moso magazine Issue 12―― 失われた言霊シリーズ―1



はじめに


今回はかつて、あるブログに載っけていた文章を加筆修正する形で記事を書きたいと思います。詳しくは述べませんが、つい先々月までそのブログでは、志ある若者達が文章を書き、日々アップするという営みを続けていました。時には書くことがないという嘆きが聞こえたり、時にはコメント欄で喧々諤々と熱い議論を交わされたりと、いろいろあったそのブログは、彼らの「戦いの記録」として、記念碑的な存在として、これからも存在し続けるはずでした。
しかし、ある日その若者達の「汗と涙の記録」は、心ない者によって「全焼」してしまったのです。その心ない何者かは結局特定されることなく、僕たちの前にはただその焼け跡だけが残ってしまいました・・・。


幸い、僕の記事はすべて保存しておいたので、完全に葬られたわけではありません。しかし、データに残っているからといって、それらの記事、もっといえばその記事で語っている「私」という一人称の男が報われるわけではありません。もちろんこのブログもそうなのですが、記事の中で「私」と名乗っている男は、誰かに読まれることを前提として語りかけているわけです。しかし、今回の一件でその「私」の読んでもらいたいという希望は一旦絶たれました。闇に葬られたのです。


今も夜な夜な聞こえてくる、フォルダに押し込められたファイルの霊たちの「読んで・・・読んで・・・」という悲痛な叫び・・・なんてものは幸いありませんが、それでも書いた当のイマダとしては、誰かに読んでもらうことを前提にした文章が、フォルダに格納されているのは忍びないのです。
そこで今回「失われた言霊シリーズ」と題しまして(やっぱり霊なんかいっ!)、新たな内容も追加してここでご披露したいと思います。


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―私は前々からにらんでいた。
サッカー元日本代表の武田修宏には、まだ別の「ポテンシャル」があると・・・。


彼の何のくすみもない笑顔。ハンサムな彼の、その真っ白な歯がまぶしいほどのあの笑顔。私にとっての彼の印象はあの笑顔である、というかあれしかない。
私の人生経験上、常日頃からあそこまで桜満開な笑顔を咲かしている人間には二通りのタイプがいるということがわかっている。1つ目は、そのまぶしい笑顔の下に、顔だけでも笑っていないとこぼれ出てしまう恐れがあるほどの邪悪な思惑を隠し持っている人間。要するに本当は腹黒い奴だ。
そしてもう1つ、桜満開な笑顔の裏に「な〜んも入ってましぇん!」というタイプがいる。要するに例の「2文字のアレ」な人である。


当の武田を、私は断然後者だと考えていた。こればかりはどう見分けるというコツなんてなく、私の「本能」としかいえないのだがそれでも彼が例の「2文字のアレ」であるという確信があった。私には彼のあの笑顔は、パカッ!とワンタッチで簡単に開いて、その中には一言、例の「2文字のアレ」が書かれている、という確信があったのである。
だから、私は前々から内心で「早く彼のふたを開けてくれ!誰か早く彼のキャラを覚醒させてあげてくれ!」と願っていたのである。そしてついに、昨夜その願いは叶えられた。叶えてくれたのは「めちゃイケ」。恒例の期末テストでついに彼は覚醒したのである。


こういう風に書くと非常に嫌味っぽくなってしまうが、私は本当に彼を尊敬しているのである(こんな風に書くと、余計に嫌味っぽくなっちゃうのはなんでだろうね?)。


試験に点線のアルファベットを「なぞる」という前代未聞の問題が出る高校で、しかもその問題に間違った(どうやって!?)ココリコ遠藤とのドンケツを決める一騎打ちの結果敗れた後、武田は「参ったなぁ〜」と頭を抱えながら、それでもあの快活な笑顔を忘れなかった。ふつうなら、本気でへこむ場面である。いや、人間としてへこまなければいけない場面である。しかし、それでも彼はあの笑顔を忘れなかった。
私は、武田のあのどんな時も絶やさない笑顔に、彼の度量の深さを思い知るのである。同じ男として、その男気に惚れるのである。同じ男として、あのような逸材になりたいと思うのだ。彼はルックスもいいが、あの何でも受け止めてしまう底なしの度量がある。だからもてるのではないだろうか。


彼のそんな雰囲気は、「不倫は文化だ」で一躍「女の敵」というポジションを確立してしまった石田純一に重なるところがある。
両者に対して思うことなのだが、「女好き」、「プレーボーイ」というイメージはぷんぷんするのに、当の相手となる女性自身は決して酷い目にあわせていない、むしろ付き合っている間は幸せだったと断言させることが彼らにはできるのではないかと、私には思えてならない。
「外人バー」に行くかもしれないし、浮気もするかもしれないが、それらが発覚した後に怒りにくれる彼女も、武田に「ごめんよ〜」と困ったようなハニカミをみせられれば、「まあ今回は、許してやっか!」という気持ちになるのではないだろうか。
そんな女性の母性本能をコチョコチョくすぐってしまう個性が、昨夜三つ星バカを受賞してしまった武田には感じられるのである(私は男なのだから、本当のところどうだかは知らないが)。


さて、昨日の武田のごとく昨今この「おバカちゃん」と呼ばれる属性のタレントが、テレビで猛威を振るっている。彼らは、まえからいた「天然系」とはひと味違う。ジミー大西ガッツ石松といった天然系はその「一撃」が凄まじい反面、その天然っぷりはいつ爆発するのかわからないため、我々観衆はそれをじっくりと待つことが要求されていた。


それに対して、最近の「おバカちゃん」に対するあり方は容赦ない。
前の天然系のように、彼らが自ら熟成して天然っぷりを発揮するのを待つことなく、一般常識などの問題を彼らに積極的に与え、彼らから頓珍漢な答えを無理矢理引き出しているような、印象を与える。
前のが天然ものであるなら、これはさしずめ養殖である。


そんな養殖を「市場」として確立させたのは、例の「クイズ!ヘキサゴン2」であるのは、間違いないだろう。
今まで(ヘキサゴン以前)のクイズ番組を見るとき、私たち視聴者はとるべき態度というものが決められていた。いや、とらざるをえない作法があったというべきか。問題文を聞いて、その卑小な脳ミソで答えを探し出し、内心ではヒヤヒヤしながらも答えを案出できるや否や、「こんなの簡単!」とうそぶきながら、たとえ一人で見ていたとしても解答をボソリと呟くのである。それがもし正解であったとすれば、ささやかながらもナルシシズムが満たされる。


しかし、この作法は「クイズ!ヘキサゴン2」には通用しない。いやむしろ、この番組に対してそんな作法を取ること自体が「不正解」、不健全なのである。
これを私たちの人生そのものに置き換えてみたらどうだろう。
日常において正解を積み重ねることで、我々がなりたいのは今週の得点王(人生の成功者)である。しかしその人生という問題文が読み上げられる途中で、その問題のそれほど面白いものではない正解に気づいてしまった回答者にとっては(おそらく相当得点の低い問題だろう)、もはや正解を答える意義など見出せるだろうか。たとえそこでバカ正直に正解を叫ぼうが、得られるのはスタッフによるまばらで乾いた拍手と、両隣の回答者による「そんなのわかってたよ!」「なぜ、答えなんて答えた!」という無言の圧力だけだ。
そう、「なぜ、答えなんて答えた!」なのである。同語反復的だが、結局そういうことなのだ。正解することにどれほどの意味があるのだろう?不正解であることにどれほど落ち込む意味があるのだろう?それすら私たちは分からなくなってきている。


常日頃から、松本人志は従来型のクイズ番組を批判して次のようなことを言う。

「俺は正解のある問題に答えたいわけではない。正解のない問題に答えていきたい」

彼にとって正解のない問題とはお笑いである。それに対して、私たち一般人には正解がない問題どころか、解答権、問題文その他諸々が与えられているのかどうかさえ疑わしい。

ここまでヘキサゴン的ノリ(=バカのバカさ加減を楽しむこと)が流行ったとしても、まだそれを観る私たちにはそれをどこか楽しめないでいる、「疚しさ」のようなものが残る。さしずめそれは、泥レス(泥んこプロレス)に対しての態度にも似ているのである。

泥レスが繰り広げられているリングの外で、その饗宴を見ている私たちは激しくそれを嫌悪するだろう。そんなものには参加したくない。自前の服を着ているのであればなおさらである。しかし、現に泥レスに参加している人々にも、かつては同じような躊躇はあったはずである。
何が彼らを能動的に参加させているかというとそれは、「もうすでに汚れた」という事実である。


だが、もともとリング外で見ている我々と彼らの間に何の違いがあるだろうか。染みひとつない真っ白のTシャツ(自尊心)を着ているわけでもない。そんなTシャツ、とうの昔に汚されてしまっている私たちに、今更汚されることを嫌悪する口実など見当たらない。十二分に汚れることを楽しむ「権利」と「義務」があるのである。
「バカが感染る」という決まり文句があるが、私たちは進んで「バカを感染されたい」と思うレベルにまで来ている。


イマダ