moso magazine Issue 11――今週の「エッセイ」

まだまだ挫折がたりねぇ!


胃袋が縮こまるほどにつらいことが起きた時、あなたはそれに対してどう対処するだろう。私は自分がそうなったときはいつも、「少年マンガ弁証法」という方法(といっても私が名付けたのだが)をひとつの処方箋にしている。


少年マンガはその空間特有の弁証法、名付けて「少年マンガ弁証法」で駆動している世界ではないだろうか、と私は思っている。
弁証法とは要するに、真理(正)とそれと矛盾する真理(反)が争った末に、それらを統合して構成されたより高次の真理(合)が現れてくる。その古い真理を土台に新しい真理が生まれるという運動を繰り返えしていくことで、最終的に揺るぎない真理(絶対知)に到達しようとする哲学の方法である。
実はこれが、少年マンガの世界とかなり符合するのである。ここではジャンプ少年マンガの中でも、最も有名な作品の「ドラゴンボール」を例に見てみよう。


ドラゴンボールのあらすじをかいつまんで解説すると、そもそもは7つすべてを集めるとどんな願い事でもひとつ叶えてくれる神龍(シェンロン)を呼び出すためにドラゴンボールという玉を探す、孫悟空という少年の冒険活劇であった。しかしその後、孫悟空の目的は天下一武道会優勝、地球を救うこと、宇宙を救うこと、(天界を含む)全世界を救うことと、どんどんその規模を拡大していく。
その過程で孫悟空は、宇宙から地球を侵略しにきた実の兄ラディッツによって、自分が実は地球人、つまり人間ではなく生まれてまもなく地球に送り込まれたサイヤ人という宇宙人であるという真相が明かされる。


戦闘民族であるこのサイヤ人には「死をのり超えれば強さが増す」という特性がある。
このサイヤ人の特性と自らの肉体を鍛え上げる修行で、悟空は一度は負けるという経験を経ながらも、ラディッツに始まり、ベジータフリーザ、セル、魔人ブウという次々と登場してくる敵キャラクターを倒していく。そして彼ら敵キャラクターはラディッツベジータフリーザ<セル<魔人ブウというぐあいに次第に強くなっていき、悟空を含む味方のキャラ達もそれにあわせてパワーアップしていく。これが典型的な「少年マンガ弁証法」なのである。


重要なのは、悟空が強くなるには敵の存在が必要不可欠であるということだ。悟空一人が存在しても、彼は強くならない。彼が強くなるためには、現状の悟空(正)の前に、彼と敵対するキャラという障害(反)があらわれることが必要であり、彼らは悟空をピンチに追い込むが、最終的にはそれをきっかけにパワーアップ(合)した悟空が勝利をおさめるのである*1


ドラゴンボールの限らず少年マンガのキャラクターはみな、個々の弁証法的な発展段階を持っている。ドラゴンボールでは、味方のみならず、敵キャラのフリーザが四段階の、セルが三段階の発展段階をもっている。そのとき当然、彼らにとっての反、つまり進化のきっかけとなるのは悟空をはじめとする、善玉キャラクターという他者である。このように「少年マンガ弁証法」とは、キャラクターそれぞれにとっての、いわば私的な弁証法であるともいえる。


私たちは、少年マンガのキャラクターではない。
しかし実生活においては、この「少年マンガ弁証法」を持つべきなのではないだろうか。
我々が日々遭遇する挫折の経験(家族の死、失恋、失業、天変地異etc)はあまりにもつらい。しんどい。泣きたくなる。私たちの現実はこのように、日常(正)に挫折(反)が降りかかってくるということの繰り返しではないだろうか。
そして、その挫折を乗り越えた先にあって欲しいのは、否定の否定、つまり元通りの日常(正)だろうか。
すくなくとも私は違う。
その挫折を経たことで、どこか「新しく強い自分」を探している。
もっと強靭な精神力を手に入れることができるのではないだろうか、それを超えたさきで人間として一皮向けるのではないだろうか、そして新しい希望に出会えるのではないだろうか、と期待している(落ち込んではいるが)。
それは単なる願望かもしれない。しかし、そうでも思わないと人生やってられないのである。


しかし、この「少年マンガ弁証法」的な人生は生半可な気持ちでは全うできないこともたしかだ。
この止揚としての挫折を克服するということは、言うほどにたやすいことではないのである。なぜならそれなりの挫折を一度味あわなければならないからだ。肉体的にも精神的にもズタズタにされるかもしれない。どうしょうもないぐらいに落ち込むかもしれない。何しろ、サイヤ人がパワーアップするときは、「死をのり超えれ」る、つまり生きるか死ぬかの瀕死の状態から回復という前提があるのだから。
また、その後に人間として強くなるという意味での止揚が、予定調和と化していたらどうだろう。つまり功利主義的に、この挫折を経れば自分は強くなれるという約束手形に導かれて「挫折」することは、はたして許されるのだろうか。
当たり前だが、「予定調和の挫折」など挫折ではないのである。だから、その向こうに人間的な成長も望めないのではないだろうか*2。予期せぬ方向から襲いかかる、破壊的な不幸や挫折に直撃して、それに十二分に挫折しきることこそが、希望への架橋としての挫折なのではないだろうか。


そしてもう1つ忘れてはならないのは、この「少年マンガ弁証法」的な生き方は、それまで経てきたすべての挫折と絶望の経験が不可避的に連関しているということである。たとえばドラゴンボールでは、べジータフリーザもセルも、その他みなが現れ、悟空の生命を脅かし彼がパワーアップしていなければ、悟空はきっと最終的に最も強い敵キャラ、魔人ブウを倒すことはできなかったはずなのである。彼らは、幾多の人間を殺した憎むべき存在であるが、最終的な悟空の強さは間違いなく彼らとの連帯なのである。


現実社会でこれはどういうことだろう。
私たちにはそれぞれ、思い出すのも耐え難い出来事があり、その記憶をできるだけ遠ざけたいと考えがちであるが、実はそれらトラウマ的経験こそが自分の一つの核になっているのではないだろうか。そして、これは先に書いた私的な弁証法の話にもつながってくる。その挫折という反は、その人一人きりならばたしかに単なる反ではあるが、もしかしてその向こうで、実は他の具体的な他者の弁証法の反につながっているかもしれない。そのとき、その相手とは悲劇的な挫折を共有して、そのときは分かり合えないかもしれない。しかしいつか、また幾多の挫折を経た後の高次の弁証法でまた、その人ともっといい形で巡り会えるかもしれないのではないだろうか。
私はそういう希望を信じたい。


ではその「少年マンガ弁証法」を駆動させるもの、何を拠り所にして私たちは絶望、挫折を乗り越えていけばいいのだろうか。
ここで小谷野敦が『評論家入門』の中で、精神的苦痛の耐え方と題した箇所で引いている梅原猛の言葉を孫引きしたい。

「戦いは、一人で、全く一人でしなければならぬ。もし真理が味方であるならば、それにもまして強い味方はないではないか」

この言葉が私は好きだ。
どんなに辛いことがあろうと、真理さえ味方にいれば一人でも邁進できるのである。
落ち込んだときにこの箇所を読むと、不思議と力がみなぎってくるのである。
ここで実際に梅原が真理としているものが何か、それは定かではないが、私はここを読んだときいつも想定している真理とは、外部にある普遍的な何者かではなくむしろ、極私的で自己に内在化していて、どつぼにはまった状況をなんとか克服しようとする「意地」である(ずいぶん勝手な解釈ではあるが)。


私が標榜する「少年マンガ弁証法」の原動力となり、挫折を止揚するのは「意地」、いわば「やけくそ」の力だと思う。
どんなに辛かろうと、どんなに顔面が涙と鼻水で汚れようと、「まだまだ挫折がたりねぇ!」と、やけくそになって挫折というアンチテーゼを飲み込んでいくこと。


理性的ではない。
本当につらいときにこそ、「意地」によって駆動するのが「少年マンガ弁証法」なのだと私は思う。


イマダ

*1:そう考えると、萌える男こと本田透の態度はあまりにも非倫理的であるということが分かる。彼は三次元の対人恋愛から二次元への退避を呼びかけているが、異性との恋愛(戦闘)と逃げ続ける限り、我々の戦闘能力は上がらない。
本田いわば、二次元に充足している限り永久に、地球さえ満足に守れないただの「人間」孫悟空のままなのである。

*2:ドラゴンボールにて、悟空のライバルであるベジータは一度、「死を乗り越えたら強さが増す」というサイヤ人の特性を利用して、パワーアップすることを画策し、「意図的に」瀕死の状態になり即座に回復して利用して、フリーザに挑むが、あえなく敗北した。