moso magazine Issue 10――今週の「本」

愛の空間 (角川選書)

愛の空間 (角川選書)

日本の明治から現代まで。男と女の逢瀬の空間、要するに「日本人はどこでSEXしてきたか」ということの変遷を辿った本。

この本はまず、その制作過程の長さがすごい。
本のためのインタビューが最初に行われたのが1986年で、この本の初版が99年。その間に筆者は他の仕事とも平行して進めていたのだろうが、それでも10年以上もの長きにわたって、当時の新聞記事や現代になってはそれほど有名ではない当時の通俗小説まで、あらゆる「SEXする場所」についての史料を網羅的に集めまくり、それでもなお文章に散見する自分の論の可能性をあらゆる反証を試みて疑う姿勢に、筆者の根気強さと学者としての真摯な姿勢が伺える。


男女の性愛の歴史的変遷は、社会学の方面や比較文学の方面から、これまで様々な研究がなされてきた。しかし、男と女がどこでやったのか。その「どこで」ということだけにここまでこだわって探求した本はこれまでなかっただろうし、これからも出ないのではないだろうか(最近話題になっている『ラブホテル進化論』も、この本の焼き回しという話・・・)。


おもしろいところ(といっても全編おもしろいのだが)は、戦前と戦後間もないころの一般庶民のカップルにとっては、そもそも「野外ファック」の方が一般的だったということ(皇居前広場が青姦人気スポットだったのだから凄まじい)。屋内でやるのはむしろくろうと(売春婦)が商売として行う売春の方だったということだ。


これは消費社会の原理をよく考えてみたら当たり前のことで、よく言われる説明だけれども、ものの価値はそれが本質的持っている価値のことではなくて、他の商品との関係で相対的な規定される。


場所とて同じこと。
例えば野球観戦の外野席と内野席だと、より選手が近くで見えてサービスも行き届いて快適な内野席の料金の方が高い。それと同じ論理で今から50年前ぐらいまでは、雨風がしのげて一応でも布団がしかれているという快適な屋内ファックの方が、タダでできる野外ファックよりも価値があったということだ。
戦後まもなくまで男は待合という場所をまずお金を払って借りて、女中に芸者さんを呼んでもらっていた。当時の風俗産業は「場所込み」で快感を売っていたといえる。

今では部屋があるというのは普通のことになり、ラブホテルを使わない限り、売春でも恋人の間でのSEXでも、ふつうはどちらかの部屋で行うのだから場所代は発生しない。そんな現代で、わざわざ小汚い草むらでの野外ファックや、窮屈な車の中でのカーセックスが一部の人の間で持てはやされているのは、「あえてする」ということでもたらされるアブノーマルな快感を探求するためであって、かつての野外ファッカーたちとは「なぜ外か?」という理由が全然違う。昔のカップルの野外ファックはひとつの文化であり、反対に現代のカップルの野外ファックは、ある意味で文化に反発しているのだ。


加えて凄まじいのは、価値が発生していた当時の待合や円宿という場所においてさえも、なんと当初「鍵」がついていなかったというのだ。当時は鍵がついていることだけで「『プチ・ブル趣味』だと評」されていた。次第に鍵がつくことが一般化していくのだが、その前はしきりといっても「襖と屏風しかな」くて、SEXの最中でも女中や売春を抜き打ちで取り締まりに来た警察官などが容易に入ってこれたという。カーテンなどの布でしきりがされていた場所もあったとされるがこれまたすごくて、狭いから隣のカップルの腰が動くたびに、カーテンに当たってそれがお尻の形に歪みわかってしまうというのだから、う〜む、なんだか生々しい。


前に『しきりの文化論』という本を読んで、日本家屋の縁側などの例を挙げて、日本では、内と外の関係が西洋人ほど明確に別れてはいなくて、その境界線を曖昧にする文化があるということを論じられていたが、SEXの時はきっちりとしたしきりを作った方がいいと思った。


イマダ