moso magazine Issue 6――今週の「テレビ」

突然ですが、今週から「今週の」シリーズを連載していきます。今回は「テレビ」ですが、ジャンルを問わずいろいろなものを評論していきたいと思います。


ビューティーコロシアム」(フジテレビ系 2/19放送予定)



生き方がどんなに多様化したって、社会からの「女は美しくたれ」という無言の圧力が当の女性たちの心身を束縛する時代が終わる気配はない。また、以前議事録でも書いたけど、女はナルシシズムの動物だ。美しくあることそれ自体で充足できる女性たちは日々せっせとその美しさを磨くのである。でも、中には化粧やファッション、エステなどの「自己投資」では補いきれない容姿の欠陥をもって生まれた不幸な女の子たちがいる。そんな彼女たちに残された手段、それが現代科学の粋を結集した「美容整形」という名の救済の道だ。


でも手術にはお金がかかる。一般庶民にはそうは簡単にこの救済の道は開かれていない。そんな彼女らが最後に頼る場所、それが美の殿堂「ビューティーコロシアム」だ。


元来僕たちテレビ視聴者は、変化とりわけ激変する物事を視ることを好む。だから、美容整形によって生み出される「BEFORE―AFTER」の激変が番組になる―金になる―というのも当然といえるだろう。


この「ビューティーコロシアム」は美容整形、服装、化粧、ヘアスタイルを総合して、女性を「生まれ変わらせる」ことが目的の番組だ。しかし、僕たち視聴者の「ビューティーコロシアム」に対する興味は、つまるところ美容整形という科学の粋でどれほどにまでに女の「肉体」が変わったのか、その一点に絞られているといっていい。AFTERになった彼女がスタジオに訪れて、どこが変わったのか「美のプロフェッショナル」たちが解説するのだけれど、視聴者からすれば、ヘアメイクはこうしただ、服装はああしただという説明はほとんどどうでもいい。やっぱり一番気になるのは整形手術を受けた顔や体、「いったいどういじくったの?」ということ。それが知りたいわけだ。
でも、それをもろにやってしまうと例の「良心的」な視聴者が黙っちゃいない。


「親からもらった体に傷をつけるという行為を奨励する番組とは何ごとだ!」


大抵、こんな批判が美容整形をあつかった番組には返ってくる。
この美容整形をあつかった番組が、そういう批判を免れることはなかなかできない。この「ビューティーコロシアム」も批判された時期はあったけど、それでもその批判を巧妙に「そらしている」という印象がある。そこにはどんなトリックが隠されているんだろうか。

  • 「悲劇的な生い立ち」の再現VTR。


美容整形には理由が必要だ。
いくら自分自身のものだとしても、肉体の形を変えるというのは一世一代の「変身」なわけだから、生半可な理由では許されない。番組ではまず今回の主役となる依頼者の女性が、その容姿によって今までどれだけつらい思いをしてきたか、どれだけ不幸な人生を歩んできたのか、ということを延々と再現VTRで視ていく。この「不幸な物語」と作り上げることで美容整形をするために必要な、確固たる理由が完成されるわけだ。

  • アッコという「母ちゃん」の存在


さらには司会者の存在も見逃せない。
この「ビューティーコロシアム」、司会は芸能界のご意見番、「ゴッド姉ちゃん」こと和田アキ子。司会が彼女なのにはそれなりの理由がある。


再現VTRが終わった後、アッコとその他出演者によって、依頼者本人に対して再度その不幸な生い立ちが「諮問」されさらに、どれだけ整形したいかということが「審問」される。
ここで依頼者は司会者によって試されることになる。もし依頼者が生半可な気持ちや、よこしまな理由で美容整形をしたいと思っているなら、アッコが許しちゃくれない。美容整形することが本当に依頼者のためになるのか、それがアッコによって厳しく審査されるわけである(とはいっても結局は許され、「不可」になることはないんだが)。

アッコはここで、ときには涙を流し依頼者に共感し同情し慰め、ときには烈火のごとくに怒り、相手を諭す。
この番組でアッコが演じているのは、依頼者の実の母親の身代わりだ。
芸能界のご意見番であるアッコが依頼者の生みの親になり代わって、彼女の美容整形について深く考えてやり、最終的にはそれを許すという現場をカメラで押さられたことで、視聴者は今から行われる美容整形が、あたかも実の親に承認されたことのように錯覚できるわけだ。レギュラー放送時は、島田紳助とのダブル司会だったけれど、司会がアッコ一人になってからはその「母ちゃん」キャラがより先鋭化されたといっていい。
このアッコによる最終審判を通過すると、依頼者の前についに「ビューティーコロシアム」が開かれるわけだ。



ところで僕ら、日本の男にはまだ美容整形に対する偏見が残っている。この偏見っていうのは、親にもらった体を変形させることに対する「やましさ」とか、人工的で画一的に整えられる美しさに対する「嫌悪感」ではあるとしても、それだけではないという気がする。

たとえ親がその子の整形を奨励していたって、整形後の顔立ちがいくら自然に完成されていたって、僕らが整形美女をテレビで見る際、その子がたとえどんなにきれいだとしても、その興味っていうのはただ単に物体として感じるだけで、それ以上にきれいになることができた彼女に対してシンパシーを感じることや、賞賛の声を投げかけたいとはどうしても思えない。
それはなぜかを考えると、やっぱり僕らがまだ心/肉体の二元論での、「心の優位」というものを信じている節があるからだと思う。僕たちの感覚では、美容整形でいくら顔や体は替えられたって「美のために整形さえもいとわなかった性格」はなくなることなく彼女の中に存在してる。僕らが整形美女を視るときに、その「美のために整形さえもいとわなかった性格」のどん欲さの部分が、どうしても好きになれないんじゃないだろうか。


ところが、この「ビューティーコロシアム」ではその心身二元論の価値をも逆転させて、視聴者が依頼者の変身に、「本当によかった!」と共感できる仕組みを作り上げてる。


それはいたって単純な話で、番組後半、特に特番として不定期に放送されるようになってからの依頼者たちが、より重度の悩みとなっている不憫な容姿―ちょっとばかし「美のために整形さえもいとわなかった性格」でも整形することを許してあげたくなっちゃうような容姿―にエスカレートしているのだ。

そしてそれら依頼者に「フランケン」や「お岩さん」というキャッチーなニックネームをつけて(人の容姿の欠陥にキャッチーなニックネームをつけるのはどうかと思うけれど)、さらにその容姿の不憫さをあおる。


また彼女らはその容姿が原因で性格自体がひっこっみじあんにもなっていることも効果的に作用している。
厳しい外見で、しかもそれが原因で引っ込みじあんな性格だと、視ている方からすれば「美容整形できたら、本当に性格も明るくなるんじゃないだろうか」という風に思えてくるわけだ。


かつてマルクスは「唯物史観」を説いた。物質によって精神が変わるというわけである。
でもさっき書いたみたいに、整形美人を見る方はどこかしら肉体が変わったとしても変わらない性格、つまり精神があるような気がしている。そして美容整形におけるそれは僕らにとって「美のために整形さえもいとわなかった性格」として片づけられてきたわけだ。
でも、最近この番組に出る依頼者たちのあまりにも不幸な容姿をみると、「肉体をちょっとばかしいじくってあげないと、彼女がかわいそすぎる。ちょっとでもましにしてあげれば、幸せになるんじゃないだろうか。そのためにはちょっとばかり「美のために整形さえもいとわなかった性格」であったとしもいいのではないか」、とさえ思えてくるわけだ。
そして何よりもまず、あくまでこの「ビューティーコロシアム」は外見を替えることで、内面も変える努力をするということが、依頼者に課された最後の条件なのである。


ビューティーコロシアム」で女の子は、肉体(=物質)が変わることで、彼女の精神(=性格)をも変わる。
この番組の中では、唯物史観が「私的唯物史観」、「顔面唯物史観」という形に変わり、一人の女性の個人史を通してその正当性が証明されていくわけなのである。


  • 今週のRECCOMEND!!

エンジェル伝説 1 (集英社文庫(コミック版))

エンジェル伝説 1 (集英社文庫(コミック版))


男とて外見が全く問題にならないわけではない。
初対面の人間を恐怖のどん底に突き落とす悪魔の顔面と、地上に降りし天使のような優しい性格をあわせもつ高校生、北野誠一郎。引っ越してきた碧空町で、最初はその外見がもとで周囲の人間に嫌悪され恐怖されていたが、その持ち前の性格が理解されるにつれて、彼は次第に仲間を増やしていく。
そんな彼の奇妙でユーモラスな日常を描いた、現在「クレイモア」を好評連載中の作者による傑作、全15巻(文庫版は全10巻)。



イマダ