森岡正博『感じない男』


感じたいんじゃない、もてたいんだ!



森岡正博の「感じない男」は、小谷野敦の「もてない男」に始まるちくま新書の「ない男シリーズ」(僕が勝手に命名)の一角をなしている。
この本で森岡は「男は感じてないんじゃないか」つまり、男が真の意味で性的快楽を得てはいないのではないか、ということについて論じている。そしてその「感じない」からこそ、それを隠蔽するために男たちが「ミニスカート」や「制服」「ロリコン」などに走るということを論じている。著者自身の性的な体験や性的趣向が赤裸々に綴られているため、かなりセンセーショナルな部分もある。


僕はこの「感じない男」の冒頭の文章、「男は感じてないんじゃないか」という一文を読んだとき、その着眼点に驚嘆した。「なるほど、男のセクシュアリティーを論じるのにはこういう視点があったか」と。盲点だったと感心した。しかし、それと同時にある種の違和感も覚えた。射精で感じない?そもそも何でこの人こんなことを考えようと思ったのだろう、と。それには普段男の性的快感について僕自身が深く考えたことがないということとはまた別種の、釈然としない引っかかりのようなものがあった。
そして、その引っかかりのようなものは読み終わった後も晴れなかった。そして「もてない男」を自称する僕は小谷野氏の「もてない男」(小谷野氏はもてない男を「好きな女の子とつきあえない男」と定義する)を読んだとき氏にある種の共感を覚えたのだが、それと同じ感情をこの「感じない男」には抱くことができなかった。
もてない男」と「感じない男」は「ない男」同士ではあるけども、両者の間にはとてつもなく深く大きな溝が横たわっているような気がする。これは何なのだろうか。


筆者は射精で感じないことを「男の不感症」と名付けているが、不感症という症状ならば、それがないときは反対に感じることができるというわけだ。
でもこの射精のあとの虚脱感は本当に症状なのか?射精には快感がなくて虚脱感しかないということが、不感症などではなく先天的には決まっているとは、どうして考えないのだろうか。
森岡はその疑問に対して、「私は実際に、射精のあとの空虚な感じや、急に醒めていく墜落感覚がつらいのである。本人が心身のつらさを自覚的に訴えているのだから、やはりそれは広い意味での医学的な症状ととらえたほうがいいのではないか(40p)」と答える。しかし「本人が心身のつらさを自覚的に訴え」るのは、何も射精後の虚脱感だけでない。例えば、僕たちは失恋しても「自覚的に」つらい。でも人はそれを、「フラれ症」とか名付けて症状としては囲い込まない。


やはりこの「感じない」という問題の立て方自体に対する違和が、僕の中でどうしてもぬぐえない。そもそも、この問題の立て方自体が、ある前提条件をもっているのではないだろうか。筆者はオナニーの射精に快感がなく、「排泄行為」でしかないといっているが、そもそもその「快感がない」ということが問題意識になるのには、快感を伴う性行為があるという前提に立っているといえる。


「感じない」ということが問題として現れるのはどんなときか考えてみよう。
例えばオナニーの場合はどうか。行為をやり終えたあと、大抵の男は筆者がいうような虚脱感に襲われる。がしかし、だからといってそこで「感じない」という問題が頭をもたげたという人を僕は聞いたことがない。
では「感じない」という問題が提起されるのはいったいどんなときなのか。
「感じる」というのは紛れもなく主観的な現象だ。でも自分が感じているか感じていないかが問題視されるのには何かきっかけがあるはずだ。そしてそれはおそらく自分自身が感じていたときがあるか、感じている人間が身近にいるからではないだろうか。それはどんなシチュエーションなのか、どう考えてもSEXだろう。
「感じていない」という実感は、自分の上で彼女が自分が感じたことがないほどの快楽を享受していた、という経験から生まれるのではないだろうか。自分が彼女ほどは感じれていないということが相対的に実感できる。そして、その行為が終わった後、気持ちよさそうに寝息を立てる彼女のかたわらで、男の脳裏に浮かぶことこそ、彼女のほどには「感じられなかった」ということではないだろうか。


そうなると「感じない男」とは「(彼女に比べて)感じない男」ということになる。
筆者自身もセックスしているときは、オナニーと時と同じで射精では快感は得られないが、精神的な満足感が得られると述べている。つまり、単なる射精は「(セックスの時よりは)感じない」のである。
そうすると「感じない男」が抱えている悩みとは、女の子とSEXした際に得たはずの満足感や幸福感が、一人でオナニーして射精したときは得られない、というかなり贅沢な悩みだということになる。


このように「感じない男」の「感じる/感じない」という論点は、その前提条件としてセックスのパートナーがいる男、つまり「もてる男」だからこそ提起できるものなわけだ。童貞やもてない男は、自分の普段の射精と相対的に比べるべきSEXや女の子の快感に直面したことないわけだから、そもそも「感じているか」という問い自体が、悲しいことに浮上してこないのである。ここで僕自身が覚えた「もてない男」と「感じない男」の間に横たわる深く大きな溝の正体が分かる。両者を分かつそれは「もてる/もてない」という、(もてない男の側からすれば特に)それはそれは大きな違いのことだったのだ。


何よりも決定的なことが本の最後の方で書かれてある。筆者がなぜ「感じない男」を問題とするのかというと、「感じない男」は「男の不感症」を素直に受け容れることができず、自分より深い快感を享受しているだろう女性たちを憎み、彼女らを支配しようとしてしまうからだとしている。この「女の支配」が「感じない男」という問題の帰結であるということに、「もてない男」でかつ「キモメン」と人から罵られる僕は唖然とする。
もてない男」や「キモメン」は、そもそも女を支配する機会さえ与えられていないのである(だからといって、女の人を支配することは肯定されるべきではないし、僕自身支配したいとは思わない、・・・おつきあいはしたいけども)。
何度も言うけれども、「感じない男」は「もてない男」ではない。むしろ「もてる男」なのだ。「もてる男」こそが「感じない男」として感じないということを悩むことができるのである。


ちなみに、この「感じない男」の著者盛岡正博はイケメンとまでは即座に断言できないまでも、決してもてなさそうな面構えはしていない。ちくま新書には裏表紙に著者近影が載ることになっているが、その写真でも遠い目をしながら、さわやかな微笑みを振りまいている。髪型は坊主だが、彼ならば見る人が見れば今風に「オシャレ坊主」というかもしれない。「感じない男」は、少なくとも「もてそうな男」ではある。


本文には氏の若い頃のエピソードが挿入されていて、彼自身は「同年代の女の子と付き合いたかった」が、当の彼女たちは彼に「興味を示」してくれなかったらしい。だがそのかわりに、彼はゲイの男性たちや、年上の女性たちにはもてたらしいのだ。本人にとって、それはトラウマ的経験だったかもしれないが、世の中にはゲイの男性や年上の女性に「さえ」興味を示されない「キモメン」がいるわけであって興味を示されるだけまだましだといえる(僕の場合はノンケだから男性はお断りするが、年上の女性の場合は年齢に応じて要相談である)。「誰かには求められる男」と「誰にも求められない男」の間には雲泥の差がある。


確かに、「もてない男」にも「感じない男」がいて、そいつらが「制服」や「ロリコン」に走るんじゃないか?ということもあるだろうけれど、大多数の「もてない男」は、そのような奇抜な性癖があるからもてないのではなくて、ただ単に顔が不細工であったり、女の子とコミュニケーションする能力がないからもてないのだ。
むしろ監禁王子や京大アメフト部の例を引くまでもなく、いわゆる「もてそうな男」が女を支配しようとするんじゃないか。犯罪にまで至らなくても、女の子にひどいことをしているということは、その男が女の子にひどいことができるほど彼女と親密な間柄になっているということの裏返しでもあるわけだ。DVなんていうのはその象徴的な事例だろう。
なんども言うけれど、真のもてない男には女の人と関わる機会さえ与えられないのだ。だから射精が気持ちいいか、気持ちよくないかなんてどうだっていい。
それよりもまず、彼女が欲しいんじゃ!
女の子と付き合ってみたいんじゃ!


書いていて、だんだん腹立たしくはなってきた。
「感じない男」の感じないという悩みは、所詮「もてる男」ならではの「戯れ言」に過ぎない。僕のような「もてない男」からすれば、「彼女のように感じられない」ということすらいえない我々からすれば、「感じない男」は例えるなら、ホームランを30本打ったシーズンに引退する王貞治のようなもんである。「もてない男」たちからすれば、「感じない男」はめざしている高みがまるで違う。彼らは僕らが一生かかっても到達不可能でありそうな目標をめざしている感じがする。我々「もてない男」とは、目指している次元からして、もう別格なのだ。
だから「感じない男」と「もてない男」はそもそも論点からして、ズレまくっているのである。
そしてこの本自体も、少なくともまともな「もてない男」は端から対象からはじかれているといえる。


僕からすれば、彼女がいてなおもセックスで感じようとするその魂胆がおこがましい。
別に感じなくてもいいではないか。
男は黙って女の子に奉仕しなさい。
彼女を「感じる女」にしてあげなさい。
たとえ「感じる男」になれなくとも
「感じさせる男」にはなれるはずだッ!
僕という「もてない男」は世の「感じない男」という仮面をかぶった「もてる男」たちにそう言いたいのである。




イマダ