フロイト「ナルシシズム入門」


ナルシシズムの用法用量にご注意ください


ナルシストというと、現代では男女わけ隔てなく使われる言葉になってしまったが、そもそもは女性の領分だった。
フロイト精神分析において、ナルシシズムはリビドー(性的エネルギー)の備給の比重に原因を求められている。リビドーがある対象に備給されると、自己においてその対象について「過大評価」がなされる。このことについて我々は経験的事実から実感できる話で、好きな人が何をしても素晴らしいことのようにとらえてしてしまうということ、日本のことわざでいうところの「あばたもえくぼ」をフロイト流に説明しているのが、このリビドーによって引きおこされる性的対象の「過大評価」だ。
彼は臨床の現場において患者のリビドーが外部の他者を対象にするのではなく、自己を対象にする、つまり自己の中に滞留するという症状を発見する。これが病においてはパラフレニーなどの症状になるが、彼はその理論を一般化して、人間が自己にリビドーを多分に回収している状態をナルシシズムと呼んだ。リビドーは対象の「過大評価」を招くのであるから、ナルシストの対象(=自分)の過大評価、すなわちそれは自意識過剰という性格に落ち着くのである。
そしてフロイトは、このナルシシズムの傾向は女性のほうが強いということも述べている。それは、女性が愛される(自他を問わずリビドーの)対象であるということを意味する。


ところが注意すべきは、ナルシストでなくともリビドーが自己から完全に出払うということはないということ。リビドーがすべて自分から出払った状態、それはまさしく「自暴自棄」の状態であり、ふつうありえない。したがってリビドーは自己の中にもある程度は残留するものとして解釈されている。それはつまり、男にも幾分かはナルシシズムの残り香みたいなものをもっている、ということだ。はたしてそれはどういう場面でみることができるだろうか。


男は女性ほど鏡で自分の姿を確認しない。しかしそれでも、全うな暮らしをしているならば、日に一度は鏡の中の自分と対面しているだろう。その時同時に、いやがおうにも自分の顔に対する評価をしているはずである。
どうだろう? 気持ち悪い話ではあるが自分の顔、意外と評価は低くないはずだ。恥ずかしながら筆者の自分の顔に対する評価を暴露すると、中の下ほどには低くはないのではないかと思っている。
しかし、例えば何かの機会にカメラやビデオで撮られた自分の面を見たとしよう。そのときの評価はおそらく、洗面台の上で対面した顔よりはかなり劣るのではないだろうか。まさに「大暴落」である。筆者もそのような形でときどき自分と「対面」するが、なんて醜い面なんだと、生まれてきたのを恨むことさえある。どうしてこのような「悲劇」が生まれるのだろうか。
もちろんこれには実際に顔の状態がちがうという可能性も残されている。鏡で自分の顔を見るときは知らぬ間に顔の表情を整えているが、カメラなどで撮られているときは顔が無防備になっているからだとか、そのような説明も可能だ。
しかしそれでも、この顔の評価の「大暴落」には、ナルシシズムが関係するのではないかと思えてならない。
つまり、いつも見る鏡の中の男の顔には「ナルシシズムによるぷち整形」が施されているのではないだろうか。例の「過大評価」というメスによる施術である。
それに対して冷酷無比な機械は、そのようなまやかしによって画像を歪めることはない(ゆがんだら大変だ)。
したがって、カメラの中の顔が「大暴落」を起こしているという表現は正しくはない。むしろそれら機械が写しとる姿こそが「before」であり、鏡の中の男こそが「after」なのではないだろうか。
それはジャック・ラカン鏡像段階のプロセスにも重なる。
幼児の頃、人間は鏡に映る自分を見ることで始めて自分のパーソナルイメージを獲得する。しかし、そのかりそめのイメージを獲得することと引き換えに、真の自分からは永久的に「阻害」されてしまうのだ。
主体にとって自己認識はすべて、残留したリビドーすなわちナルシシズムによって、永遠に曇らされているのかもしれない。

閑話休題。やはりナルシシズムは女性のものだ。
ナルシシズムがリビドーの活動であるならば、それは満足させてやらなければならない。その満足はいかにしてもたらされるべきか。重要なのは、ナルシシズムの満足感は絶対評価ではなく、厳然たる相対評価であるとういことだ。
「どれだけ愛されたか」ではない。重要なのは「誰よりも愛されたか」なのである。それを象徴しているのがミスコンである。All or Nothing、どんなに票(愛)を集めることができたとしても、一位にならなければ意味がないのだ。それが意味するのは、ナルシシズムを満足させてやれるのは究極的には世界にたった一人しかいないということである。


その幸運な一人になれた女性はいいとして、夢破れた乙女たちはどうすればいいのだろう。
繰り返すが、ナルシシズムを満足させてやれるのは「世界」でたった一人。しかしこの場合における世界は、いくらでも伸縮自在なものである。世界は一人っきりであっても成り立ちうる。
彼女らは各々の家に帰り自分の部屋に閉じこもり、鏡の前に立つ。この鏡の世界の中には、他に競合する相手はいない。その閉ざされた空間においては誰もが自分のナルシシズムを満足させることができる。
女性のオナニーのオカズは(ポルノグラフィーではなく)幻想であるというのはよく聞くが、それは紛れもなく幻想という世界で自分だけが男(男たち)に愛されることによって、ナルシシズムが満足を得ているということではないか。


ミスコンという華やかな表舞台で愛される女の子と、薄暗い部屋にこもって愛されることを妄想して一人で励んでいる女の子。全く境遇が異なる二人であるが、その二人が共有するものがあるとすればそれはナルシシズムである。
そのように考えていくと、このナルシシズムという語に「喜劇性」と「悲劇性」という両義的なものを感じられてしまうのだ。


イマダ