイトは「ひとは、誰かになれる」とだけ言っているのではない。「ひとは、誰かにしかなれない」とも言っているのだ。
エディプス・コンプレックスにおける父への同一化は、最初かつ最大であり、その後のあらゆる同一化の基礎となる同一化であった。気をつけなければならないのは、あらかじめ同一化というものがあって、そのうえで子どもは父に同一化したのではないということである。この父への同一化そのものによって、はじめて同一化というものがおこなわれ可能になるのである。その意味においてこそ、この父への同一化は、最初かつ最大であり、その後のあらゆる同一化の基礎となるものなのだ。だからこそ「ひとは、誰かにしかなれない」。誰かに同一化していない人間など存在しないのだ。誰にも同一化していないような人間は人間的ではない。


われわれは誰かに同一化することによって生きていくのである。同一化の対象を次々に取り替え、新たなものを受け入れてはかつてものを捨てていく。それでいつかは自分自身そのものと同一化できると信じている。それが自己実現というものである。だがそんな日が来ることは決してない。われわれはエディプス・コンプレックスにおける父への同一化において、すでに自分自身からは根源的に疎外されてしまっている。そもそもそれによってはじめて、「自分」というものが生まれたのだ。
同一化の対象の流れが続いているときはいい。「パパの次は学校の先生、その次はモテモテのあいつ、その次は敬愛する思想家」というように、どこまでも自分自身を先送りにできるからである。だが時としてそれがうまくいかなくなることがある。そのときわれわれは、自分自身の根源的な謎へと引きずりこまれる。「自分はどうして生まれてきたのか、自分は生きているのか死んでいるのか」。そういった根源的な問いに答えてくれるものは、本当はなにもない。科学は自分が生まれてきたメカニズムや、自分の心臓が脈打っていることを説明してくれるだろう。でもそれは答えになっていない。自分が生まれてきた過程を生物学的に教えてくれたとしても、「どうして自分はいまの自分として、他でもないこの自分として生まれてきたのか」という根本的な問いにはなにひとつ答えてくれない。科学的な説明で安心できていたのは、いわば「科学の父」に同一化できていたからこそである。
どうしようもなくなったわれわれは退行する。そして症候を形成する。なぜならばこういった根源的な問いに、われわれはかつていちおうの答えを出していたのである。それが「幼児の性理論」であり、この理論にもとづいて症候は編成されるのだ。だからこそ精神分析は「なんでもセックスと幼少期に結びつける」。だが幼児の性理論は、エディプス・コンプレックスをくぐり抜け、一人の人間になるためには抑圧しなければならないものであった。われわれは、それなしではなにも答えられないことを知りつつも、それでも幼児の性理論を捨てなければならない。精神分析はまさにそれをしようとする。みずからの根源へと患者を導くことによって、そこからあらためて自分の歴史を語りなおさせるのである。


世界はあまりにも巨大で強固に見える。だが実はファミコンレベルのいい加減さで出来ているのかもしれない。ときどきセーブがおかしくなってしまうのだ。そのときはわれわれは、何度でも何度でもやり直さなければならない。幼いころの私は、ドラクエIIIをひたすら繰り返すことによって、もしかしたらみずからの来歴を問うていたのかもしれない。ドラクエIIIのストーリー的にもぴったりである。
「子ども時代はもうない」――正確にはフロイトこう言っている。「いちばん古い幼時体験はそのものとしてはもうありません。それは分析してみると『転移』と夢によってとって代わられているのです」(『夢判断』、新潮文庫版、上巻、315頁)。
われわれはこの中にオレオレ詐欺も加えるべきなのかもしれない。


湯川