moso magazine Issue 3――コラム2

女芸人――地上に降りた最後の天使


今年もM−1の季節がやってきて、終わった(優勝した人はまだ見てない人もいるかもしれないので秘密)。
今年の顔ぶれを見ると出場8組中、女の子はハリセンボンというコンビの二人だけ。


男女平等社会の機運が建前上は広まっている中で、なかなかそうならない分野があるとしたら、その際たるものは「お笑い」の分野だ。
僕の長年の研究課題は、なぜお笑い業界のジェンダー非対称性は維持され、しかもそれを変えようという気さえ起こらないのかということ。要するに、「なぜ女芸人は(男の芸人よりは)面白くないのか?」ってことだ。
たしかに、ここ最近の女芸人の活躍は目覚しいものがある。
あるんだけども、見てるほうも、やってるほうも、根底の部分では「お笑いでは女は男に敵わねぇ」という気持ちがあるんじゃないじゃないかな。昨日のハリセンボンだって、健闘したんだけれど結果は4位。


これはなぜだろうか?それを考えてたら、昨日のM−1の審査員、上沼恵美子が重要なことを言っていた。「女性は恋をすると面白くなくなりますからね」。


彼女が言っているのは女芸人の内面の話だけれど、それは外側つまり女芸人を受容する側には適用できるんじゃないかと僕は思う。それはつまり僕たち社会の全体(男も女も)が「女」という属性自体に対して「恋をしている」んじゃないだろうか。そしてその恋の感情に女性全員が、まだ応えなければいけないという状況がある。つまり、いまだに「女」という属性はウケるのではなく、モテなければいけない属性だということだ。
では「女」という属性と、「芸人」という属性は完全なる共存はできるのか?
僕の見解は「否」だ。
僕の長年の研究で発見したテーゼに


「モテ」と「ウケ」(笑いをとるという意味でのウケ)は両立しない。


というものがある。
字義通りの「お笑い芸人」はモテない。
いや、モテている男のお笑い芸人もいるではないか?とおっしゃられる方々もいるかもしれません。
たしかにお笑い芸人も、プライベートではモテているだろうけれど、それは彼らがオン(芸人)/オフ(男)を使い分けているからだと思う。彼らが彼らを見る女の子を笑わせている瞬間だけは少なくとも、彼女らファンの眼に映る芸人は、セクシャルな身体(モテの身体)にはなってはいないんじゃないだろうか。
お笑い芸人としてテレビに出る際、彼らの芸人という肩書に(男)というカッコは必要なくて、その字義通りの男でも女でもない中性名詞の「芸人」でなければならない。


しかし、これは芸人だけに限ったことじゃない。
我々一般大衆にとっても「モテ」と「ウケ」は両立しない。
これを僕は「ビーフorチキン?」の法則と呼んでいる。


飛行機の国際線を想像してみよう。外国人キャビンアテンダントはこちらの言葉が通じない分、日本人のスッチーほど優しくしてくれない印象を与える。おまけにガタイがいいもんだから、怖いんだよね。
そんな外国人の彼ら彼女らが僕の方にツカツカ歩いてきて来て、一方的に問いただすわけだ。野太い声で「Beef or Chicken?」と。
僕が思うに、このビーフが「モテ」で、チキンが「ウケ」なわけだ。


それで突然の英語にうろたえた僕は、何がなんだか分からん間に「チキン」つまり「ウケ」を選ばされていたわけだ。これは要するに自分が「ウケ」派か「モテ」派かが、人間関係の構造上自分の選ぶ余地のないところで勝手に決定されるってことを意味する。
そして1度チキンを選ぶともうビーフには変えられない。運ばれてきた料理にまだ手をつけてなくても、例の怖いキャビンアテンダントにはそんなこと頼めないのだ。


たしかに「ウケ」であることも、人に羨ましがられることがある。一応人気者だってことだからね。
これは法則で言うところの、「チキンは味がさっぱりしてるし、健康的でいいですね〜」と隣のビーフを選んだ乗客に言われるみたいなもんだ。
たしかにチキンもいいことはいい。マズくはないからね。でもね。たまにはその脂身たっぷりの、不健康そうなビーフに舌鼓を打ちたいわけだよ。
これは、みんなの話題の中心になるというよりも、たまには女の子と一対一の緊張感のある関係を結びたいよね〜という現実での切実な願いに相当する。「ウケ」ばかり狙うではなく、たまには友人の飲み会を女の子とのデートで断って、「付き合いの悪い奴だな〜」と僻み混じりで言われたいもんだよ!
僕みたいに、「飲み会皆勤賞ですッ!」は誇るべきことではないのだ。
もう1つ例え話をするならば、ミッキーマウスを可愛いといっている女性たちよ!ミッキーが「今夜、どうよ?」と男の声で迫ってくると、引くでしょうが!それと同じことですよ。


閑話休題、少々私怨が混じりすぎた。女芸人の話に戻します。
要するに、「女」は「モテ」とは切り離せず、「モテ」は「ウケ」とは相性が極めて悪い。だから、「女芸人」という言葉自体、逆説的になる。彼女らが男の芸人と違うところは、やはり「女」という属性自体に「モテ」が強烈に張り付いているんだな。だから、先ほど言った中性名詞の芸人になるのは難しい。


残念ながら、現状で女の子が「ウケ」を目指すならば、「モテ」をある程度は担保しておかなきゃならない。「バラドル」という属性の女の子がもてはやされているのにも、そこに理由があると思う。男が女に求めているのは「笑い」ではなく「ユーモア」なんだな。
女の子に本腰で笑いをとられたら、普通の男はやっぱり引いちゃう。引かれるということは白けるという意味で、「笑えない」。悲劇的なことに、彼女ら女芸人が笑いに邁進すればするほど、笑いの頂点は遠のいていく。
これはフェミニズムのいう性の二重基準ならぬ、「笑いの二重基準」だと思う。


男だと笑えて、女だと笑えないことって、結構ある。
以前松本人志がテレビのコントで「キャシー塚本」という女性料理研究家を演じていた。このキャシーは今でも僕のトラウマみたいになっているんだけれど、一言で言うならば狂気と変態を足して天文学的な数値を掛け算したみたいなキャラクターだ。
「テレビに映してはいけないテレビ」という享楽的な時代、古き良き時代の産物なのだけれども、あの当時を振り返ってみて、僕がキャシーという女のキャラクターの狂気を楽しめたのは、やはりどこかで男の松本が演じていたという事実を担保にしていたからだと思う。僕はキャシーという狂った女を男の演者という媒介を経ることでやっと楽しめることができた。
たとえ松本と同じポテンシャルの女の逸材が現れ、キャシーと同じようなことをしたとしても、僕がキャシーほどに笑えるかというと、その自信はない。


なんか、ここまでの話だと女のお笑い芸人に明日はないみたいな結論になりそうだけれど、僕はそうは思わない。彼ら(あえて彼らと呼ぼう)を真に面白いとは思えないし、かわいいなぁとも感じることができないけれどしかし、それでもなお僕は「尊敬」はしている。
どうしてかというと、それは彼らがものすごく清い存在だからだ。


他の女性と比べてみよう。
だいたいの女性の職業は男にとって「萌え」を「誘発」する。そしてそれがきっかけで「モテ」となる。その子がその仕事に一生懸命に打ち込んでいたならなおさらだ。
でも女芸人の場合はそうは行かないんだな。彼ら女芸人にはその「モテるから」というモチベーションは成り立たない。その子がどんなに切磋琢磨たって、その子が「爆笑王」になったってほとんど誰も恋しないんだから。
それはつまり、彼らのお笑いにかけるモチベーションが100%まじりっけのない「人を笑わせたいという欲求」であることをも意味する。
それってよく考えたらものすごく一途な営みではないか!それはまさに、現世での恋になんて眼もくれず、ひたすら神に従い続けるシスターのようなもんだ。


現代は萌えの時代。何から何まで、オタクの強大な妄想力の前では萌えの対象となる。本当なら処女であるはずのシスターでさえも、オタクはセクシャルな対象として萌えることができるし、彼女らは男の妄想の中では陵辱されてしまう。
その意味において現代の日本では本当のシスターさえも、シスターにはなることができない。


でも、この先「女芸人萌え」というブームだけは絶対に来ないんじゃないかという印象が僕にはある。
その意味で女芸人こそが、現代のシスターなのである。
では、彼らが信仰している神は何か?それは文字通り「笑いの神」だ。
彼らはいくら信仰しても、決して天恵を浴させてはくれないその神への「永遠の片思い」「成就不可能な恋」を生きている。


そんな彼ら女芸人もテレビでは「モテないッスよ〜」という発言をよくする。
男が言う場合、その真意を解読するのは簡単。「モテないっすよ〜(今彼女いないッス、彼女欲しいッス)」、それは欲望の発露であり、異性へのアピールであったりもする。


でも女芸人のその言葉は、そのように受け取ってはいけない。全く違う事実をほのめかしてるのだから。
彼らにとっては
「モテないッスよ〜(私の生涯の恋人はお笑い神、あなただけです。現世では無粋な男など断じて作りませんッ!)」
という意味なのだ。
こんな清らかな存在、他にいない。なんて健気な女の子たちなんだ。なんて心のきれいな女の子たちなんだ。


女芸人なんかじゃなかったら好きになってたよ。


イマダ