『退屈論』と精神分析の狭間で妄想 漂流3日目



最近、本や映画でよく「退屈」という言葉が出てくるような気がして、(僕がそれを選んで読み取っているだけなんだろうが)読まずに放っておいた小谷野敦の『退屈論』に手が伸びた。



人は退屈する。
人は退屈すると、ぼんやりと死について考えてしまう。漠然とした不安が襲ってくる。
だから人は「遊び」を発明した。
その「遊び」を拡大解釈していくと、人の行為はすべて「遊び」だと分かる。
(性行為も、噂話も、物語・フィクションも、宗教も戦争も仕事も。)


そうして、人のあらゆる行為は「遊び=退屈との戦い」
すなわち「ヒマつぶし」だと分かった今、我々はどうすべきか。


というのが論の流れだ。



パチンコやゲームや映画など娯楽にとどまらず、
仕事もセックスも子育ても、
自分磨きも自分探しも、
すべてヒマつぶしだというのは、たしかにそうだと思う。


生きることとは緩慢な自殺である、と誰かが言っていたが、その緩慢さ=退屈と戦うことが「人生」だとすると、フロイトの「死の欲動」にもつながる考え方じゃなかろうか。ソリティアフリーセルマインスイーパを延々、それはもう延々とやってしまうのも、寿命をガリガリ削っていると思うと分かりやすい。


「でも、そんなこと言ったら、ぜーんぶヒマつぶしっちゃヒマつぶしだし、議論にならない。相対主義じゃないか!」
そんな批判に対して小谷野さんは自覚的で、「確かにその通り、全部ヒマつぶしである。」と認めた上でどうするべきかを説いている。


退屈論 (河出文庫)

退屈論 (河出文庫)




どうするべきか、それは「対象を持て」ということだと、僕には読み取れた。
どうせヒマつぶしをするなら、精神分析みたいなオカルトにはまって「自分」のことばっかり考えてないで、社会や世界のことを考えろ、という主張である。精神分析を痛烈に批判する彼の言葉はなんというかすがすがしい。



「退屈」を論じた教訓的な文章の多くは、自分の気持ちを変えることを勧める。自分を変えれば社会が変わるなどということを言う者もいるが、嘘である。


森田療法に限らず、フロイト精神分析も、自己を知ることを目指すものであり、社会変革の思想を蹉跌(さてつ)させるものとして働く。だが、私たちはいま一度、社会を変えてみようとするべきではないか。


何も、現代について行こうと無理な努力をする必要はない。むしろ、現代のスピード社会を変革する努力をしたほうがいい。(p218)

どうせ暇を潰すんなら、価値のあるヒマつぶしをしろ、という。そして、科学者カール・ポパーの言葉を引用して続ける。


「抽象的な善の実現よりは、むしろ具体的な悪を除去するために努めよ。政治的手段によって幸福を確立するということをめざすな。むしろ、具体的なもろもろの悲惨な状態の除去をめざせ」と。(p220)


大きな原理をもって世界を説明し、やはり大きな原理をもって世界に対応しようとするのは危険だと考えている。近代という時代は、何らかの大きな原理の現実への適用によって一挙に救いを得るという考え方に、多くの人間が取りつかれた時代だった。


社会主義をはじめとする社会変革の思想もそうだったが、フロイト精神分析が流布させた、幼児期の抑圧された記憶を思い出すと一挙に神経症が快癒するといった類の物語がその最たるものである。そのほとんどがホラ話の類だ。


私たちが捨て去るべき習慣は、何らかの原理によって生や社会ががらりと変わるといった考え方なのだ。(p231,232)

こうして批判されると、精神分析を勉強している身では、なんというか変な恥ずかしさを感じてしまう。
精神分析って、そんなに世界を変えてきたイメージ、無いんですけど!





やっぱり精神分析はどこまでも個別のもので、いくらフロイトが「心の科学的解明」とか「心の普遍的真理の探究」を目指したとはいえ、それが生身の人間に還元される限りにおいては、ケースバイケースだ。


鬱病にしても、症状自体は99%薬で治るが、結局そうした症状に陥ってしまう構造自体を変えないと根本的解決には至らない。そして当たり前だがその構造は個別に違う。ひきこもりからの鬱病か、職場のストレスからの鬱病か、母子関係か両親の死か、それが分からないままに症状だけが治っても仕方がない。そうした単なる風邪と「心の風邪」の違いは、精神分析を冷静に普通に、読んでいけば分かる(と思う)。



精神分析は、症状の治療(薬)だけでなくて、その症状の原因を突き止めて、それを回避改善する方法までをもセットで提供するのが仕事である。心の治療は決して一般論では進められないし、真理を突きつけるだけでは逆効果となる場合もある。

だからそんな、精神分析が世界を変えたなんて言われるとおそれ多い。


むしろ小谷野氏の言う「社会をがらりと変える物語」を助長したのは、精神分析から出発した(なんというか)「心理学っぽいもの」だ。精神分析の考え方、構造だけが一人歩きしていった。そして、そうした治療方法が一般論として売り物になり、「自分が変われば、世界が変わる」といった抽象的な論が振りかざされるようになったのである。





確かに、バイト先でよく見かける自己啓発本の多くに、「自分が変われば、世界が変わる」といった類の売り文句が多く躍っている。

中身はと言えば、「あなたが認めてもらえないのは、本当に認められたいと思っていないからです」とか「めんどくさい、と言って色んなことから逃げていませんか」といった分析から、「掃除をしましょう」「カーテンを変えましょう」「火曜日は外食をするようにしましょう」といった実践がずらっと掲載されている。そしてそれらはおそらく一つも間違ってはいない。

だが、問題はそれらが「一つも間違ってはいない」ということだ。



そうした分析や実践を個別のケースに移すと、うまくいかない。掃除にしても、トイレをすべき人もいれば、お風呂場をすべき人もいる。外食するのは水曜日がいい人もいるかもしれないし、金曜かも、土曜かも、週に3回かもしれない。とにかく個々人でそれは大きく違うのである。





「世界が変われば、自分が変わり、世界が変わる。」そうした循環の手助けをするのが精神分析の仕事であるし、特に精神科医斎藤環氏はそんな間違った精神分析が実践されている状況を「心理学化する社会」として批判している。


今回の衆院選にしても、「政権交代すれば全てが変わる!」といった「抜本的解決の夢物語」が強度を持ち、民主党優勢に傾いた。それは「心理学化する社会」の賜物だろうと思う。


そんな心理学化した社会の問題は、人が自己分析に耽り、自分以外の対象を持たなくなることだ。
「自分が変わり、」という次元でストップし、何度も上手くいかない自己分析を繰り返し、自己に執着する。

そうした人たちに対して、社会へと目を向けろ、と小谷野氏は言っているんだと思う。戦う対象を変えろ、と。もちろんそうした精神論が有効な場合はあると思うが、そうでない場合もある。
そのときに、適切な「世界の変え方」を提示する可能性を精神分析は持っていると思う。





文庫版あとがきでも氏は容赦ない。

血液型占いから、占星術、その他あの手この手のオカルトが、今の先進社会に跋扈(ばっこ)している。フロイト精神分析とかユング心理学というのもオカルトだが、前者など、長いこと知識階級にとってかっこうの退屈しのぎを提供してくれていた。

今では、精神医学の世界で、精神分析など採用している者はほとんどいない。もちろん、ラカンだって同じである。あるいは中沢新一のような密教的オカルトとか、茂木健一郎の脳化学系オカルト、トランスパーソナル心理学、風水思想など、さまざまあって、実に人気がある。亡くなったユング派の河合隼雄のほか、香山リカ斎藤環など、オカルト論客にも人気がある。

私はこういうオカルトを、ここ数年間、けっこうしつこく批判してきたが、最終的に、「オカルトでも何でもいいの、あたしはそれで救われているの」と言われてしまうとどうしようもない、という問題がある。しかし、「救われている」なら、まだ何とかなるが、「あたしはそれで最高の退屈しのぎを得ているの」と言われたら、もはや返す言葉はない。何しろいじめと違って、自分ひとりで楽しんでいる分には、特に人に迷惑をかけるわけではない。「じゃあ、何か代わりになる退屈しのぎを教えてよ」と言われたら、お手上げである。(p236)

自然科学でも文学でも何でも、「何か新しい発見がなされること」が長く支配的な「退屈しのぎ」になってきた。世界のあらゆることが「だいたい」分かってきたゼロ年代に、雑学やムダ知識への関心が高まったのは、もう対象がそのくらいしか残っていなかったからだ。


だからそれが進んで「脳」とか「自己」とか、分析に終わりがない対象へと向かうのは自然なことだと思う。

犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回るように、自己分析もぐるぐると自分の影を追いかけるだけだ。そうしたリビドーの対流を外に向けろと、小谷野氏は言っているんだろうが、それはけっこうしんどい。(そのしんどさは、「対象を失ったときにやってくる退屈」への恐怖なのだろうか。)嫌でも対象を持たなければいけない現実に置かれている人にとって、自己分析はとても心地いいファンタジーになる。





そして最後、「重要な退屈しのぎの術」として提示されるのが、変人や狂人を笑う、という方法だ。

電車の中で、自分のバッグのファスナーを開けたり閉めたり、繰り返している若い女とか、昼間から酒に酔ったおじさんとか、あるいは飲食店で店員相手に、雅子さんは努力がたりないわよ、紀子さんは立派よ、と延々と語り続ける、奇妙な帽子をかぶったおばさんとか、スーパーのレジにいるインド人にしか見えない中年婦人とか、変人を見ては、友人や家族にその話をして楽しむのである。
もしこの世から、こうした変人が一切いなくなったら、私たちはさぞ退屈してしまうだろう。(p237)

もし、これから必要とされる能力があるとすれば、それは「分析力」ではなく、「妄想力」だ。
「分析」は、相手や自己のことを「分かった気」になって思考停止してしまう恐れがある。変人を見ても、「アノ人は幼児期のトラウマが…」なんて言っていても面白くない。それよりも「妄想」を通じて相手や自己の「分からなさ」を想像で埋める力、「カレーばっかり食ったせいでインド人みたいな顔になったのかなぁ」と対象の面白さを具現化する力、それが礼賛されていくと思う。




そしてこの日誌も退屈しのぎになっていれば幸いなのだが…。
読者「読むんじゃなかった。後悔した。」
ごめん…。



おおはし