空飛ぶ円盤はいまどこに


こんにちは、症候ブログ初登場の松下です。今週から05世代から、新しい連載が始まります。題して『涙よ止まれ、今夜だけは』。泣き濡れた若者たちよ、今宵かぎりは涙を星に託そう。



僕が中学生か高校生のころまでは、毎週のように「UFO」や「超能力」や「UMA」を扱ったオカルト番組が放送されていたのだが、最近ではその分野もめっきり影を潜めてしまった。『特命リサーチ200X』と『矢追純一のUFO特番』と『Xファイル』を見て育った人間としては、寂しい限りである。


当時、「ナチスドイツが開発したUFOでヒトラーは極秘裏に地球外に逃亡した」とか「アポロ計画は実はアメリカ政府の捏造で、月面歩行の映像はスタンリー・キューブリック監修のもと制作された」とか「徳川家康が宇宙人と会ったという記録がある」とか、いかがわしいことこの上ない内容の番組が、まことしやかにどころではなく、何の違和感もなくゴールデンタイムで堂々と放映されていた。今にして思うと、若干異常な気もするが、衝撃的な内容で煽動するゴシップ的な魅力がある反面、この手の番組は視聴者に夢を与える教育的な番組という認識もあった。僕も小学校低学年のころ、NHK教育の『天才てれびくん』で「世界のオーパーツ」や「ムー大陸の真実」といった内容のコーナーがあったのが記憶に残っている。


もちろん、僕もこの手の番組を純真に信用していたわけではないが、それでもどこかで「本当だったら凄いのになぁ」と胸をときめかせていた。未知なるもの、未来や宇宙に対する好奇心を喚起させるという意味で、教育的な効果があるといえなくもないが、実際、オカルト番組を見て科学者を志したなどと言ったら、どこの研究所でも相手にしてもらえず、鼻であしらわれるのがオチだろう。それくらい、オカルト番組は実際の科学の現場から乖離してしまっていて、むしろ、宇宙人と交信しようとしたり、UFOを呼び寄せようとしたりと、虚構へ引き込む反教育的な要因になってしまうことの方が多いのは、なんとなく予想がつく。


だが、ほとんどの人はオカルト番組を見て、宇宙人と交信しようとはせず、ただ「本当だったら凄いのになぁ」というぼんやりした感覚を覚えながら、日常生活を送るのである。そこには「ノストラダムスの大予言」的な世紀末の空気があったのかもしれない。「宇宙人はいないかもしれないが、いないとは証明できない。いつか地球を侵略しにくるかもわからない」という仮定された終末感が、つねに日常生活のどこかについてまわっていたのだろう。


しかし、近年のオカルト番組の衰退からわかるのは、「スカイフィッシュ」だ「チュパカブラ*1だに一喜一憂している前に、もっと他に注意を払わなければいけないことがあるということに、現代人が気が付いてしまったということである。


2000年代初頭から急速に衰退したオカルト番組は、もっと身近な健康や自然をテーマに「まともな」科学をするという分野の番組に受け継がれている。
それは、1996年の放送開始当初は、UFOや超能力を主に特集していた『特命リサーチ200X』が、後期になると病気や自然災害をテーマとした事柄が取り上げられることが多くなっていたことに、如実に現れている。『たけしの本当は怖い家庭の医学』や『近未来予測テレビ ジギルとハイド』など、この手の番組では、日々普通に生活しているうちにも視聴者の身体に降り掛かるかもしれない現実的な危険についての科学的なレポートを紹介する。だが、『あるある大辞典』といった健康番組とは違い、どこかその紹介の仕方は、故意に視聴者の恐怖感を煽るように作られていて、以前のオカルト番組と空気感を同じくしており、直接的に両者が関係していることを伺わせる。
そもそも「オカルト(occult)」とは「目に見えない、触れることのできないこと」という意味だが、目に見えない、触れることもできないものは、まさにその特性ゆえにその存在を否定しきることはできないものであり、それゆえに様々な空想を喚起することができる。しかし、そもそも科学的なメスを入れることすらできない不可視なものよりは、少なくとも近くわれわれに襲いかかる病気や自然災害に、労力を傾け方がよっぽど実用的だし、科学技術の有り難さも実感できる。つまり、宇宙人に脳にチップを埋め込まれる心配をするくらいなら、もっとすぐそばにある癌や大地震の心配をしようと、とても真っ当な方向へシフトしたのである。


ではなぜ、人々の興味はオカルトには向わなくなり、健康や災害へ向うようになったのだろうか?


その理由は大まかに二つ考えられるが、その前にまず確認しておかなければならないのは、オカルト番組衰退によって、UFOや未確認生物が信じられなくなったわけではないということだ。そもそも、全盛期にも超常現象を事実と受け止めるかどうかは、さほど重要ではなかったはずだ。それより、人類全員にふりかかる統一的な問題、信じるにしろ、信じないにしろ、すべてのひとが平等に関心を向けることができる唯一の問題として、オカルトは人気があったのだ。だから、オカルト番組全盛時代にUFOを信じていたひとは、現在でも信じているだろうし、反対に、当時信じていなかったひとは、現在でも信じていないはずだ。ただ、その信じ方(疑い方)に大きな変化があったに違いない。


まず、技術的な問題がある。それまでUFOや宇宙人の存在を裏付けてきたのは、主に目撃者の証言と奇跡的に撮影された写真や家庭用ビデオカメラの映像である。発明以来、カメラの前ではすべてがそのまま映し出されるというのは、科学的な常識であり、疑うひとはいなかった。そのため、写真や映像に映し出された物体は、すなわちそこに存在している証拠だったのだが、近年の合成写真やCG技術の急激な発達により、その実証性も疑わざるを得なくなった。技術が進めば進むほど、その存在を証明することがやっかいになるのである。実際、現在の僕の目から見ても、最新のビデオカメラで細部まで克明に映し出され、現実では不可能な俊敏な空中飛行をするUFOは、何十年も前に荒い像で写真に映されたUFOよりも、より偽物らしく見えるのである。
近年のハリウッド超大作映画では、CGによって何でも映像化できてしまうことを体験しているわれわれには、どんな未確認飛行物体の映像も、もはや衝撃的ではない。CGの映像は迫力はあれど驚きはないのである。それと同じように、UFOの映像は、信じられるどころか、驚かれなくなった。実際には、何十年昔であろうと、ピアノ線に吊り下げた円盤をピントの合わないカメラで撮る方が、現在CGで十数秒のUFO映像を作るより、よっぽど簡単なのだが、それを偽物と証明するのは、CG映像と同じくらい、あるいはそれ以上に難しいのである。映像を頼りに、UFOを信じることはもはやできない。


そして、視聴者のオカルトに求めるものが変化したということがある。肝心のUFOや未確認生物が実在するかどうかは、もはや二の次で、どれだけアクロバティックな仮説を提示してくれるか、矢追純一大槻教授、あるいはといった人間がどれだけ奇怪な言動を行うかの方が重要となっている。2005年まで断続的に特集されていた『藤岡弘、探検シリーズ』を思い出せば、そのことは即座に理解できるだろう。探検隊が探し求める生物は、大抵、アマゾンのジャングルや、アフリカの奥地に生息する、獰猛という以外にその生体が明らかになっていない生物である。自然の猛威や原住民と戦いながら、探検隊はすんでのところまでその生物を追いつめるが、藤岡弘、隊長の勇敢な決断のために目的を達成できないまま終わるのが、この番組ではほとんど慣例化しており、視聴者は未確認生物がいるなどと最初から思っていない。
最近人気の若手芸人に、「ハイキング・ウォーキング」というコンビがいるが、キモキャラを売りにしているボケ担当の鈴木が「顔の前で風船をわってもまったく驚かずに平気な顔でいます」とか「ブーブークッションに音をさせずに座ります」といった無理難題を自らに課し、あくまでそれを成功させることではなく、どれだけ面白く失敗するかが笑いどころとなっているのと、まったく同じ原理である。それは、不可能なものに対する真剣な情熱は、それが真剣であれば真剣であるほど、視聴者には嘲笑の的としてしか受け止められないということを見越しての対応であるのだろう。
かつて、オカルト番組にあった表面的には信用していないけれど、心のどこかで願っているというのは必要とされていない。別に興味をそそるものであれば、それが本当でも嘘でも構わないではなく、嘘なのははじめからわかっているから、頑張って俺を楽しませろ、という関係になっている。オカルト番組は、ゴシップ的な内容に関わらず、あくまでも「教養番組」にカテゴライズされるものであり、意地でもその姿勢を貫いてきた。だが、もはやオカルト番組に教養的な側面を期待することはできない。


先に、オカルト番組は、実益的な健康や自然を科学する番組に受け継がれたと述べたが、それらの番組はオカルト番組のエセ科学*2な部分は継承したが、未知なるものへの願望は受け継がなかった。人々の謎への関心は、『ダ・ヴィンチ・コード』の大ブレイクや、昨年ベストセラーとなった『ハローバイバイ関の都市伝説』からわかるように、いま「都市伝説」へと向けられているのではないだろうか。だが、宇宙人や未確認生物といった、まったくその存在すら認知されていないものを多く取り上げたオカルトとは異なり、「都市伝説」は主にフリーメーソンや国家機関といった謎の巨大組織の陰謀、または「ピアスの穴から出ている白い糸をひっぱると失明する」といった身体的なものが中心となっている*3。あくまで、「都市伝説」はよく知られた現実に根ざした事柄にまつわる陰謀やうわさ話にすぎない。
また、オカルトにはUFOや未確認生物の出現によって、自分や社会がどのように変化するかという、当人と世間の視座が必ず備わっているが、「都市伝説」にはあまりない。千円札にフリーメーソンのマークが刻印されていようが、ミミズバーガーが実在しようが、根本的に自分や社会の行く末に大きな影響が及ぶことは、まず考えられない。むしろ、自分も社会もすでに闇の巨大組織によって支配されていているという無力感が募っていくだけでしかないだろう。


オカルトから都市伝説へ。なかなか興味深いラインだが、ひとまずこの辺で終わろうと思う。みなさんがお読みになったこの文章、信じるか信じないかはあなた次第です。



松下

*1:スカイフィッシュ」「チュパカブラ」はともに95年前後から目撃情報が報告されている比較的新しいUMAで、個人的な記憶では2000年頃『不思議どっとテレビ。これマジ!?』で紹介されていたように思う。しかし、ともにそれほど一世風靡できずに終わった。前者はハエなどがカメラのコマ数によって棒状に写ったものだというモーションブラー現象で、ほとんど科学的にその存在が否定されてしまっている。

*2:一般的に、超常現象はトンデモ科学で健康医学や自然現象はマジメな科学だと認識されているが、後者も過度に誇張され、脅迫的に使われているという点では、エセ科学だ。『あるある大辞典』事件であきらかになったように、番組側がネタ切れのために捏造するケースも少なくない。ただ、後者はまったくの空想ではなく、あたかも事実らしく視聴者に訴えかけてくるぶん、オカルト番組よりタチが悪い。

*3:正確には「スピルバーグの『E.T』は、地球人が宇宙人に対して友好的なイメージを抱くように、宇宙人に要請されて制作された」等、いまだに宇宙人による陰謀説は少なくないが、やはり一時期より減少しているのは確かだ。