フロイト「自我とエス」

  • 小林さん、僕らはアクセルとブレーキを踏み間違える

   ドジなドライバーではありません


ミスチルに、『【es】 〜Theme of es〜』というタイトルの曲がある。1995年に発表された、もう10年以上前の曲だ。当時まだ小学生だった僕はもちろんes(=エス)なんて言葉の意味を知らず、桜井和寿がサビの最後で「僕を走らせる・・・es」とささやくのを聴いても、「es?なんじゃそれ?」と思っていた。
わりと好きな曲だったから、サビの最後でその謎の二文字をささやかれると余計に気になる。僕が当時持っていた、小学生用の薄い辞書には載っていなかった。ますます知りたいという欲求が募った。そんなある日、ブックオフで古本を何の気なしに物色していたら、この「es」のファンブックのようなものをたまたま見つけた。この曲はサブタイトルでもわかるとおり、ミスチルのツアーを追ったドキュメンタリー映画「es」のテーマ曲として作られていて、この本はその映画の舞台裏を撮った写真集だったのだ。100円だったので、迷わず購入。
その本の中でミスチルのプロデューサーの小林武史のインタビューが載っていて、esという言葉の意味を、「自我」「超自我」との関係で解説していた。
うら覚えだが、たしか次のように自我を自動車に例えて解説していたと思う。


「僕たちの自我を車に例えますと、esとはアクセルみたいなもので、超自我がブレーキになると思います」(大意)


僕ら主体つまり自我の中には、生きる動力源となるesが存在して、それを制御するのが超自我なのだと。
なるほど。だから「僕を走らせる」のはエス(以降はesではなく「エス」に統一)なのかと、この説明に当時納得したのを覚えている。その後も精神分析の本を読まないまま、大学に入学した。そして実際のフロイトのテキストにふれてみると、当時は納得していた小林武史の自動車の例え話が果たして正しいのだろうかという疑問が沸いてきた。


まず、エスを自動車におけるアクセルに例えるのはどうだろう。はたして妥当なんだろうか。
アクセルということは、それを踏んでいないときもあるはずだ。でも、フロイトは論文「自我とエス」でエスこそが原初的なもので自我はその不可分なその一部、超自我はさらにエディプスコンプレックス*1を経た主体にとっての自我の理想、良心の審級として事後的に生まれるとのべている。そして何よりも、エスの中では常に「エロスと死の欲動が闘ってい」て、そこに休むといった観念はない。フロイトによれば、そもそも快感原則にしたがってエスはひっきりなしに活動しているのだ。


そうすると、先の自動車の例えだと、エスというアクセルは踏みっぱなしということになる。まるでそれでは最近頻繁に報道される「ブレーキとアクセルを踏み間違えた事故」ではないか。これはかなり危険な状況だし、あり得ない状態だ。コンビニに突っ込みたくもない。
では、この自動車の例えを延命させるため(なんで延命させなきゃならんのだという話だけども)に、エスをアクセルではなくエンジン全体、動力源にまで拡大解釈してみよう。すると、自動車の例えで「自我とエス」は解釈できるのだろうか。


残念ながら、これでもうまくいかない。
自我が現実原則に従って動くのに対して、エスは快感原則に従って動く。快感原則で動くとは結局どういうことかというと、エスには時間の観念も空間の観念もないし、さらに無秩序、無道徳な上、「快」原理主義者だということだ。
そしてその「快」とは主体、要するに僕らが必ずしも快いと感じることと重なるとは限らない。
僕たちが生きて行くには、どうしても適応しなければならない現実社会の規則(現実原則も含む)が存在するけれども、エスの欲求はそれと対立するかもしれない。エスはそんな現実のことなんて知ったこっちゃないからだ。エスが望む快とは、不快を除去することに集約される。当然それは現実社会には適応できない要求かもしれないのだ。
桜井は最後のサビのラストで「僕を走らせてくれ〜」とエスに呼びかけているが、エスに言わせると「言われなくても走ってる」だろうし、僕ら主体はエスに突っ走ることを頼むのではなくて、むしろそれの暴走を止めなくてはいけない立場にいるのだ。


こうなると、自動車で「エス―自我―超自我」モデルを説明するのはますます苦しくなってくる。エスを車の動力源だとすると、エスにとっての快はアクセルとしての役割、前進だけを志向しているとも限らないかもしれない。エスが何を快としているかは、わからないからだ。
そうなると、エスが自動車の機械系統ということのは、例えば勝手にワイパーを動くことかもしれないし、勝手に車内のエアコンをガンガンに効くことかもしれない。それはまるで、機械や物が勝手に動き出すというあのポルターガイスト現象のような事態だ。
自動車モデル、ますます立場が危うくなってきた。
そうすると超自我も、ブレーキではなくて、そのポルターガイスト現象を車内で必死に止めようとしている人のことになる。

では小林武史が「es」の解説で本当に言わなければならなかったことを、ここで書いてみよう。


「僕たちの自我を車に例えますと、esとは車内で頻繁に起こるポルターガイスト現象で、超自我はそれを何とか止めようとする牧師さんですね」


これでは何のこっちゃ、さっぱりわからん。
おそらく小学生のころの僕には理解できないだろう。
今こそ僕たちは、この自動車の例えを捨て、新しい例えで「エス―自我―超自我」を解釈するときだ。



唐突だが、自動車にとってかわる「エス―自我―超自我」モデルを説明する新しい例えが見つかった。それはあの大手プロダクション、中山秀征擁する「ナベプロ」にあったのだ。そう、「エス―自我―超自我」モデルは実はお笑いトリオネプチューンのことだったのだ!
以上終わりっ。
と、ここで終わっても読者はチンプンカンプンなはずだ。解説しよう。


まず超自我だが、これは言わずもがな、ツッコミの名倉潤であることはわかってもらえるだろう。メンバー唯一の関西人である彼は後の二人のボケに的確に突っ込んでいく。後の二人が東京人でどちらかというとまったりした雰囲気を持っているのに対して、彼の存在はトリオにエッジを効かせている。事実名倉が加入する前には、原田とホリケンはお笑いコンビ「フローレンスZ」を結成していたが、お互い本質的にボケでツッコミがいなかったためコンビとしては破綻していたという。名倉という超自我の審級を取り込んだが故に、「ネプチューン」というお笑いトリオとして成立し、人気を博したと言える。彼がネプチューンにおける超自我、良心の審級を担っているのだ*2


次に自我であるが、それに当たるのが原田泰造だ。
自我というのは英語で言うとエゴだ。普通日本語ではエゴイストという言葉があるように、我が強い人間のことを指す言葉にとられがちであるが、精神分析における自我とは全く別物。精神分析におけるそれは、超自我の要求と、エスの要求の間で板挟みになっている、非常に寄る辺ない存在なのだ。
ネプチューンにおける原田泰造の位置はこれに非常に似ているのだ。
彼らが出ている番組を見ているとわかることだが、原田の立ち位置は非常に曖昧だ。一応ボケ担当ということにはなっているが、そのほとんどが天然ボケの天然キャラ(今風に言うとおバカちゃん?)で、本人はあくまで常識人として振る舞う。実質的には彼はトリオの中でボケでもツッコミでもなく、どうにでも変容する立場なのだ。


そして最後に残った堀内健、通称ホリケンこそがエスにあたる。
先に解説したように、エスとは無秩序、無道徳な上、「快原理主義者」である。それは要するに、したいようにする存在であり、こちらからすれば何をしでかすかわからない存在ということになる。
ホリケンのテレビでの振る舞いを思い出してみよう。彼のトークはセオリー無視、パターン無視、お笑いの常識を打ち破っている。ここでいう「お笑いの常識を打ち破っている」というのは、ホリケンの場合、新たな笑いの常識を打ち立てているわけではなく、本当に常識知らずの時、つまり無秩序的な時がある。
彼のボケのその大半は我々素人には意味不明なのだ。彼の一連の一発芸はいつも、「ややウケ」であり、ときにはドン滑りであることもある。事実、ネプチューンではなく、ホリケンが個人名義でネタをしていたのを見たことがあるが、場内がシ〜ンとしていた。しかし、それでも彼は気にしない。なぜなら彼は「ネプチューン」におけるエス、自分の快感原則にのみ従っている存在なのだから。


さらに、この三者の関係性について説明しよう。
自我=原田は先に書いたように、寄る辺ない存在だ。ネプチューンが番組のMCの時、彼は超自我名倉潤の若干後ろに位置取り、一様超自我の審級にしたがって、まともなキャラを演じる。しかし、同時に彼はホリケンに触発され、ボケに転じることもある。そして二人して自爆した例も数々ある。
もはや懐かしの映像ではあるが、泰造の巴投げ=ネプ投げが一時期流行ったことがあるが、それはホリケンに触発された、ケンカのミニコントのオチとして行われていたのである。


では先に述べた、原初的にはエスだけが存在していたということは、ネプチューンにおいてはどういうことなのだろうか。フロイトも「エスがあったところに自我をあらしめよ」と言っている。これはどういうことなのか。


これは原田泰造名倉潤のみならず、他の芸人のホリケンに対する心境で説明できる。
ホリケンはよく他のお笑い芸人に「子ども」と評されるが、その発言は批判的な意味だけが込められているわけでもなく、どこか羨望の眼差しも入り交じっている節がある。みなどこかでホリケン的なものに惹かれているのだ。
現代は、テレビに出る人間も、テレビを視る人間も、「ウケる」ということと「すべる」ということにあまりにも過敏になりすぎている時代だ。子どもの頃はもっと自由だったはず。例えウケなくても、すべっても、自分のしゃべりたいことをしゃべり、やりたいギャグをかましていたはずだ。しかし、大人になるにつれて、場の空気を読む能力と的確なコメントが要求されるようになった。みんながみんな子どものままでいることはできない。


しかし、ホリケンはプロの、しかもそこそこ売れている芸人であるはずなのに、未だに「子ども」で居続けることができる。ネプチューンエスとして振る舞い続けているのである。ネプチューンが、そしてホリケンがお笑い界で独特の地位を確立しているのには、そこに理由があると思う。ニッチ産業ではあるけれども、ホリケン以外にホリケンと同じことをできないのもたしかなのである。そして本来我々は「ホリケンのあったところに自分たちをあらしめ」なければならないのである。


イマダ

*1:エディプスコンプレックスについてはmoso magazin issue1「処女の精神分析的解釈」で一応解説しているので、そちらを参照されたい

*2:ここでいうそれぞれの位置は、あくまでテレビにおける役割であり、私生活でのゴシップは関係ない。