moso magazine Issue 14―― 失われた言霊シリーズ―3



「大家族もの」のドキュメンタリーが定期的に放送されます。
僕はそんなに興味ないんですが、昨日の奄美大島の12人家族の特番、「痛快!ビックダディ」というシリーズの番宣用に昼間放送された、過去の回の再放送を何の気なしに視ていました。
その家族は、なんと11人の子供を生んだ後にお母さんが離婚して出て行ってしまったらしいんです。出て行かれた後、お父さん(通称ビックダディ)が男手1つで子供たちを育てきたそうなのですが、その番組のさらに過去の回を目にした元妻つまりお母さんが、なんと8年ぶりに家族のもとを訪れるという回でした。


突然のことですし、ビックダディは当然怒ります。大激怒です。ただ離婚しただけでなく、何よりも11人もの子供をほっぽり出してでていった人です。それは腹が立ちます。ビックダディ、お母さんの話をまともに取り合わず、外に出て行ってしまいます。これは彼のポリシーらしいのですが、「家族でない異性が同じ屋根の下で寝食をともにしてはならない」ということを決めているそうで、今や赤の他人となってしまったお母さんとは一緒には寝られない。ですから、もう日が暮れて真っ暗の中、枕とふとんを抱えて近所にある公民館に行ってしまいました。
お母さんは追いかけます。公民館の板の間で、二人っきりになって(もちろんカメラはありますが)話しこみます。お母さんはもう一度みんなと暮らしたがっているんですね。
怒りはおさまったもののビッグダディ、8年間のつもり積もったものを吐き出します。恨み節が炸裂です。もちろん同居の申し出も完全に拒否します。


それがどうした?と思われるかもしれませんが、実はこの再放送の間中、ずっと同じテロップ(文字)が場面の右上に表示されていたんですね。夜に放送されるオリジナルの宣伝のための再放送の番組なので、本放送時には存在しなかったあらすじがテロップの形で表示されていたんですね。



「速報!元妻が12人目を妊娠・・・」
実はこの後に、そういう展開が待っているということなんです。



画面上で、当のビッグダディは「もう家族としては思えない」とか「お前にはもう振り回されたくない」とかを、とうとうと述べてお母さんの申し出を断っているんです。しかし、右上の「12人目を妊娠」という未来を予期する文字。
「結局やるんかいッ!」というツッコミどころです。


この現象で、ラカン精神分析における「現実界の知」の概念を思い出しました。
このテロップとあわせて視ることによって、ビックダディの拒絶反応がなんだか、単なる痴話げんかに見えてくるのだから不思議なものです。


その場では同居の結論を保留にして、お母さんにとりあえず数日間家族と一緒に過ごすんことを許可するんですが、案の定二回目の二人の話し合いでビックダディ、一回目ほど毅然とした態度では拒否しなくなっています。満更でもない、といった態度です。
このあと本編では12人目の妊娠の事実はナレーションによって唐突に伝えられるので、もし僕が本放送を見ていたならば、ぴんと来なかったと思います。これは再放送によって生まれた偶然の産物ですね。


僕はこの放送を視て、この夫婦(元夫婦)が本当に好き合ってるんだなということとともに、人間の性の「業」なるものの深さを垣間見た気がしました。お父さんとお母さんは、お父さんとお母さんである前に、やっぱり男と女なんですね。


恒例の「失われた言霊シリーズ」、いったいどこまで続くんでしょうか。
今回は第三弾です。
症候会議のもともとのコンセプトはジェンダーセクシュアリティ精神分析関連の本を読むことだったので、今回はセクシュアリティー関連のエントリーを引っ張り出してきました。
「好きなタイプ」のお話。
――――――――――――――――――――――――――――――――――


「タイプ」というのはあれです。
よくいう「好きなタイプ」です。
みんなよく話しますよね。自分の好きなタイプについて。
僕はこの「好きなタイプ」ってのが不思議だなと思うわけです。


例えば部分的なことを持ち出す人、いますよね。
料理上手な人が好きとか、手先の器用な人が好きとか、運転が上手い人が好きとか言う女の子がいます。こういうの聞いたとき、僕なんて「えっ、そんなんでいいの?」と思います。
それは例えるなら「検索ワード」が少なすぎる。それだけの条件ならいくらでも男がヒットしますよ。しかも、そういうのって絵になる人と絵にならない人がいて、料理ができるからってだれでもいいわけではない。料理上手な水野晴郎、手先の器用な水野晴郎、運転が上手い水野晴郎に言い寄られたとしても、拒みますでしょ?


僕が思うにね、そういうタイプというのはその人が過去に好きになった人の属性なんだと思うんです。その前例があるから、自分はその属性をもっている人が好きになるんだと思い込んでしまう。


あと次のようなおかしなことを言う人、いますよね。
「性格のいい人が好き」という人です。これもよくわからない。
僕の性格の悪さから生まれる僻みではありません。


僕に言わせれば、この世に性格のいい人なんていません。そして性格の悪い人もいないんですよ。第一「性格がいい」ってのは、「性格が悪い」ってのは、いったいどこで決まるんでしょう。誰だってよいところ、悪いところがあるでしょうよ。


犯罪者というのは性格が悪いのでしょうか?
例えば、大量殺人をした人間は間違いなく「悪人」ではありますが、その人が同時に「性格の悪い人間」ということは断言できない。もちろん犯罪行為と性格には相関があるでしょうが、犯罪心理学などで判定するのは、性格が正常か異常かであって、性格が良いか悪いかではない。僕らも、殺人事件の容疑者に対してもつ感情は、まず憎悪や恐怖でしょうけど、それは犯人が「性格が悪い」という判断とは地続きになっていない。


雨に打たれていた捨て犬を抱えて帰ってきた優しい少年も、夕食がケンタッキーフライドチキンだったら大喜び、そんなもんです。


「裏表がある人」という言葉ありますが、誰だってそりゃあるでしょ?
仮に裏表がない、表だけのマリア様みたいな人がいたとします。
大きな声では言えませんがそんな人、正直言って気持ち悪くありません?
それがなんでかを考えると、そういう人にはおそらく人間味人間臭さがないからなんですね。


人間味というものを感じるのは僕の場合は、例えば「背に腹は帰られん!」というのが見えた瞬間や、「建前」から「本音」がペロっと顔を覗かせた瞬間です。
そういう人間味が見つけることが出来たときこそ、僕らは「この人面白いな」とか「この人にもそういうとこもあるんだ」、と言う風に興味を持つことができるわけです。そこに同性異性は関係ありません。それがその人のイメージを崩すような多少醜い部分であろうとも、それが見れたことがうれしかったりするんじゃないでしょうか。表だけの人なんて、つまらないしやっぱり怖いですよ。


この性格の「いい」とか「悪い」という表現には、性格というものがなんだかまるでその人にもともと備わっている「性能」や「機能」であるかのような印象を受けます。
でも違いますよね。相手の性格というのは、相手の出力というよりも、実は相手のデータをあなたが入力した結果であったりします。相手の服装、センス、声とか、言い回し、身振り、そのときの筋肉の動き、その他諸々の微細な所まで、それらを総合したあなたの価値判断によって相手の性格の良し悪しは最後になって決まるのではないでしょうか。


つまり相手の「性格がいい」という属性は、ただ単にあなたに対してだけのことかもしれない。あなただけが感じる「幻想」かもしれない。だからそれを一般化することはできません。そういうのは「性格がいい」のではなくて、「あなたと性格が合う」というやつです。
でも「性格が合わない人」と付き合いたい人なんていないわけで、結局「性格がいい人」というタイプは、何も言っていないのと同じなんです。


すいません。「性格がいい人」というタイプの話で時間を食ってしまいました。こんなことをウジウジ書き連ねる僕は紛れもなく「性格の悪い人」です。
閑話休題


例えば、長身で、年上で、クールで、・・・と言う風に永遠に自分の「好きなタイプ」というものが述べることができるが女性がいたとします。それこそグレイシー柔術の関節技の数のごとく1000個ぐらいに。
それで、その1000個を全て兼ね備えた人を用意することができたとしても、彼女がその男を好きになるとは、限らない。


それは自分で把握していたタイプがまだまだ正確ではなかったというよりも、タイプを追い求めたって無駄だということだと思うんですよね。


第一「好きなタイプ」というのは重大なアポリアを抱えている言葉です。
よく考えてください?「好きになるタイプ」ですよ。でも人を好きになるその瞬間っていうのは、自分にだっていつ来るかわからない。好きになるのはある意味「意外」な展開なわけです。
最初は意外にも相手のことが気になってきて、その意外にも気になっていることに自分自身で気づいたことから緊張感が生まれてきて、なんだかドキドキしてきて、結局好きだということを自覚する。一目ぼれの場合はたぶん、好きになったあと自分の中で意外性を感じるのだと思います。
ふつうは「好きになる理由がわかってるから好きになる」人なんていませんよ。そしてそのいつ来るか分からない好きな人のタイプなんて、今すぐわかるわけないじゃないですか。
なんだかそれって矛盾しています。


じゃあなんで好きなタイプをみんながみんな持っているんだ?という疑問が湧いてきますよね。


それを僕は近代合理主義の問題だと思います。
恋愛は明治に入って西洋から輸入されて来たものだ、という説を小谷野敦さんは繰り返し懇々と否定されています。例えば遊郭などの「遊び」としての →[源氏物語」があるように恋愛が、近代以前にも存在したらしいんですね。
しかし、農村部いわゆるムラ社会ではどうだったかというと、赤松啓介の『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』を読むと全然様子が違ったみたいです。ムラ社会では精神的な恋愛を追い求め始める思春期までには、少年なら精通、少女ならば初潮を迎えることには、儀礼的にヤッていたらしいんです。
今からすれば、かなり即物的にです。


もちろんそのころも、セックスすることになる相手には他とは違う特別な感情、つまり「好き」という感情があったかもしれない。まず「生理的にムリ!」な相手とは、性器の結合なんかできませんもんね。
しかし、「好き」という感情があったとしても、「なんで好きなのか?」という答えのない問いに、前近代の人たちはあまり立ち止まらなかったのではないか、と僕は想像するのです。彼らには好きという感情はあったとしても、それを理詰めで追求なんかせずに、「まあ、そういうもんなんだろうな」で済ましていたのではないでしょうか。

それに対して近代以降の人間はだれしも、自分は動物ではなくて理性的な生き物なんだと思っている。
けれども「好きになる」というのは、科学がいくら進歩したって説明つかない答えのない現象ですよね。その領域では、まだ動物的な何かが自分の中で駆動しているように思えます。
でもやはり人はなんでも合理的な説明がつかないとダメなんですよ。結果には必ず原因があるものだと。
もちろん「好きになる」という「緊急事態」にも「誤差」や「不明」の欄があってはマズいわけなんです。それで生み出されたのが「好きなタイプ」という概念なんだと僕は思います。


でも、さっきの性格のところでも書きましたが、人っていうのは意外なところがいいわけです。それは他人に対してだけではなく、自分自身にだってそれまでは予想だにしなかった意外なところ、「タイプではない人を好きになる自分」がいるのもありだと思うんですよね。


だからね、僕が言いたいのは「もうさあ、そういうタイプに固執するのはやめようよ」ということなんです。話題としては面白いからいいんですけど、それにあまりにも固執しすぎるのは、なんか空しくないですか。



そろそろよろしいでしょうか?
さあ、みなさん思いっきりディスプレイの向こう側の僕に向かって、叫んでください。


「大きなお世話だっ!!」





イマダ