あのエロ本、拾っとけばよかった。 後悔1日目

 
道端にエロ本が落ちているのを見掛けると、未だに心の昂揚を抑えられない自分が居る。ハタチを超えた今でこそ、持ち帰りたくなるほどの衝動に駆られることはなくなったが、それでも思わず立ち止まって中身を確認してしまうことがよくある。草むら、川べり、高架下、どことなくじめじめした場所でひっそりとたたずんでいるポルノグラフィたち。表紙の女性と目があった瞬間、心拍数は劇的に上昇する。なぜだ。


 新生活が始まるこの時期、古い“性”活とお別れする人たちの産業廃棄物(何も生んでいない場合が多いが)がこんもりとゴミ捨て場に盛られている、そんな4月。シチュエーションはこうだ。
 自転車で颯爽と路地を走っている途中、僕は道路脇に無造作に放られた雑誌を見つける。テロテロのセーラー服から胸をあらわにさせた小倉ありすが、こっちを向いて笑っている。彼女の頭上には黒のアウトラインに白地で一言、「淫らな女子高生は、好きですか?」。まず葛藤が始まる。「戻るか、戻らないか」。
 30mほど進んだ所で、とりあえず自転車を止める。不自然にならないよう、携帯電話にメールの着信があったフリをする。さて、どうしたものか。周りに誰も居ないかを確認する。人通り、車通りは少ない。歩行者が後ろに一人、居るくらいだ。少し時間を潰し、さも忘れ物でもしたかのように自転車を元来た方向へ向け直す。さぁ、本が落ちていた場所へと戻るのだ。
 この時、忘れずに用意しておきたいアイテムがある。それは「落し物」である。ハンカチでも何でも良い。「現場」にわざと落とすためのカモフラージュキットを、そっとカバンから出しておく。心拍数は、徐々に上がり続ける。
 ゆっくり、ゆっくり自転車をこぎながら待つこと数十秒、やっと歩行者が現場を通り過ぎる。さて、邪魔者は居なくなった。感動の再会だ。僕のかわいいかわいい小倉ありすは、雨に濡れた様子もなく、保存状態も良いようである。
 「拾うか、拾わないか」、答えは「決行」だ。が、ここですぐエロ本を拾ってはいけない。ダメだダメだ。これでは「エロ本を拾いに戻った」ことになってしまう。まずは「現場」を通り過ぎることが重要である。先ほど用意したハンカチをわざとらしくないように現場付近に落とし、また10mほど通り過ぎ、はっと、落し物をしたフリをする。そしてまた自転車を逆方向に向け、現場へ向かうわけだ。
 再再度、現場へ戻り、自転車を止めてしゃがみこむ。しめしめ、周りには誰も居ない。茶色のタータンチェックのハンカチを拾うと同時に、僕はそっと小倉ありすへ手を伸ばす。ああ、愛しのありすちゃん。この時点で心拍数は最高潮に達する。
本についた汚れを落とし、さっとカバンに入れる。何事も無かったような顔をして、自転車にまたがりつつも、心のドキドキはとまらない。走り出してしばらくは、自分の心臓が耳元で鳴っているかのような錯覚を覚えるほど、ドックンドックンと大きな振動が体に響く。
 任務…、完了だ。



 そしてふと気づく。ああ、自分はいったい誰に対して、こんなくそめんどくさい偽装を行っているのだろう。





 別に誰に見られているでもない路傍。エロ本など堂々と拾えば良いではないか。仮に見られたとして、何がどうなるというわけでもない。知り合いに見られた場合は話が別かもしれないが、そんな可能性なぞほとんどないだろうし、見られたからといって軽蔑されたりいじめられたりするような年齢、時勢でもないだろう。中学生じゃあるまいし。
とすると、やはり、前述のような偽装は、「自分自身」に対して行われていると考えざるをえない。

 そしてまた一つ、疑問が浮かぶ。道を歩けばエロ、テレビをつければエロ、インターネットにつなげはエロ、な時代であるにもかかわらず、なぜわざわざ、道に落ちているエロ本を拾うのか、ということだ。ムラムラしたのなら帰ってAVでもエロ動画でも見ればいいはずだし、もう18歳未満禁止!の文字に怯えることもない。にもかかわらず、どうして落ちているものを拾って持ち帰ろうとするまでの衝動が、湧き上がってくるのだろうか。

 その答えは、他者の欲望という概念にある。


 スラヴォイ・ジジェク著の『ラカンはこう読め!』に、


 

ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。(p.67『ラカンはこう読め!』)


とある。すなわち、欲望は自分自身のものではなく、他の誰かの欲望の使いまわし、繰り返し、あるいは相互補完だということだ。あるものを誰かが欲しがったとたん、急に自分もそれが欲しくなる、ということはよくある。あるテレビゲームを一人が買うと村中の同級生が買い揃えたり、中学生になった途端なぜだか黒のポロシャツが大流行したり、しなかっただろうか。滋賀県だけか? 別にゲーム、ポロシャツ、それ自体が欲しいわけじゃないんだけど、でも欲しい気持ち。それこそが他者の欲望である。
 エロメディアに話を移してみよう。すると、エロ本も、AVも、広くはグラビアアイドルも含めて、他者の欲望のオン・パレードであることが分かる。我々はモデルを撮影するカメラマンの欲望に同調して興奮するし、逆にカメラマンは読者の欲望そのものを追いながら被写体をフィルムに収める。「うわぁ、カメラマン、狙ってるなぁ。」と分かっても興奮が冷めないのは、それも含めて自分の欲望のように錯覚しているからだ。そうしてお互いの欲望を相互に補完しながら、エロメディアは脈々と続いていく。



 落ちたエロ本に話を戻そう。さて果たして、落ちたエロ本の正体は、一体なんなのだろうか?
 それは、「欲望の履歴書」であると、僕は考える。
エロ本が落ちているということ、それはすなわち「使用済み」であるということだ。一度誰かに欲望され、消費され、そして捨てられたという経緯を踏んでいるということこそが、落ちたエロ本の本質である。ただ単純にエロ本が欲しければ、買えばいい。前述の通り、AVでもなんでもいい。つまり、店頭に並んでいるエロ本と落ちているエロ本の違いは、一度でも消費されたか否か、にあるのだ。レンタルのAVのように何度もリアルタイムで欲望されているものではいけない。欲望が過ぎ去っていること、それが重要なのである。落ちたエロ本には、まさしくそれを消費した「男性の欲望そのもの」が歴々と残っているのだ。

 それをわざわざ拾ってまで求めるのは、やはり自分の興味がその「履歴」そのものにあるからに他ならない。エロ本に対して同じ「消費者」となってしまっては、自身もその他者の欲望に組み込まれてしまう。消費者の立場を逃れるためには、エロ本を、拾わねばならない。そうして「この本を買った人は、一体何を求めて買ったのだろう」「どのページに欲望を喚起されたんだろう」「どの女優に惹かれたんだろう」などと縦覧することで、他者の欲望、男性の欲望そのものを、知ろうとしているのである。



と、ここで気づく。あれ、男性の欲望そのものを知ろうとするって、女性のやることじゃないか?*1
 そうだ。女性がananやCamcan、JJ、non-noを読みながら行っている「モテカワ」「愛され」ムーブメントは、すなわち男性の欲望を知り、そこへとフレームインする作業であったはずである。「オトコノコって、こうされると喜ぶの」「オトコはこういう仕草に弱い」などの実践マニュアルとして、ファッション誌は君臨しているとばかり、思っていた。しかしそれが全く的を射ていないことは、最近読んだ『モテたい理由』にも散々書かれていた。もはや女性は男性の欲望を知ろうなどとしていない。
 そこにきて待ってましたの「落ちたエロ本」である。他者の欲望という大きな流れからポトリと落ちたこの履歴書にこそ、男性の真の欲望が、ありありと描かれているはずだ!どうやって小倉ありすが男性を魅了し、財布を開かせ、レジを通させたか、それこそが知るべき欲望なのではないか!でも悲しいかな、女性は一生、落ちているエロ本など拾わないだろう。
 そして、もう一つ悲しいことに、我々男性は、エロ本を拾う女など、好きになれない。
また、悲しみはさらに連鎖する。エロ本を拾って男の欲望を知りたがるのは、僕ような精神病者しかいないという事実。
 男女の欲望はかくのごとく、すれ違っていくのである。




 そういえば、実際に女性を好きになるときも、その人を通して男性の欲望そのものを見ようとしている場合がある。この女性が過去、そして今、どんな風に欲望された(る)のか、と。そして「ああ、この人の、これが良かったんだ。」と、気づく場合が多い。が、あれ…、とすると、「僕が好きになる女性=落ちたエロ本」ということになってしまうな。ああこんなこと、書かなければ良かった。
後悔した。


おおはし

*1:落ちたエロ本を拾う行為は、なんとも女性的な欲望によるものではないか。落ちた女性誌を拾って、「ああ、これを読んだ女性は、こういうことをしてキレイになっていくんだな、エヘヘ。」と想像する方がよっぽど男性的な欲望である。男性向けのエロ本を拾ってエヘヘとなっている自分は、かなりの倒錯者ということになる。