moso magazine Issue 9――今週の「人」

高橋尚子


午後十時。
無音のスタジオ、安藤優子を真ん中にして滝川クリステル、櫻井よし子ら沈痛な面持ちのキャスター、コメンテーターらがテレビ画面に横一列にならんでいる。


いったい何が起きたのか。
高橋尚子がオリンピック選考から脱落したのだ。
まるで誰かを追悼するかのような番組の始まりに少しとまどうが、今週の「新報道プレミアA」は紛れもなくその話題を「そのような」スタンスで取り上げることからスタートした。


あくまで報道の中心は高橋の事実上の五輪落選という悲劇。当のマラソンを制した張本人を取り上げたのは中継インタビューも交えてわずか数分のみ。特定の選手にあまりにも隔たった報道を避難するとか、そういう公平性を訴えたいわけではない。僕はこの日本のスポーツメディア特有の「ヒーロー」や「ヒロイン」を仕立て上げ、彼らのイメージを守り続けなければならないという、ある種の病理にも似た切迫感が気持ち悪い。


彼女が一躍脚光を浴びたのはシドニー五輪のマラソン金メダル。42.195キロという豪州の熱く過酷なレースを走りきった後にもかかわらず、ゴールテープを切った瞬間に見せた天真爛漫な笑顔と、「どんな名言が生まれるのか」という本末転倒な周囲の興味を一蹴する「本当に楽しい42キロでした」という、ある意味予想外のあっけらかんとしたコメント。
このレース後の高橋の一連のリアクションが彼女のその後のキャラ、少女性を決定づけたといえる。そんな彼女に国民(とマスコミがひとくくりにしているごく一部の視聴者)が「萌えた」のだ。


さらにこの高橋という少女には、例の小出監督という「パパ」がいた。彼がいたことで彼女の少女性はさらに加速する。
高橋は金メダルをとった時点で28で、たとえ二人が「そのような関係」だったとしても、全然あり(実際はないだろうが)なのに、それも関わらず二人の掛け合いとかを視ているとこっちは勝手にアブノーマルな関係を想像してしまう。
それらの要因が相まって彼女の人気は「Qちゃんフィーバー」へとふくらみ、国は勢いあまって国民栄誉賞までだしてしまった。高橋尚子という「ヒロイン」―文字通り「国民的少女」―が誕生したのだ。


その「ヒロイン」としては、後に同じ五輪で同じ金メダルを取った野口みずきもかなわない。マラソン金メダルが高橋に続いて二度目だったとしても、同じ一位の彼女にも感動はあったはず。でも彼女はレース後に「ちゃんと」疲れていたし、「ちゃんと」感動的なコメントを残していた(それまで履いていた自分のスパイクにキスをするパフォーマンスが、自分の足のにおいを嗅いでいるのか、と一瞬勘違いしてしまったが)。野口は高橋のように視る者が幻想を投影できるような少女ではなく、「ちゃんとした大人の女」だったのだ。彼女には高橋の「パパ」にあたいするキャラの濃い人脈もなかった(いや、別にいなくてもいいんだけどね)。


結果的に、今までの8年もの長きにわたってマラソン報道は、この高橋尚子という一人のランナーを神秘的な「ヒロイン」という場に縛り続けてきた。高橋以後、野口をはじめ十数人のランナーが脚光をあびたが―中にはそのまま聚落していったが―その報道の仕方にはどこか奥歯に物が挟まったような、違和感が残らなかったか。それは「本当はQちゃんに肩入れしたい!」「Qちゃんを持ち上げたい!」というマスコミの報道の姿勢ではあるが、その根拠をもっと突き詰めていけば「最後には必ず高橋が勝つ」という、「ヒロイン」の物語をメディアがあらかじめこしらえてしまっていたということに、そもそもの原因があったのではないか。野口が勝ったときも「おめでとう!」という雰囲気にも、「でも最後はQちゃんが勝つけどね」という裏書きがされていなかっただろうか。


メディアが「ヒーロー」や「ヒロイン」といった定点を定め、そこからスポーツを物語化し、彼や彼女との比較で他の選手をも物語の脇役として強引にキャスティングする手法は、ほかのスポーツにもある。


例えば高橋と同じくシドニーで金メダルをとった井上康生
彼も五輪後の柔道というスポーツメディアにおける物語の「定点観測地」と化した。
しかし実際は、その後調子がなかなか上がらず、その次のアテネ大会では後輩の鈴木桂治に実力の上では日本の重量級柔道のエースは完全に取って代わったといっていい。しかし柔道メディアにおける「ヒーロー」井上康生の地位は揺るがなかった。なぜか。「一番の実力者」と「ヒーロー」は違うのである。


どの分野でも「一番の実力者」はその時代ごとにころころ変わるものだ。
でも「国民のヒーロー」はそうそうと降りることはできない。なぜならヒーローとは「最後には必ず勝つ」という壮大な物語の主人公のことだからだ。彼には「ヒーロー」それ相応の―グッドにしろバッドにしろ―エンディングが用意されなければならない。ここでいう物語とは幻想と言い換えてもいい。そのような象徴的なエンディングによって彼が引退しなければ―父は正しく埋葬されなければならない!―、それまでその「ヒーロー」という幻想に荷担していた者の中に、彼はトラウマとして刻印されてしまうのだ。


その「国民のヒーロー」と幻想に荷担していない者、つまり僕からすると、今の彼の姿は視ているだけでつらい。
本当はとっくの昔にピークを過ぎていても「国民のヒーロー」に指定されたアスリートは、がんばり続けなければならないのだ。最近井上康生が注目されているのは、五輪選考会に進退を欠けなければならないほど実力が衰えたその聚落を視聴者が視たいからではない。マスコミによって視聴者に植え付けられた「国民のヒーロー」としての井上康生は「最後には必ず勝つ」という―本人からすれば「絶対には必ず勝たなければならない」という―根拠のない幻想の主人公なのである。


長嶋茂雄はもしかして、そのスポーツメディアの「ヒーロー」の原型だったのかもしれない。彼が病に倒れたことが、ニュース速報で取り上げられたことは言うまでもないが、無事回復した後の彼のマスコミの扱い方、「腫れ物を触るような」その態度が逆に痛々しさを際だたせる。彼らは退院以後、回復途中のミスターを近くから映さなくなったのだ。右半身が若干麻痺ししゃべりがおぼつかない彼を撮りたがらないのである。結果、回復した彼は遠目にしかテレビには映らない―退院後初の野球観戦はまるで天覧試合!




レース後、引退を発表すると思われた高橋尚子は現役続行を示唆した。
実は8ヶ月前に彼女は半月板を損傷していた。ヒロインは手負いの状態で戦っていたのである。
これで視聴者の幻想、「ヒロインは必ず最後には勝つ」という物語は、まんまと続くことになってしまった。しかも「逆転劇」に向けてのとっておきのネタになる「怪我からの復活」という要素を残して。


今後の予定を明らかにしてないが、ただは走るということだけは明言した彼女が痛々しい。
高橋尚子は何のために走っているだろうか。彼女は常々「応援してくれるみんな」のためと話す。彼女自身の脳裏には実体的な家族やその他のファンの顔が浮かんでいるのかもしれないが、もしかして彼女を走らせている「応援してくれているみんな」とは、ラカン精神分析における「大文字の他者」のことかもしれない。「大文字の他者」は物理的な身体を持った他者ではない。それは他者のという名でありながら誰しもの内面に巣くっている、秩序を司る象徴界の別名だ。では彼女のそれは、いつ「応援してくれるみんな」という姿に化けたのか?その象徴的な瞬間を特定するならば言うまでもなく「国民栄誉賞」の贈与された瞬間だろう。贈与には返礼をしなければならないというのは、かの文化人類学レヴィ=ストロースの教えるところだ。彼女は未だにその贈与に対して返礼し続けなければならないという、過酷な運命を背負わされているのかもしれない(その点、受賞を辞退したイチローの振る舞いは「アスリートとして」正しい。彼はヒーローになることを拒んだ)。


ヒーローやヒロインがいるから物語が発生するのではない。
視る者が物語を欲するから、人は「ヒーロー」や「ヒロイン」に仕立て上げられていく。


イマダ