斎藤美奈子『紅一点論』


開眼!僕らはタキシード仮面になろう



どうも最近、僕が執拗にキーボードを叩いているのと同時に、この男はなぜこんなに必死に文章を書いているのだという疑問を、もう一人の「メタイマダ」が感じている。
まあ、読書会のブログを開設することに、賛成した人間の一人ではあるし、そこまで苦痛ではないのではあるが、議事録の他に「moso magazine」なるものを連載しているのは、ただ「ヒマだから」という理由では説明できない。
そもそも根本的に僕は何も書きたいことがないはずなのである。なのになんでここまでも強迫神経症のごとく文章を書き飛ばしていくのか。しかも今回は『紅一点論』、文芸評論だ。文芸評論について評論するなんて、「書きようがない」の最たるもんだ。


だから精神分析を読み始めて、初めて実感したね。
最近は特に、僕が主体的に「書いている」「話している」というよりも「書かされている」「吐かされている」気がしてならない。それはもちろん、具体的な外部の人間からのプレッシャーによるものではない(第一、開始時間ユルユル、本の選定ユルユル、キャラユルユルのあのメンツでそれはない)。では誰に書かされているのか。
もちろん超自我にだ。


ジジェクラカン解釈では、フロイト超自我はさらに理想自我、自我理想、超自我の三つの側面に分けられる。この狭義の超自我は、フロイト超自我の教師的、良心の側面ではない。「もっとやれ!もっとやれ!」と主体をひたすら行為にかき立てる少々Sっ気のきついやつのことだ。僕の超自我はきっと、「もっと書け!もっと書け!」とか「もっとしゃべれ!もっとしゃべれ」と僕に命令してるんだろうな。

だが、ジジェクによれば、真に倫理的な態度をとるとすれば、それはこれら三つの審級にもどれに従うのでもなく、「欲望の法」なる第四の審級に従うべきだとラカン先生は説いたそうな。


ラカン先生!
それはもしかして先生のあの有名なテーゼ、「汝の欲望にしたがえ」ですね。


しかし先生にはもう一つ有名な格言があります。「他者の欲望の欲望」です。
欲望のおもちゃ箱をひっくり返しても、そこにあるおもちゃ(=欲望)にはすべて、他のお友達のお名前シール(○○ちゃん、××君、△△君、・・・)が貼ってあって、いっこうに「イマダくん」シールの貼ってある欲望は見つからない。
先生!僕自身の欲望が全然見つかりませんっ!


どうやら、この「したがうべき自分の欲望」と、そんなものなど存在しないという状況の落差にこそ、人間の生きづらさの一端があるのかもしれませんね、先生。


さて、『紅一点論』である。
本書では、人気アニメや特撮ヒーローもののヒロイン像から、女性偉人の伝記にいたるまで、紅一点のヒロインを検証し、そこにどんな女性像(女らしさ)が投影されているのかと言うことを、評論家斎藤美奈子が面白おかしく解き明かしてくれる。
だが、僕自身が経験的にこの「紅一点のヒロイン」を強く意識したこと、つまり男女の性差を強く意識した場面を思い返せば、意外にもアニメや伝記のヒロインなどではない。ゲームの世界だ。
たしかに、アニメや伝記の世界も画一的な女性像を描いていたとは思うが、ゲームの世界は「操作性」において女キャラは画一的だと思う。ゲームキャラの女はなぜだか、「速い」のだ。格ゲーでいうと、チュンリーにしろキャミーにしろ、なぜだか速い。ゲームでは女というジェンダーには、どうやらやたらに「速い」というイメージが組み立てられているようだ。


そんな中、ネガティブな女性像を描き続けているのはRPGだ。
僕はRPGのジャンルの作品をそこまでやりこんでいた子どもではなかった(本来のテリトリーはロックマンとか、ゼルダなどのアクションとスト2とか鉄拳とかの格ゲーね)が、それでも「ワイルドアームズ」とか「アークザラッド」、「テイルズオブファンタジア」にハマったし、FFもプレステの代まではプレイした。


そして当時RPGをプレイしていて思っていたことは、「女キャラ使えねぇ〜」ということだったと思う。体力(HP)やアタックポイント(攻撃力)もなければ、ディフェンスポイント(防御力)もない。先も書いたとおりスピードが速いから、攻撃ターンが最初に回ってくるという利点はあるけれど、持っている武器が男キャラの持つような立派な剣やハンマーなどの鈍器ではなくて、ムチとかヒラヒラがついたロープなどの、子どもの目で見ても「ショボっ!」と判別できる武器しか持っていなくて、それでは相手に全然ダメージを与えてくれないし、ダメージをくらえばすぐ死んでしまう。すぐ死ぬから、生き返らせる道具がもったいなくて、ほったらかしてそのまま旅を続ける(・・・酷い)から、他の男のパーティーとのレベル差も開いてくるし、敵キャラもどんどん強くなってくるから、生き返らせると、またすぐに殺されるという悪循環・・・。


このようにRPGにおける女キャラは僕にとって思いっきり「お荷物」だったのだが、そんな彼女たちもないがしろにはできない。なぜなら、そういうキャラに限って、回復魔法とか精霊を呼び出すとか、いざというときのための大技を持っていたり、闘う男の「救護班」という重要な役割を担い、パーティーも彼女込みで運営されるように設計されているわけだから、やっぱり彼女がいないとゲーム自体がクリアーしにくくなってくるのだ。
だから、プレイヤー、特に僕のようなRPG下手ッぴの子どもは「女キャラ使えねぇけど、こいついなきゃ勝てねぇ〜しなぁ」という苛立ちが募ったものである。


さて、この紅一点論で斎藤が言いたかったことの一つは、このアニメ・特撮ドラマの「紅一点」という、著しい男女比の偏重は、実社会と相関関係にあるというということである。
女性だからということだけで、夫の帰りを待つ「救護班」になることを強いられるのは理不尽であり、そういった実社会「紅一点のヒロイン」の構造自体が変わるべきだ、と訴えてきたのはフェミニズムである。
フェミニズムの説明はちまたくさるほど出回る解説書に任せるとして、その思想をかなり過激に要約すれば「お前ら男のファルスを女にもよこせ!」であり、これまでの文脈、RPGになぞらえればそれは、女キャラが男キャラに「あんたたちのHPとAP、あたし達にもっと分けなさいよ!」と言っている、という構図になるだろう。
男達がモンスターをビシバシ倒して、いいかっこできるのはそもそも前提条件としてHPやAPが女の子よりも高く設定されているから(男性に権利が偏っているから)であり、男女同権、つまりみんな同じHPやAPの上がり具合にすれば、女だってビシバシとモンスターをやっつけられるんだからね、ということだ。


しかしこの紅一点という構図は現代になっても厳格に機能し続けているのかというと、斎藤自身も述べているとおり、90年代に入って、その枠組みは急速に崩れ去っているのだ。
ロボットアニメだと、たしかに「機動戦士ガンダム」は著しい男性優位社会だった。モビルスーツに搭乗するのはほとんどが男だし、斎藤が指摘するように女性の乗組員はどうでもいいようなポジションに甘んじている。そこは男の職場だ。
それに対して90年代を代表するロボットアニメ「エヴァンゲリオン」だと、天才科学者や実質的な現場指揮官は女性だし、パイロットも女性の方が多い。立派な男女共同参画社会なのである。むしろ女性の方が多い。

では男はどこに行ったんだ?というと、ブラウン管の遙か向こう岸で、綾波の包帯姿に萌えたり、「あんたバカぁ!?」とアスカになじられるのにマゾ的な快感を感じたりと、つまり闘う女性(戦闘美少女)を見守る側に回ってしまったのである。アニメの中で唯一闘っているシンジも、口を開けば「逃げちゃダメだ」。ここまで後ろ向きなヒーローは類例を見ない。


このへんに、フェミニスト的な言説が衰退しつつある原因が隠されているのかもしれない。フェミニズムに勢いがなくなったのは、フェミニズム自体が言説として力を失ったということ以上に、その敵となる既得権益、攻撃対象となるはずの当の男が、闘う価値なしの「フニャチン」「へたれ」になってしまったからではないだろうか。男に詰め寄ってもそいつがファルスを持っていなかったのでは意味がないのである。

最近でも「絶望先生」のハーレム状態(反転した紅一点)はまだいいようなもので、アニメでは、男がどんどん駆逐されているのである。男キャラがいないのだ。
アニメでなくても男(モテ男以外)がテレビからどんどんいなくなっているのは、興味深い。女が活躍し、男は遠い目をして優しげに彼女たちを見守るタキシード仮面(仮面をつけて美少年のふりをしよう)になる時代なのである。


フロイトによれば、男にはみな原始社会ですべての富と女を独占していた享楽的な「原父」を殺害したという「前科」を背負っている。しかしラカン精神分析では、この肝心の享楽は女性の領分になる。男は到達し得ない域の、無限の享楽を女性達は手にしているのである。
それに対して殺害した当の男たちはいまだ原父、あるいは彼を殺した罪悪感に萎縮してしまっている。インポテンツになってしまった。結果的に我々男は原父に逆らえなかったのである。


今や男性ではなく、あまりある自己のファルスを振り回してモンスターと果敢に闘う羽目になっているのは女性なのである。そしてもちろん、彼女ら戦士が握るファルスとは、「弱い男」(もてない男たち)のフニャチンではダメなのである。原父のような豪傑、「強い男」(モテ男)のモノでないとならない。


この「強い男」(モテ男)の優性思想を、現代の科学が後押しする。
精子バンクである。
未婚化晩婚化が進む一方であるから、日本でもそのうち、結婚したくなるような「勇者」と巡り会えないけれど、自分が「勇者」となって子どもを生み育てようと考える女性の増加していくかもしれない。
その勇者が身ごもるのは当然、勇者にふさわしい父の子ではならない。それはそんじょそこらのザコキャラの遺伝子ではならないのだ。そんなとき、彼女らがめくるのは「強い男」から抽出された、精子カタログだろう。

つまり、紅一点社会が解消され、強い女性が強い男を選び、強い男だけが遺伝子を残すことを許され、強い男の強い子どもだけが街を闊歩する時代が到来するのではないだろうか
その時代、我々「弱い男」の遺伝子は、せいぜいティッシュの中で死に絶えるのがオチなのである。



イマダ