moso magazine Issue 13―― 失われた言霊シリーズ―2



次いってみよ〜!(いかりや長介)ということで、失われた言霊シリーズ第二弾でございます。前回は加筆修正と書きながら、加筆しているうちに原型がほとんどなくなって、結局は前日にあったことを書いた形になってしまったので、今回はほぼ原型のままお披露目します。
今回のエントリーに少々解説をさせていただきますと、これはもはや過去の話題と化してしまった倖田來未の失言問題が一番加熱したときに書いた文章です。柄にもなく少々社会正義ぶったことを書いていますがこれには書いた当時、イマダ自身がいろいろなことから追い込まれていた状況が反映されたということがいえると思えます。
なにぶんストレスフルな時期だったんですね。


それで、そのいろいろなことというのは、だいたいがパソコンに向かってする作業だったんですが、ご存知の方もいると思いますが、僕の部屋はいまネットが繋がっていないんです。そんな中家でパソコン叩きながらする「ながら娯楽」というのはテレビを消音にしておくぐらいしかないんです。
そんなテレビを平日の昼下がりにつけていたら、まあ、この失言の話題が多いこと!
ストレスが溜まっていた上、それを紛らわす頼みの綱だったテレビでさえ、こんなくだらない話が繰り返されていたので、


「羊水、羊水って、おめぇらっ!アンドレ・カンドレの時代から聴いてんのかっ!」
(このギャグがわからない人は調べてみよう!)


と、衝動的に叫びたくなったんですね。
だから、この文章は僕の1つの症状という側面もあります。
最初に書いたときのタイトルには<緊急投稿>と頭につけていますが、この投稿がいったい誰にとって緊急だったのか。それは読み手にとってではなく、紛れもなく僕自身にとって緊急だったんですね。


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たとえ彼女のアルバムが路地に落ちていたって拾って持ち帰りはしません。うちに帰ったらすでにコンポにディスクが乗っかっていて、あとはプレイボタンを押すだけだとしても聴こうとは思いません。「一万円払うから聴いて」と頼まれてようやく聴くぐらいです。僕にとって倖田來未ってそんな存在です。

だから、今回の「腐った羊水」発言、彼女を擁護するとかそんなんじゃないんです。そうではなくて、そんな失言した彼女よりも鬼の首をとったみたいにそれをとりあげる社会の方が、数倍バカらしいと感じてくると、怒りがこみ上げてきて今回は緊急投稿させていただきます。


「バカは死んでも治らないからほっとけよ」、とみなさんは思われているかもしれません。でも最近その「バカはほっとこう」という考え方が少々流行りすぎているせいなのか、バカ陣営も開き直って十二分にそのバカさをまき散らしているような気がしてならないんです。僕はそういう事態を考慮して、やっぱりバカは叩かなければならん、駆逐しなければならん、と思ってしまうタチの人間です。だから書きます。


失言報道のプロセスって、あの「生む機械発言」以来、定式化されてると思う。
まず、その失言内容がいかにおぞましいものかを煽る。そして、それがネットで話題になっているという事実(失言者のブログが炎上しているのであれば、なおよし)を報道して、社会的関心事になっていることを強調。さらには銀座、新橋辺りで街頭インタビューをして、通りすがりの人にほぼ無理やりその失言の是非の選択を迫る。そこでだいたい「失言反対派」の意見を取り上げて、スタジオに映像が戻ると、キャスターがとどめの一言「言葉の重みを考えて発言して欲しいですね」でフィニッシュ!(こういうのって決まって朝の番組のキャスターのが一番腹立つのはなんでだろうね?)


確かに、彼女のこの発言で本当に傷ついた人もいるでしょう。
だけど、その人たちも気がついて欲しい。あなたがその「腐った羊水」発言にたどり着いたのは、誰のせいだろう。もちろんはじめから倖田がそんなこと言わなけりゃよかったんだけど、それに火をつけたのは紛れもなく2ちゃんねらーやネットの住人だし、そしてそれをさらに広めているのは、「報道の自由」を片手にやっているマスコミですよ。


「指を見るな月を見ろ」という言葉があるけれど、最近の失言報道に関しては、逆だと僕は思う。

「月を見るな指を見ろ」
失言そのものよりも、失言を大げさにして取り上げている輩を注目してみよう、ということ。そうした輩が何をしたいかっていうと、結局は話題づくりなわけだ。そんなのに踊らされて言葉尻一つに目頭たてるほど、こちとら暇ではありません。


だいたい公共の電波であろうとなかろうと、何から何まで言葉には重みがあると考えている、「言葉の重み主義」を僕は信じていない。
重みのある言葉があるのであれば、軽い言葉もあるはずでしょ。
むしろ、軽い言葉が蔓延しているからこそ、いざというときの「重みのある言葉」が活きてくるんじゃないか?


例えば、いつもは「ホッホッホッ」と微笑んでるだけの安西先生だからこそ、「諦めたら、そこで試合終了だよ」という「重みのある言葉」が、三井寿の心に響いたわけだ。
ダチョウ倶楽部で一番怖いのは、キレキャラの竜ちゃんでも、暑苦しくてテンションの高い寺門でもなくて、いつもはニコニコしていて軽そうなリーダー肥後だっていうのを聞いたことがある。彼が静かに切れる時が一番怖いらしい。
それは「普段は軽いのに」っていう事実があることで、メリハリが十分効いてるからなんじゃないか。


今回の倖田來未の失言の現場となったのは、ラジオのフリートーク
フリートークというのは、文字通り自由にウダウダ内容のないことを喋っていい環境の最たるものであって、そんなトークにまで「言葉の重み」を求めるのは少々お門違いの気がする(もっとも、フリートークでなくたってあんなちゃらんぽらんねえちゃんの言葉に「重み」を感じながら聞いてるやつなんてこの世にいるんだろうか)。


はっきりいえばね、こんなちっぽけなことで「言葉の重み」とかをすぐ口にしちゃうやつの言葉が一番軽いよね。


それともこういうことだろうか。「言葉の重み」を信じている人たちは、マスコミは常に正しいこと、正論を言わなければならない場所だと思ってるのだろうか?
確かに、ただ正論だけを吐いていたらいいとか思っている輩も世の中にはいるらしい。
正論っていうのは「正しいこと」ということだけど、正しいことって考え方を変えれば、「誰でも知っていて、言っても何も変わらないこと」であるわけさ。


「それも知ってるよ」と言われればそれまでだけど、「言っても何も変わらない」ということを知っていてもなお正論にしがみついているのならば、もはやその人のやっていることは欺瞞以外の何者でもないと思う。


反対に糞詰まりな状況にがらりと変化をもたらすのは異論とか暴論なわけで、それらによって世界が、社会が変わった後に、ようやくそれら異論・暴論は正論に登録されるわけだ(正論になったのを見計らってコッソリとそれを自分の価値観に取り込もうとするずるい奴らもいるんだけども)。


たしかに今回の倖田の暴論は何にも意味はなかったし、何よりもつまんなかった。その点で彼女は叩かれてしかるべきところもある。


そして今までだって異論・暴論は抑圧されてきた。
でもそういう抑圧があるのは当然のことで、むしろ抑圧があってこその異論・暴論だし、さらにはその抑圧を乗り越えようとしてこその異論・暴論だからね。
でも、倖田と同じ時期にどっかのお偉いさんが講演でデイトレーダーをバカ呼ばわりしたことがすぐに話題になり批判されて、すぐに謝罪していた。
みんな、どこかでデイトレーダーのように目先の利益に踊らされてる投資家は、ちょっとぐらいバカ呼ばわりされてもいいはずだと内心では思っていたとしても、今の時代は異論や暴論だと、その内容が吟味されることもなく即、訂正や謝罪に追い込まれる。


だから近年ネット上やマスコミを舞台に行われている失言や異論・暴論への「叩き」は、抑圧ではない。単なる駆除です。
これは本当にまずいと思う。要するに正論=つまんないことしか言っちゃダメになりつつあるんでしょ?
一種のビョーキだと思う。



イマダ