moso magazine Issue 1――処女崇拝の精神分析的解釈

処女性のタブー、童貞はタブー リターンズ 

 
フロイトの論文「「愛情生活の心理学」への諸寄与――処女性のタブー」についての論考(『処女性のタブー、童貞はタブー――童貞から処女をとらえなおす』)において、処女に対する評価を童貞という観点から論じた。ある社会においての処女の評価は、その社会の「童貞含有率」に相関する、というのが私の持論だ。童貞は処女を求めている。
 フロイト自身は同論文の冒頭部分において、文明社会において処女が尊重されること、つまり彼女らが結婚相手としてもてはやされることを、次のように説明する。

男性が女性(処女:筆者註)と結婚することによって、長い間どうやら押さえつけられてきた若い女性自身の愛への憧れを初めて満足させてやり、またその際に、環境と教育の力で彼女の心の中で築かれていたいろいろの抵抗を克服して、ここに男性は妻たる女性との間に永続的な関係を結ぶ。
(「「愛情生活の心理学」への諸寄与――処女性のタブー」、『フロイト著作集第10巻』、333頁)


そのことによって、

女性は一種の隷属状態に身をおくことになり、この隷属状態が誰にも妨げられずに彼女をいつまでも所有するということの保証となり、また彼女をして新しい印象や他人の誘惑に抵抗させるようにする。
(同上)

生まれてこのかたSEXを経験したことのない処女の女性に対して、初めての男性は性愛において彼女に、自分の性的趣向を真っ直ぐに受け容れさせることができる。所謂「自分色に染める」というやつである。このことによって、女性は彼に対して「隷属状態」となり、彼の「所有」の対象になるというのだ。「隷属状態」や「所有」という言葉の使い方に、フェミニストからの批判は免れないだろう。しかしそうでなくとも、私はこの解釈が精神分析としては、それほど深く入り込めてはいないような気がするのだ。はたして、これだけで「文明社会における処女についての高い評価」という言説を捉えきれたといえるだろうか。
 厳密に言えば、これは「処女側」からの「処女についての高い評価」の理由である。処女が始めての男性とは(愛憎交えた感情によって)離れられなくなるという意味においては説明が可能になる。しかし、恋愛および結婚は2者間の相互作用である。ある性愛行動に対して女性に理由があるのと同時に、男性にも理由が存在するという可能性もあるのではないだろうか。しからば、文明社会における恋愛と結婚においての「処女についての高い評価」が、これら処女に内在する理由とともに、男性側が積極的に処女を志向する理由をも、精神分析的な解釈から見つけることが可能なのではないだろうか。


 フロイト精神分析において、性差の説明には「エディプス・コンプレックス」が不可欠である。まずこの「エディプス・コンプレックス」について、簡単にとらえなおそう。
 男児、女児に限らず最初の性愛対象は母親である。大まかにいえば「エディプス・コンプレックス」において、男女の性差の分岐が生まれる。
まず男児は原初の性愛対象が母親、つまり異性であるためその意味で、オイディプスの悲劇の物語にそのままなぞらえていることになる。オイディプスの物語とは「僕はお母さんと交わりたい。けれども、お父さんによって邪魔される。」というものである。彼は母を愛し、その障壁となる父を憎む。このときエディプスの「三角形」の関係、つまり「父―母―僕」という、いわば「親子の三角形」と呼ぶことができる関係を構築されることになる。しかし彼は、去勢のおどしや、母親や姉妹等の性器などに直面することで「去勢不安」にさいなまれ、去勢コンプレックスを体験する。ここにおいてエディプス・コンプレックスは崩壊し、母親は彼の性愛対象の座から外れる。男児は思春期まで性的欲動が凍結される期間、潜伏期に入る。重要なのは、潜伏期後の男の中には、母親を「原型」として、自分の性愛対象を志向する人もいるということである。


 それに対して女性は、同じように母親が原初的な愛の対象ではあるものの、男女の差異である陰茎の有無の事実において、自分が「持たざるもの」だということを発見し、去勢コンプレックスを体験する。それはつまり自分が男児より劣等であるという思い込みを誘発し、同じ性器を持つ母親への愛情は憎悪へと反転する。その反対に、ペニス羨望を抱くことによって、すなわち自分の持っていないものを持っているという意味において、愛情の対象は父親へと変更されることになる。女児にとってのエディプス・コンプレックスが始まるのである。
 端的に言えば、男児エディプス・コンプレックスの後に去勢コンプレックスを体験し、女児は去勢コンプレックスの後にエディプス・コンプレックスを体験することになる。
 このこともあいまって、フロイトは「「愛情生活の心理学」への諸寄与――処女性のタブー」を始めさまざまな論文で、女性が――男性が母親に依存する以上に――父親に依存するという指摘をしている(また彼は女性の場合、エディプス・コンプレックスが完全に解消されないために、超自我が弱いという見解も示している)。
 さらに彼は、女性の「父親あるいはその代理を勤める兄弟」に対する性的願望は強力であり、夫は「決して本来の願望対象」になることはできないという。つまり「女性に愛してもらえる一番手は夫以外の人間、大抵は父親であって、夫はせいぜい二番手にすぎない」のである。
 悲しいかなフロイトは、女性の夫(彼氏に解釈を拡大してもいいだろう)は彼女にとって、常に「2号さん」であり、本命になることはできないと告げているのである。
 このことは、男が本源的には女性という愛の対象を手に入れることができないということを意味する。どんなに相手を愛しても、彼女を手に入れることはできないのである。この状況、ある関係性と似ていないだろうか。そう、エディプスの三角形という関係性に。


 これらのことから、男女カップルの関係においてもエディプスの「三角形」は構築できるのではないだろうか。つまり「(彼女の)父―彼女―彼氏」という構造、名づけるならばそれは「恋人たちの三角形」という関係である。それを先のオイディプスの物語になぞらえると、「僕(=彼氏)は彼女と交わりたい。けれども(彼女の本源的な愛情を勝ち取るという意味においては)、(彼女の)お父さんによって邪魔される。」ということになる。かくして話はエディプスの「三角形」へと回帰する。


 この「恋人たちの三角形」において、先の「親子の三角形」内と同一の人物は一人しかいない。先の構造で「僕」の位置にいた人物である。彼は「恋人たちの三角形」においては「彼氏」の座に位置づけられている。さきにも述べたが、男性の中には母親を原型に異性を選ぶ人間がいる。現実の恋人探しにおいてそれは、「母性的」という表現が存在するように、実際には子供がいなくても母親的なふるまい、容姿を備えた女性を彼女にするという結果に落ち着く。その場合、実はこの「恋人たちの三角形」は彼(息子)にとっては、「親子の三角形」を無意識に反復しようとしていることにはならないだろうか。もしそうであるならば、「処女についての高い評価」の理由もおのずと導かれるのだ。どういうことか。


 エディプスの三角形において重要なのは、子供と母親の二者関係である。先にも述べたが、エディプス・コンプレックスは「僕はお母さんと交わりたい。けれどもお父さんによって邪魔される。」という物語である。たしかに父親は二人の関係性を補強する「定点」であり、その存在自体は重要である(三点がないと三角形は作れない)。けれども、父親はこの三角形の外でどのように振舞おうが(例えば別の女性と性愛関係を取り結ぼうが)、基本的には「僕」の与り知るところではないのである。子供にとって最も重要なのは、母親が父親だけに所有されているということだろう。ひいてはそれは母親が、(父親以外の男に対して)体を許す人間ではあってはならないということなのである。もし母親が父親以外の他の男と性的関係をもっていたとならば、それはつまり父親以外の男に三角形への参入を許すということであり、「僕」にとっての「親子の三角形」の根本的な破壊をも意味する。


 ためしに、父親による不倫と母親による不倫を想像してみよう。発覚した時にどちらが家庭を根底から揺るがす大問題に発展するかというと、大抵の人にとっては後者ではないだろうか。なぜ母親の不倫の方が重大問題になるのかということを、論理的に説明できない。女性のほうがより貞操が固いからという説明は現代ではもはや通用しない。しかし現代でも母親による不倫のほうがみな、「なぜか嫌」なのだ。


 このことから、母親あるいは母性と「処女」が結びつく。男が「恋人たちの三角形」において、「親子の三角形」の構造を反復しているのであるとすれば、「彼女」は「母親」を象徴していなければならない。処女とは誰にも体を許さない女性のことである。それは母親が「父親以外には」という限定つきで「誰にも体を許さない」以上に、男にとっては貫徹された「原初の性愛対象としての母」なのである。男がそのような女性と付き合い、SEXを体験するということは、母親が自分を「待っていてくれた」という解釈も可能になる。処女とのSEX、それは現実には不可能であった「母親と交わりたい」という原初の欲望を、虚構でありながらも叶えることになるのではないだろうか。
 もし彼女が処女ではない、つまり他の男性とも付き合った経験があるとすれば、この「恋人たちの三角形」が「親子の三角形」を反復することは完全には不可能だ。「恋人たちの三角形」において「親子の三角形」を反復しようと試みる男にとって、意中の女性がもう処女でない、つまり他の男との関係があったということは、母親による不倫と同じくらいの計り知れないインパクトがあることなのかもしれない。


 しかし、処女と母性が重なる虚構はある限定性を免れることができないことにも留意すべきである。それはつまり、この虚構が「現実」という障壁を越えることができないということだ。現実はそう上手くはいかない。実際にことに及ぶといろいろな不確定要素が噴出する。再度確認すべきことは、現代の経験ある男性には、また未開社会の男性にも、処女とのSEXは、何らかの理由において忌避されてきたということである。処女とのSEXにおいて、処女と母性が重なる虚構に亀裂が入ることは、十分考えられる。すると処女と母性が重なる虚構が成り立ちうるのは、男性がSEXの未経験の場合、つまり男が童貞の場合に限られるのではないだろうか。ここにおいて、童貞の処女崇拝が裏付けられたことになる。
 もちろん、すべての童貞が「恋人たちの三角形」において「親子の三角形」を反復しようと試みる男に当てはまるわけではないだろう。しかし、今回論じてきたように処女を好むことが「母性」を求めていることに通じるもの、あるいはそれと同じでことであるとすれば、「童貞はマザコンであるから女性と付き合うことができない」というような論旨も、あながち間違いではないのかもしれない。


 ある男たちにとって、意中の女性が処女であるということ。
 それはまた、「処女であり母」という不可能な存在、「聖母マリア」をも彷彿とさせる。


イマダ