マンガ的近代の超克――後編・私家版「幽遊白書論」――


2nd GIG


前回からの続き。
北斗の拳ドラゴンボールを始めとする少年マンガはみんなみんな、半永久的に強くなり続ける、いやなり続けなければならないという、義務感にさいなまれ続けてきた。


ところで、前回に挙げた数例の少年マンガは、どれも大ヒットを記録している作品であるが、勘の鋭い読者はあの並びの中にある一つの作品が奇妙にも抜けているということに気付いたのではないだろうか。そう、同じ少年マンガ弁証法の系統に入るはずの、「幽遊白書」が抜けているのである。もちろん意図的であり、僕は幽遊白書が偶発的に選んだ結論こそが、奇しくもマンガ的近代を超えた――あるいは超え“かけた”――と感じているからである。
幽遊白書は、中学生の浦飯幽助が、ひょんなことから霊界探偵になり、現世と霊界、魔界を縦横無尽に行き来して、敵を倒し強くなっていく少年マンガである。
他の例に漏れず、週刊少年ジャンプで連載されていたこのマンガは、「少年マンガ弁証法」というものを踏襲しているといえる。次々に現れる敵を前に、苦戦しながらも、戦ううちに強さを身につけて、仲間を増やしていくストーリー展開は、王道といってもいいだろう。


しかし、この弁証法的ストーリー展開はある瞬間に唐突に終わりがくる。
舞台は魔界編。自分が魔界にある国の王、雷禅の血を引くことを知った幽助は*1、その雷禅の死後に即位し、対立する他の二国の王のうちの一人、黄泉と会談の場を取り持つ。

そしてそこで国も組織も関係ない、魔界の住人全員が一人という最小単位に立ち返り、「くじで組み合わせ」を「決めてトーナメントをや」り、「最後に残った奴」に「負けた奴全員が*2」従うという、とてつもない規模のトーナメントをぶち挙げるのである。
そろそろ読んだことのない人を置いてきぼりにしてしまいそうだが、要するに魔界全域、ひいては人間界の覇権をも賭けた一大トーナメントが開催しようと、幽助は提案したのである。


このトーナメントという試合形式は、少年マンガとは切っても切り離せない関係にあるということは、みなさんご存じだろうか。
トーナメント戦がないマンガは少年マンガにあらず、とまではいわないまでも、限りなくその状況に近いのである。ドラゴンボールにおける天下一武闘会を始めとする、様々なトーナメントが少年マンガの世界では繰り広げられてきたのである。
たとえ具体的な大会としてのトーナメントが開催されていなくとも、少年マンガの展開はトーナメント的に進行していく。
というよりか、強い者と強い者がぶつかり合い、勝った方が上昇していく(止揚していく?)というトーナメントの仕組み自体が、「少年マンガ弁証法」の物語構造の縮図といえる構図なのである。


さて、先の魔界トーナメントの開催の経緯まで、幽遊白書が徹底的に「少年マンガ弁証法」に浸かっているということはおわかりだろう。
この魔界全土をめぐるトーナメントの予選には、それまでの幽遊白書シリーズに登場してきた往年の敵キャラ、もしくは後に幽助の仲間となったヤツなど、あらゆる猛者が参加し、続々と予選を通過していく。
問題は本戦である。幽助は順当に1回戦、2回戦を突破していき、3回戦で早くも元国王である黄泉と相まみえることになる。
ここでもう一度おさらいしておくと、この時点で幽助やその他キャラクターの強さ(このマンガにおいては「霊力」)は、常識を遙かに凌駕したものになっているというのが、設定上の肝である。しかしその中でも、魔界三国の一角を統治していた黄泉の力は、超絶であり幽助でも到底敵わない、勝てっこないという状況なのである。
だが二人はお互いの力を認め合い、当初の魔界全土を統一するという大会の目的を逸脱して純粋に戦いを楽しみ始める。


二人の戦いは、act.169「三回戦の目玉」の中でその途中までが描かれる。
ところが、その次のact.170「宴のあと」は、その前回までの魔界の殺伐とした戦闘風景とは打って変わって、人間界の夏(と思われる)のまったりとした都会の描写が挿入され、シーンは幽助の仲間である桑原と当のトーナメントに参戦していたはずの蔵馬の、図書館での平和な日常会話から始まる。
そして驚くべきことに、読者はこの回が始まってわずか2ページ目で、先まで長々と行われていた、魔界の命運、さらには人間界の命運まで賭けられていたはずの壮大なトーナメントの顛末をあっさりと知らされることとなる。
桑原曰く幽助、蔵馬、飛影といったこのマンガの主要なキャラクターが、「そろって三回戦敗退」を喫してしまったというのだ。二人の会話はさらに続き、「最後まで大会につき」あっていたという幽助も二人と久々の再会をとげる。そこで彼の口から、敵味方問わず今まで出てきた主要キャラクターが、トーナメントの途上で次々と敗退していったということを、読者は知らされることになるのだ。
ではいったい、最終的に誰がトーナメントの覇者、魔界を統治し、人間界の命運をも握る者になったのかというと、これがまた、それまで魔界編に登場してきた禍々しくいかにも邪悪そうなキャラクターたちの中で、唯一といっていいほどデフォルメされた、ふっくらしていて気の抜けたような鬼という風体の煙鬼という妖怪だったのである。


そしてそのような外見に相関するように気の優しい煙鬼は、スピーチを求められた際にトーナメントの結果は「様々な組み合わせの妙」であり、「完全に実力の結果だとは思ってません」とすら言ってのける。
既存のマンガでトーナメント覇者がもし敵キャラクターであったのであれば、そこで「見たかっ、愚民ども!これが我が輩と貴様らの天と地ほどの実力差だっ!」とでも言ってのけるところだが、この勝利者はなんとも冷静な分析を施してしまっている。
さらに、魔界の新たな統治者ともなった煙鬼は続けて、彼の三年間の統治期間には「人間界に迷惑をかけないこと」という法律を公布してしまうのだ。


しかし、そうなってしまうのは幽遊白書というマンガの成り立ちを根本から否定してしまうことになるのである。
なぜならば、幽助はそもそも霊界探偵であり、極論すれば「(人間界に)霊出てなんぼ」だったはずなのだから。


この事態を大きく捉えてみると、少年マンガにおける「真の敵とはだれか」という問題に行き着く。
これまで、数多ある少年マンガは、世界の存亡を賭けて展開してきた。主人公たちの前には常にその前の敵を超越する敵が現れ、主人公と主人公の住む世界を脅かしていた。主人公たちと敵キャラクターたち、彼らは構図的にはもちろん敵対してはいたのであるが、繰り返すと少年マンガ弁証法を上昇させていくという観点から見れば、むしろ共犯関係にあったとさえいえるだろう。ベジータが、フリーザが、セルが、魔人ブウがいなければ、悟空はあそこまで強くなれなかったのはいうまでもない。
そうなると、前段の「真の敵」というのは、彼ら敵キャラクターの誰かということは言いにくい。その都度流転する強さの物差しの中で瞬間的に最強であろうとも、その最強には逆説的であるが、「いつかは敗れる」ということが含意されているのだから。
もちろんドラゴンボールというマンガで言えば、悟空が最後に葬り去った魔人ブウがその真の敵になりそうなものであるが、前号のmoso magazineでも論じたとおり、最終回でも悟空のさらなる強さの高まりの可能性が示唆されている。そして強さの高まりの可能性が示唆されているということは、魔人ブウの強さを上回る敵の存在の可能性も措定しなければならないということになる。
つまり「少年マンガ弁証法」上で展開している限り、目の前の敵は“過去”最大の敵なだけであり、それはつまり「真の敵(仮)」の状態に留まるということなのである。

ここまで論じてきたのはあくまで、作品上の「真の敵」である。しかしそれを明確に示すことは、少年マンガ弁証法にある少年マンガというジャンルには不可能と言ってよいのかもしれない。
そして幽遊白書の出した答えというのは、一つ次数を上げたものである。作品上の「真の敵」、ではなく、少年マンガ弁証法にとっての「真の敵」のことなのである。


そしてそれはずばり、「敵が襲ってこないということ」、いわば「退屈」のことである。


魔界編に突入した時点で、ほとんどの敵キャラクターは単独で人間界を崩壊させることのできる力を持っているという設定であった。
そんな彼らが、人間界に総攻撃を仕掛けてくれるのであればまだいい。なぜならこの世界を支配するのは少年マンガ弁証法であり、その総攻撃によって主人公たちも強くなれる余地が残されるのであるから。
しかし、肝心の敵が襲ってこない。圧倒的な戦力を持っていてもなお、人間は危害を加えられず取り残されるという放置プレイ。


幽遊白書においては、それまで常に強さをめぐる一大レースのその本流に属していると目されていた主人公たちが突如、その傍流にポツンと位置しているということがわかるのである。そこでは、幽助と蔵馬のどちらが強いかなんて、もはや無意味なことである。幽助と飛影のどちらかが強いかなんて、もはや論じても仕方のないことになる。なぜなら、彼らを超える、途方もない力が「襲ってこない」という仕方で、彼らの世界を宙づりにしているのだから。


先の三人の会話のシーンも、ある意味不思議である。もしかすれば人類の存亡がかかっていたかもしれないトーナメントの結果を、カフェ(らしき場所)でまるで学生時代の部活動の結果のように淡々と話すのであるから。
いや、もしかすると、カフェ(らしき場所)でそれが語られるのも、象徴的なことなのかもしれない。カフェには幽助らの他にいろいろな客がいる(だろう)。彼らカフェの住人の話すのは、服のことや仕事のこと、家族のことなど、とりとめもないことである。これまでの(幽遊白書以前の)少年マンガであれば、強さとは、それらの日常的なとりとめもない話題のさらに上位に位置する論題であったはずである。もし少年マンガで、そのようなカフェという日常空間が描かれるとすればそれは、敵キャラクターの強大な力によって、無に帰せられるためにのみ存在するのである。あらゆるものを退けて、強さが最上の位置を占めるのだから。
しかし幽遊白書は違う。幽遊白書が提示したのは、強さの相対化である。カフェの空間で他の客が話す雑多な話題と、強さとは等価でありあくまで同列の話題のレベルに留まるのである。


しかし、ここで幽遊白書が終わるわけではない。ここで終わっていたとすれば、もしかしたら幽遊白書は「少年マンガポストモダン」というものを完成させることができたのかもしれないが、残念ながらそうはいかなかった。
魔界編終了後のこの作品は、一話完結モノという連載当初の形態を戻したり(幽助は元の霊界探偵家業に戻った)、時に4コマギャクマンガのような不思議な体裁をとったりと、ジャンル越境的に展開していったが、どれもこれぞというインパクトは残せていない。というよりか、全てのエピソードが終局に向けた時間稼ぎのようにさえ思えてくる*3
そして最終回前の回にて、霊界の過激派集団「正聖神党」のクーデターが勃発、幽助たち4人はその鎮圧に乗りだすが、彼ら四人の圧倒的な力を前に、クーデターはあっという間に鎮圧されてしまうのである。画的にもストーリー的にもとってつけたような感があり、まるで作者自身が「魔界編以前」までの途方もないキャラクターの強さの増強によってマンガがつまらなくなってしまったということを、償っているかのようにさえ感じられる。


結果的に、幽遊白書が「少年マンガ弁証法」を乗り越えきったとは言い難い。しかし、一瞬でもその向こう、少年マンガポストモダンをかいま見せただけでも、幽遊白書の存在意義は十二分にあると思う。


イマダ

*1:余談になるが、「実はサラブレットであった」というのも、この手のマンガの基本的構造である

*2:なお、本論における文字の引用は全て幽☆遊☆白書―完全版 (15)

幽★遊★白書 完全版 15 (ジャンプコミックス)

幽★遊★白書 完全版 15 (ジャンプコミックス)

*3:ここら辺の事情は中島梓の『タナトスの子どもたち』が詳しいが、まだ読んでいないので明言は避ける