処女はやっぱり、目黒に限らなきゃよかった。 後悔2日目



処女幻想についての議論がWeb上でよく交わされている。「処女としか付き合いたくない。」「一度でも男性と関係を持った女なんて、汚らしくて好きになれない。」などなど。多少の誇張は混じりつつも「穢れ」への嫌悪が溢れんばかりに綴られているのを見ると、処女の持つ価値の高さを慮らずにいられない。
一度でも男性と関係を持った女性は、離婚ないし別れてフリーとなると(場合によってはならなくても)「中古女」という烙印を押されてしまうらしい。別段、その呼称について何か思うわけではないが、前回「女は欲望の履歴書だ」なんてことを言ってしまったこともあるので、それについて少し考える。


そもそもなぜ処女幻想なんてものが生まれるのか*1
童貞と処女の価値をめぐる一つの面白いコピペがある。

44 名前:佐賀県体育協会 投稿日:2006/10/21(土) 15:47:58 id:McCbbnWv0
処女は人気あるのに
童貞が人気ないのはおかしい

55 名前:佐賀県知事 投稿日:2006/10/21(土) 15:49:06 id:ACbTm9/m0
>>44
攻め込まれたことのない城と
攻め込んだことのない兵士
どっちが強いか

巧妙なレトリックだが、しかし説得力は素晴らしくある。攻め込んだことのない兵士をヘタレと一蹴するには都合の良い例えであり、城の堅牢さを「純潔」と結び付けるにも易しい。能動、受動の立場が勝手に決められてしまっていることへの批判はあろうが、それでも納得してしまう。
として、「中古女」は、「中古物件」になるということだ。過去、誰かがその「城主」となって開発した跡を、後釜となる人間は否応なしに見なければならない。「うわぁ、こんなところに馬小屋建ててるよ…。」や、「火薬庫、多っ!」などと、前城主の痕跡が目に付くたび、なんとなくいやーな気分になってしまうことは想像に難くない。だから中古女は嫌悪されるのである。住むなら新しい城が良い。断然処女の方が、価値が高いのである *2


だが、どうにもこうにも浮かんでは消えない疑問が一つある。果たして、前述のような価値観で処女幻想を抱いている人たちは、本当に処女を貴んでいるのだろうか?姦通されていないことにそれほどの価値を感じているのだろうか?
彼らのベクトルは、処女って素晴らしい!というポジティブなものよりも、むしろ穢れた女性への嫌悪、あるいは「女性と交わるだけで穢してしまう自分の性」に対する怒りへと向いているような気がする。


古典中の古典、有名な落語に『目黒のさんま』というものがある。Wikipediaよりあらすじ(といっても物語そのものだが)を転載しよう。

ある江戸の殿様が目黒まで遠乗りに出た際に、供が弁当を忘れて殿様一同腹をすかせているところに嗅いだことのない旨そうな匂いが漂ってきた。殿様が何の匂いかを聞くと、供は「この匂いは下衆庶民の食べる下衆魚、さんまというものを焼く匂いです。決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。殿様は、「たわけ! こんなときにそんなことを言っていられるか! さんまを持ってこい!」と言い、供にさんまを持ってこさせた。食べてみるととても美味しく、殿様はさんまが大好きになった。
それからというもの、殿様はさんまを食べたいと思うようになる。ある日、殿様の親族の集会で好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。殿様がさんまなど庶民が食べるような魚を食べるわけがないから、さんまなど置いていない。急いでさんまを買ってくる。
しかし、さんまを焼くと脂が多く出るので体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。こんな形では出せないので、碗の中に入れて出す。殿様はそのさんまがまずいので、「いずれで求めたさんまだ!」と聞く。「はい、日本橋魚河岸で求めてまいりました」
「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」

刺激的な物語に慣れ親しんでいる我々にはちょっとオチが弱く、面白さを理解するまでに時間がかかるかもしれない。とりあえず、お殿様の世間知らずぶり、家来とのすれ違いっぷりがこの物語の笑いどころである。


さてでは次に、ここに出てくる「さんま」を、「処女」に換えてみる。


ある江戸の殿様が目黒まで遠乗りに出た際に、供がオカズを忘れて一同悶々としているところに嗅いだことのない旨そうな匂いが漂ってきた。殿様が何の匂いかを聞くと、供は「この匂いは下衆庶民の『処女』というものの匂いです。決して殿のご趣味に合う物ではございません」と言う。殿様は、「たわけ! こんなときにそんなことを言っていられるか! 『処女』を持ってこい!」と言い、供に「処女」を持ってこさせた。食べてみるととても美味しく、殿様は「処女」が大好きになった。
それからというもの、殿様は「処女」を食べたいと思うようになる。ある日、殿様の親族の集会で好きなものが食べられるというので、殿様は「余は『処女』を所望する」と言う。殿様が「処女」など庶民が食べるような女を食べるわけがないから、「処女」など置いていない。急いで「処女」を買ってくる。
しかし、「処女」とすると血が多く出るので殿様に悪いということで処女膜を広げ、みすぼらしさが殿の心に障るといけないと着物を上等にすると、「処女」はグズグズになってしまう。このままでは出せないので、お化粧をして出す。殿様はその「処女」がまずいので、「いずれで求めた『処女』だ?」と聞く。「はい、日本橋魚河岸で求めてまいりました」
「ううむ。それはいかん。『処女』は目黒に限る」


いろんなところから石やら包丁やらが飛んで来そうな文章になったが、そうまでして言いたいことは何かというと、「彼らは処女を求めているのではなく、『目黒の処女』を求めているのだ!」ということだ。処女の持つ特性=「目黒的なもの」こそが、いわゆる「処女幻想」の肝なのであると。
殿様は、目黒で食べたさんまのことが忘れられない。日本橋魚河岸で食べても、築地で食べても、どこか違う気がする。なんだか得体の知れない「さんま」というものを食べて、満足したその感覚がどうにもこうにも戻ってこないのだ。たとえ世間知らずだと思われても、もう一度、目黒のさんまが食べたいのである。
そんな目黒でのさんまとの触れあいは、幼児期に得体の知れない母親という人物が、不快を取り除いてくれた経験に似ている。自分自身が汚らわしいものだと気づいてしまった今、屈託無く母親に不快を取り除いてもらうことは不可能、でも、たとえ世間知らずだと思われようとも、不快を取り除いて欲しい、というジレンマが、目黒的なものを求めさせる。

殿様が求めているのは、もはやさんまではない。「目黒の」を求めているのだ。
同じように、彼らが求めているのは、もはや処女ではない。「処女性」なのである。
処女かどうかは問題にならない。ただ、処女性を持つのが、処女なだけ、なのだ。
(もちろん逆に、処女であるにもかかわらず、処女性を持たない人は、いる。)


処女性は、男性の「自分は相手を穢れさせてしまう」という意識を取り除いてくれるものである。それは『受胎告知』のシーンで有名な、聖母マリアの「処女でありながら妊娠する」というイメージとぴったり重なる。穢れることなく、しかし行為は行われた、ということの証明が、聖母の存在だ。処女でありながら処女でない、その完成形がここにある。
では現実に、処女でありながら処女でない女性は存在するか?普通に考えて、いるはずはない。がしかし、そのレプリカ、処女ではないが処女性らしきものを持っている女性は、男性の要請に応えて存在してくれているのである。それは、「レイプや性的虐待などで処女では無くなってしまったが、処女性は保たれている」という描き方をされたヒロインたちだ。岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』がまず思い浮かび、近々では『恋空』が頭をよぎった。彼女らが魅力的なのは、もはや肉体的には処女でないにも関わらず、やはり前述のような処女性、目黒的なものを持っているからに他ならない。



中古女と処女性は両立するか?ということから、「新古女」という新しい価値を論じようと始めたのだが、結局全然別の話になってしまった。その話は次回にまわしたい。とすると、女性蔑視的な文章が初回から3度も続いてしまうことになる。
仕方ないと思いつつも、ああ、
後悔した。


おおはし

*1:処女の価値はその社会の「童貞含有率」に相関する、と、イマダ氏はmoso magazine Issue 1――処女崇拝の精神分析的解釈 - 症候会議Webで言っている。処女は処女であるだけで価値を持つような絶対的なものではなく、所望される欲望の数に応じて変化する相対的なものだ、とのこと。

*2:ただ、処女の城にも、築城者であり城主でもある「父親」が、どっしりと構えているかもしれない。城攻めはかくも難しいものなのである。