moso magazine Issue16――失われた言霊シリーズ―4


大学院の授業が大体夕方なので、酷い生活を送っています。
ワイドショーばっかり見てしまいます。ダメですね。もっと本を読まなきゃ。


都はるみの旦那さんが、4月の上旬に自殺されたそうです。
そんな彼女が今日、香川でコンサートがあったらしいのですが、二回公演の一回目と二回目の間に、「気丈にも」ワイドショーの記者達の囲み取材に答えていました。
ここでなぜ「気丈にも」に「 」をつけたのかというと、この「気丈にも」の部分がワイドショーって大好きなんですよね。まさに演歌的なモチーフでありますが、そういう他人の不幸はいつでも消費物に転化してしまいます。しかし、その気丈さを演出しているのは、下世話な好奇心とお金目当てで動いている当の自分たちであるということに、ワイドショーの人たちはもうすこし自覚的になった方がいいのではないでしょうか。


「シュレイディンガーの猫」のお話をご存じ?
量子力学に立ちふさがるある難問についてのたとえ話のようなもんなんですが、あるブラックボックスに一匹の猫が入れられています。ところが、困ったことにこの箱は開けた瞬間に、1/2の確立で内部に毒が充満して猫が死んでしまう仕組みになっているのです。これが何を意味するかというと、箱を開けて中の猫を見るという行為(分析対象の観察)自体が、猫(分析対象)に重大な変化を与えてしまうということなんです。
それでは、今現在箱の中に入っている猫がいったいどういう状態なのか、生きているのか死んでいるのかというのは、判別つかないことになります。つまり、このブラックボックスの中の猫は「半死半生の猫」になるわけです。


たしかにこれは、電子顕微鏡でないと見ることができない「量子」という微細な世界のたとえ話ではありますが、ワイドショーの取材陣やそれを見る僕たちが、その観察対象(=有名人)に勝手気ままに味付けをして、楽しんでいるということにも当てはまるのではないでしょうか。


人生のパートナーを、しかも自殺で失った直後に、その出来事の核心をそう親しくもない人間にさらさなければならないというのは、有名人ならではの「試練」だと思いますが、そういう「有名人だから」とか、下世話なワイドショー根性を「一周回って許す」ということは僕はできなくて、やっぱり「そっとしといたれよ」という、腹立たしさを感じてしまうわけです。「会社の経営がうまくいってなかったんでしょうかねぇ」とか、彼女に向かっていけしゃあしゃあと聞いてしまう、リポーターの無神経ぶりを、「こいつ頭おかしいんじゃねぇか?」と疑ってしまうわけです。


なんでこういうことを書いているかというと、
「僕だって結構まともなことも考えているんですよ」ということが言いたいからですよね。
いや、別にそれだけではないですが。


では、「失われた言霊シリーズ」第4弾。
今回は高校時代に感じたことから想起して、あのときどうしてこういう風に思ったんだろうということを、その感情の内実を深くえぐりながら叙述してみた記事です。オリジナルをUPしたときは、ちょっとした物議を醸してしまいました。

――――――――――――――――――――――――――――――――


松本紳助」を覚えていますか。もう数年前に終わった深夜のトーク番組ですが、今でも忘れられないエピソードがあります。どんな展開でそのような話題になったのかはもう忘れてしまいましたが、島田紳助がこんなことを言いました。


「知ってるか?警察署によう『シートベルトをしましょう』とか垂れ幕してはるけど、あんなんよりもまず『自殺はやめましょう』って垂れ幕したほうがよっぽど効果的やで」


要するに彼は、日本では交通事故による死亡者が毎年1万人(昨年は6000人ほどだったとか)だったのに対して、自殺者が3万人を超えるという事実を、彼なりのユーモアを交えてしゃべったわけなんです。
その事実を知らなかった僕はこの時、ものすごく怖くなったんです。
それまでバカみたいに笑いこけていたにもかかわらず、です。背筋が凍ったというのはあのことだと思います。みなさんもこの事実を知った時に「悲惨だ」とか「寂しい」という感想は持たれたかもしれませんが、僕みたいに恐怖を感じられた人はいるでしょうか。


あの時僕は、なぜそんなにも怖くなったのでしょうか。
紳助の表現よって、ことを必要以上に衝撃的に受け止めてしまっただけなのでしょうか。
それともただ単にその番組が深夜の怪談話の時間帯だったからでしょうか。


僕自身は、やはり自殺者3万人という事実自体に恐怖したのだと思います。
月並みな表現ですが、不注意や不運によって突然生を断念せざるを得なかった人々の三倍以上の人間が、自ら意図的に命を絶っている。
僕はそんな「彼ら」と彼らのいるこの国のことが怖かったのだと思うのです。


それでもまだ、謎が解けない。ではなぜ彼らが怖いのか?別に彼らは僕を道づれにして死のうとしているわけではない。毎日90人以上の彼らが僕の知らない時間、知らない場所で死んでいる。
自殺にはそれなりの理由や原因があり、大抵の人は恨み辛み、未練などをこの世に残して逝ったといわれます。僕はそれが怖かったのでしょうか。残念ですが、僕はそのような怪談の類を聞くのはめっぽう好きなのです。こればかりは僕の実感でしかないのですが、
僕の恐怖はそのように死者をオカルトや心霊現象という名の元に加工したことによってもたらされたものではないと思うのです。
では僕はなぜ彼らが怖かったのでしょうか。


それは彼らが僕にとっての「他者」だからだと思います。


他者はただの他人ではありません。
他者とは数多の学者たちによって使われ、その意味は人によって様々です。ある人にとっては「未開人」であり、ある人にとっては「女」という性であったりもします。人ではないかもしれない。とにかく、自己と根本的な部分で「異なるもの(者)」に対して用いる言葉、それが「他者」です。
そして、僕にとっての他者とはずばり、自殺した人々なのだと思うのです。
実際自殺した人が3万人ということは、死にきれなかった人も入れればもっといるということです。僕はそんな他者の存在が怖かったのだと思うのです。


「生きるか死ぬか」ということを普段、僕たちは考えないと思います。それほどまでに生きるという選択肢を選ぶのが自明なことであり、僕たちは常にそれを無意識のうちに選んでいます。YESかNOを選んでいく選択式診断でいえば、スタート地点の質問です。そこでNOと答える自殺者のことを僕は、僕と何光年も離れた場所にいる「他者」としか思えないのです。
自殺する理由は様々で、病気と貧困が多いそうですが、人それぞれに人それぞれの異なったプロセスがあったとしても、最終的に同じ自殺という道をたどるという意味で彼らは等しく僕にとって他者です。
そのような他者が3万人以上も一度はこの世に生を受けて、僕と同じ空気を吸っていた。もしかして、いつかどこかの街で僕は彼らとすれ違っていたのかもしれない・・・。
僕は紳助の話を聞いて、その事実に直感的に触れたことによって、怖くなったのだとあの頃を振り返ります。


僕は誇るべきか恥じるべきか分かりませんが、今までの人生で一度も自殺したいと考えたことがありません。しかし前回のコラムで書きましたが、別に幸せなわけでもありません。友達は少ないです。何かつらいことがあって「死にたいわ〜」とかはしょっちゅう口にします。もちろん本気ではありませんが。
ある時期、ある集団から激しいいじめを受けたこともあります(誰もが一度はひきうける損な役回りなのかもしれません)。そのときも死にたいと思うより先に、「なんでそんなことするの!?」と、いじめられながらいじめっ子たちに問いかけていたと思います。大抵それではやめてくれませんでしたが(それでやめてくれるような人ならば最初からやらないでしょうね)。
メメントモリ(死を想え)という言葉がありますが、死については考えるたりはします。しかし、それと自殺することはまだ千里の径庭があります。親が悲しむからでもありません。人がどう思うという次元の話ではなく、ただ単に自殺は僕の選択肢の中にないのです。


だからといって、自殺する人の気が知れないとか、弱い人間のやることだということが言いたいわけではありません。僕が言いたいのは、僕が彼らと根本の部分で分かり合えないだろうということです。ここでいう「分かり合えない」はその字義以上でも以下でもない。「分かり合えない」、ただそれだけ。だからこそ彼らは僕にとっての他者なのです。


それは善悪や精神力の話ではありません。価値観の問題です。


人間100人いれば、ものの考え方も100通りあると考えてもいいでしょう。
だから、政治的対立や思想的対立、右と左に別れての対立が生まれるのです。しかし、日々生活していると忘れがちになりますが、それでもみな根本のところで「生きている」という共通見解は一致しています。それはつまり、答えのない問い(生きる意味とは?真理とは何か?)について、その場に座して、考えをめぐらそうということについてのみは、私たちはどんなに対立した意見を持った同士でも、合意しているということなのです。
それに対して、自殺した人たちは、その場から立ち去るという選択をしてしまった。
この点において、自殺者した人たちと我々生者の間では、最もラディカルな部分での意見が別れてしまったといっていいと思うのです。しかも、彼らは僕らとその「分かり合えない部分」を分かり合えないまま逝ってしまった。そのことによって、彼らは僕にとって永遠に究極の他者になってしまったのです。


「死にたがっている人間を無理に止める必要はない」という、ある意味論理的で、ある意味不条理な論を展開する人がいますが、僕はそうは思いません。
自殺は阻止するべきです。
僕の愛する人が死のうとしているならば、間違いなく止めるでしょう。相手に「死にたい」と訴えられたって、「はい。そうですか」と納得なんかできはしない。


しかしその半面で、根本的な部分で彼らを引き止めることができないだろうというあきらめにも似た気持ちもあります。彼らの心情は、例えば大学をやめたがっている人、仕事を辞めたがっている人のその「やめたい気持ち」とは根本的に違うのではないかと思ってしまうのです。それらを思いとどまらせることと、自殺を思いとどまらせることは全く違うのではないでしょうか。
大学に通い続けること、働き続けること。それらは我慢して続ければいつか報われるかもしれません。大学は卒業することで就職できるでしょう。仕事も続けていれば給料が上がるでしょうし、いつかやりがいのある部署に配属されるかもしれません。
では、生きるということ自体に嫌気がさした人は、そこで踏みとどまったとしてもそのあと、何か報われるでしょうか。残酷なようですが、僕は難しいと思います。なぜなら生きることの目的は「生きること」そのものだからです。生きることのその次、生きることに「あがり」はないのですから。
したがって、自殺を阻止すべきでありながらも、それは「こちら側」の論理を「あちら側」、すなわち他者に押し付けていることにもなりうるのです。


今回ははっきりとした結論は思いつきません。
繰り返しになりますが、他者とは僕と根本的な部分で分かり合えない人々のことです。
僕の彼岸にいる彼らについて、僕がいくら考えをめぐらしたからといって、絶対的な正解は見いだせないと思うのです。


僕らができることはせいぜい、阻止すること。
それはつまり彼らの自殺を「迷惑がること」です。
それが今のところ僕らのできる唯一のささやかな応急処置といっていいでしょう。そしてもう1つ忘れてはならない大切なことは、僕らは僕らでその彼ら側の論理に吸い寄せられてはならないということです。


しかし、「死にたい」という彼らの衝動を根本的には食い止めることができないのは、ある意味「仕方がないこと」なのだと思います。


イマダ