moso magazine Issue 7――コラム3―2

「コンテンツ」としてのプロ野球  後編



長々と更新を怠っていました。
この「コンテンツ」としてのプロ野球も前編を書いておきながら、長らく放置しておりました。
数少ないmoso magazineの読者の皆様、申し訳ありません。


これにはそもそも僕の家のパソコンがネットにつながっていないという原因がありまして・・・とまあそれも言い訳に過ぎませんね、はい。


前編のおさらいをちょっとしましょう。
前編で考えてみたのはずばり、「コンテンツ」としてのプロ野球つまり、野球観戦の快楽とはいったい何か、ということです。そして僕は、野球とは140試合という長丁場において、「積み重ね」と「平均」を競うスポーツであり、求められるのは「盤石な強さ」、そして観戦者には「待つ」を快楽として楽しむことが求められている、と結論しました。


この、野球が積み重ねのスポーツであるということ。
このことで例えば、有力チームについての世間の見方も説明できると思います。僕は前々から、サッカーにおける浦和レッズレアルマドリードのような資金面で潤っていて、毎シーズン大型補強をするチームがあるのにもかかわらず、さほど批判されないのに対して、なぜ野球における読売ジャイアンツやニューヨークヤンキースは「金満球団」と揶揄され批判されるのだろうか、という疑問を持っていました。在籍するリーグにおいて、他を圧倒する資金力を持っているという状況は同じであるのに、なぜ野球におけるそれだけが批判されるのか。


おそらくそれには、野球の戦力補強という名の下に行われる「投資」の、その結果が積み重ねであり「足し算」以外の何者でもないという理由があるのではないでしょうか。
野球では、当然のことながら打者は一人ずつ打席に入るのですから、個々のパフォーマンスは少なくとも表層的には前後の打者とまったく関連ありません。それぞれが相互に影響を与えないのですから、その攻撃力は足し算つまり、積み重ねでしかないのです。それは投手においても同じですね。


だから、野球の俗に言う金満球団の有力選手で構成された打順というのはいわば、そのチームを作るために投資された札束の積み重ねの隠喩であるのです。そのことに野球ファンは直感的に気づいているのではないでしょうか。だからこそ、他のスポーツと違い、野球における資金の潤沢なチームだけは金満球団と批判されるのではないでしょうか。


さて、そんな日本のプロ野球に近年何が起こったかというと、プレーオフ制度(昨年からクライマックスシリーズに改称)の導入です。僕はこのプレーオフ制度の導入は一時的な人気の復活には効力をしめすかもしれませんが、長期的にはプロ野球のためにならないのではないかと思います。
これには二つの理由があります。
まず一つめ。
それは日本プロ野球にはそれをやつ必然性がないということです。このプレーオフ制度は大リーグの模倣であるのはいうまでもありません。では、なぜ大リーグにプレーオフが存在するのかというと、そうせざるを得ない理由があったのです。


端的に説明すると大リーグのプレーオフ制は、「30を超えるチームが広大な国土に散在する」というアメリカ固有の状況の中で、年に一度全国チャンピオンを決めるという難題に対しての解決策であって、いわば苦肉の策なのです。
1リーグ6チームで、狭い国土で行われる日本のプロ野球の現状でプレーオフ制の必要性は見つけることはできません。それならば、まだ80年代にパリーグで数シーズン行われた前後期制(前期と後期にシーズンを分け、前期優勝チームと後期優勝チームがプレーオフで戦い総合優勝チーム決定する)の方が理にかなっていました。


そして、僕がプロ野球におけるプレーオフ制度の導入に否定的である根本的な理由は二つめにあります。
それはトーナメントというノックアウト方式で勝者を決めていく対戦形式が、「待つ」快楽を信条とする野球観戦には向かないということです。ここで重要なのは、なぜこの不平等でまさに蛇足といえるプレーオフ制度にファンが熱狂できるかということだと思います。ここには単に大リーグの模倣するということ以上に深いわけがあるように感じられます。


このことには、次のような理由があるのではないでしょうか。つまり、プロ野球が本当に取り入れようとしているのは大リーグのプレーオフという「制度」ではなく、トーナメントのもつサッカー的な「快楽」なのではないか、と。


サッカーをはじめとするフィールドスポーツの観戦には、野球観戦の「待つ」快楽とは異なる、「刹那的な快楽」がちりばめられています。昔島田紳助が、サッカー選手がゴールを決めた際になぜあれほどまでに狂喜乱舞するのか、という話題に対して、「本人が一番びっくりしてるからや」という興味深い「ボケ」をかましたことがあります。これはボケではありますが、一理あることだと僕は思います。


サッカーをはじめとするフィールドスポーツには、あらかじめ決まっているプレーの動作は数少なく、それらの無限の組み合わせによってプレーが成り立っています。
例えばサッカーでは、「パス」や「ドリブル」、「シュート」「ヘディング」などが動作として考えられますが、それらをどう得点に結びつけるかという問題に対して、決まった答えはありません。マラドーナの伝説の「五人抜き」のように一人きりの「ドリブル」でそのままゴールまでボールを運んでしまうというパターンが考えられるし、「パス」をつなげていってゴールを奪うというパターンも考えられます(そういえば、開幕当時のJリーグでヴェルディ川崎がヘディングだけでボールを運んでいったというプレーの映像を今もたまに見ることができます)。
とにかく、そこには決まった型がないのです。決まった型がないと言うことはそのすべてのプレーが一回性であるということになります。だから紳助がいうようにゴールが決まったらその本人でさえ驚嘆ができるのです。
もちろんその一回性による驚嘆の要素は、サッカーを観戦する側が得る快楽にも関連すると考えられます。だからこそサッカーの快楽は刹那的なのです。


このサッカー的快楽、刹那的な快楽はトーナメント方式の大会と水が合います。
トーナメント戦には「1度限り」、「負けたら終わり」という刺激的な要素が散りばめられていますが、これら「1度限り」、「負けたら終わり」という要素こそがサッカー的、刹那的な快楽と重なり合うのです。
一昨年開催されたFIFAワールドカップ。深夜、僕も寝ぼけ眼で視ていましたが、ブラウン管の中では突如として目が覚めるような光景が展開されました。
このように、「シンジラレナイ」が散りばめられたのは、プロ野球ではなくむしろサッカーだったのです。だからギリシャのような弱小国がヨーロッパ王者になったり、最強と謳われたブラジルが思いもよらぬところで敗退する。したがってコンテンツとしてのサッカーこそがトーナメント方式に適しているのです。


これまで野球的快楽(「待つ」快楽)とサッカー的快楽(刹那的快楽)について考えてきました。
プロ野球プレーオフ制という刹那的快楽を生み出すための「発情装置」が導入されたのをみても、少なくとも日本では時代の趨勢がサッカー的快楽に傾きつつあります。プロ野球よりも、甲子園で躍動する高校球児の方がもてはやされているのにも、高校野球がトーナメント方式であり、さらに3年間で春夏二回しかないチャンスがないという状況が二重担っているからこそという理由があるのではないでしょうか。


僕はこの「野球的快感」から「サッカー的快感」への移行というのは、どうにも日本の戦後史に連関しているように思えてならないのです
激動の戦後史、学生運動や高度経済成長という激変が社会で巻き起こっていたそのとき、テレビコンテンツとしてスポーツはいたって「磐石」な「待つ」快楽をもたらす野球観戦が持てはやされました。
巨人の黄金時代、俗に言うV9。よく考えれば、9年間も同じチームが勝ち続けるスポーツが、飽きもせず観戦し続けられたというのは、ある意味奇跡的な現象です。それは社会が激変していたその最中であったからこそ、テレビコンテンツとしてのスポーツに、ブラウン管の中のスポーツに「安定」を求めていたとも考えられます。


そのあと、終わりの始まりといわれる時代がやってきて、変化がなくなった「終わりなき日常」(@宮代真司)の時代に突入したわけですが、その90年代前半の日本スポーツ界でもっとも大きなトピックの一つといえば、何を隠そう刹那的快楽の申し子、サッカーリーグのプロ化、「Jリーグ」が93年に開幕したのでした。


このように僕は、このプロ野球からサッカーへというコンテンツとしてのスポーツの「王朝交代劇」に、激動から閉塞へ、という日常社会との奇妙なコントラストを見て取れるのではないかと思えます。


今回は二つに分けてコンテンツとしてのプロ野球の聚落の原因について考えてきましたが、つらつらと書いていくうちに、あらぬところに話が行き着いてしまいました。
プロ野球の低迷、その原因として明確に言えるのは、「時代がそうなんだから仕方ねえ」という何とも身も蓋もないものになってしまいます。
時代が閉塞的だから、テレビの枠内だけでも、短絡的に得られる快楽を享受したい、そのような欲求がコンテンツとしてのスポーツの盛衰に関わっているのではないでしょうか。


イマダ