moso magazine issue20――「やっぱり金か!?」


moso magazine も皆様に愛されてissue20まで掲載することが出来ました。
今回はそれを記念して前から暖めていたことを書こうかと思っていましたが、いろいろ脳内のストックを消費していかなければならんというイマダの使い勝手の悪い脳の事情もありまして、今回はまたそれとは別の文章でお茶を濁したいと思います。前から暖めているというそれは、また別の機会に。

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(目当ては)「やっぱり金か!?」



カネではない。きんである。
オリンピックにはあんまり興味ないし、日本人が何枚メダルとを獲るのかも興味ないのだが、最近のニュースは例のスピード社の開発した最新の水着で持ちきり。なんでも、選手がそれを着用すると50メートルの記録が、平均で1.3秒ほどもタイムが縮まるらしい。短距離で1.3というと相当な変化だ。今年に入ってその水着を着た各国の選手が、次々に世界記録を更新しているらしい。


これが日本で問題になっているのは、五輪で日本の選手は、協会が国内三社と契約しているため、スピード社の水着を着用できないからだ。これに日本水泳連盟は大あわて。即刻、国内三社に水着の改善を依頼している。幸い、大阪の町工場が開発したまた別の素材で、スピード社のそれと同じぐらいスピードのアップする水着が開発されるかもしれないという。


僕がこのニュースとニュースをあつかう空間に感じた違和は、「なんかおかしくないですか?」を唱えた人が誰もいなかったことだ。
これって不毛でないだろうか?


日本の技術力は世界に誇れる。それはすばらしい。
日本の選手団も他国と対等に戦える。
それもすばらしい。
でもこれって、なにか本末転倒ではないだろうか。


このニュースに対して、日本の水着の水準は五輪開催までに、果たしてスピード社のそれに追いつけるか?という論点で話をした人はいれど、「これって不毛なことではないですか?」ということを述べた人を僕は皆目知らない。「水着一枚でタイムが何秒縮めるっていうのはスポーツなんですか?」「そして、日本がその開発『競争』に参加するっていうことを、もう一度立ち止まって考えてみませんか?」ということをいった人を僕は知らない。


もっとも、選手達は選手達で、四年に一度のこの祭典のために、日々血のにじむような努力を重ねてきたのかもしれない。そんな努力をたった一枚の水着の性能の差で、無に帰せられるのはたまったものではないだろう。金メダルがすべてではない、というのがきれい事だというのもわかる。


しかし、だからといって同じ穴の狢になってしまってもいいものか。


では反対に、日本は「同じ穴」に入らなかったと想定してみよう。
日本の選手たちは負けるのかもしれない。そして日本の選手より実力では劣っている、格下の選手達が本来日本人がいたはずの順位につけるのかもしれない。

そのとき、当の相手の選手は本当に喜べるだろうか。
メダルが取れたこと、今までの苦しい練習が報われたことはうれしい。しかし冷静になって考えてみると、その選手が日本の選手に勝てたのはパンツ一枚の差だ。自分の実力の順位のその一つ上の順位に、「パンツ一枚の違い」で日本の選手を抜いてなれたということに、その人は心から喜べるのだろうか?本当に?


表彰式の際に、最先端の水着を着なかったばっかりにメダル圏外になった日本選手に客席から満面の笑みでたたえられる、「パンツ一枚の差」で勝った他国の選手。
おそらく彼彼女は晴れ晴れとした気持ちでメダルを受け取ることは出来ないのではないだろう。相手をそのような気まずい心境に陥れ、悦に浸ることに「勝利」の喜びを見出すこともありだと思う・・・のは僕だけだろうか。


水泳がもはや水着開発競争になってしまったことに、それほど敏感に世論が反応しないのは、やはり大衆も金メダルを、いや正しくは、選手が金メダルを獲得することでおこぼれとしてもらえる「感動」が欲しいからだろう。
僕ら日本人は、今や感動ジャンキーだ。


前回の五輪のときはすでにそうだったのではないか。
日本人は金メダル=一位になったことで付随的に感動を催すのではない。僕たちが感動するには、もはや「金メダルでしか感動できない」からこそ、金メダルが尊ばれているのではないだろうか。そこに敗者の美学なんて、ナルシシズムは介在しない。田島寧子ではないが、「金がいいです〜」なのだ。
だから「やっぱり金か!?」と僕は言いたくなった。


しかし繰り返すと水着の性能の有無は、身体の鍛錬からはすでに離れ、もはや科学技術の領分に位置する。
これでは冷戦時代に、アメリカとソ連が宇宙開発事業という領域で間接的に競争していた図式と何もかわんねぇんじゃないかという話だ。そこで各国が意地になっているのはやはり、国の威信とかメンツがあるからのである。


だから僕は、オリンピックとかサッカーのワールドカップを、世界平和と結べつけて考える輩が好きじゃない。


特にサッカーはその成り立ちからいって、平和とか友愛とかとは結びつきにくいような気さえする。日本もどの国もそうだが、プロサッカーというのは週末か祝日開催がふつうだ。あれはただ単に、土日祝日だと客の入りがいいという単純な理由ではないと思う。
僕が思うに、サッカーとは週に一度の「祝祭」であり、民俗学的にいえば「ハレ」の舞台なのではないか。


サッカー発祥の地はイングランド、イギリスだ。
前に、NHKでイギリスの格差問題を取り上げたドキュメンタリーを見た。日本では最近「下流(意識としての下層)」というキーワードとともに、若者問題の一つと取り上げられているが、イギリスには未だに労働者階級があるし、階級というものがと存在する。
上流階級の家に生まれた子は、いい大学を出ていい仕事に就く。下流階級の家に生まれた子は、高校を卒業したら即工場労働者となる。生まれたときにすべてが決まってしまう人がそのほとんどで、あらかじめ定まった運命のようなその階級をジャンプアップするのには、OASISのように超有名ロックバンドになってCDが売れまくるか、プロサッカー選手になって億単位の移籍金が動くほどの超有名選手になるぐらいしか選択肢はない。


上流階級の子どもは、パブリック・スクールと呼ばれる学校に行くわけだが、その学校ではいわゆる「ジェントルマン」になるための教育がなされる。


その教育現場で、おもしろいものを視た。


パブリック・スクールでは、体育でラブビーをしていたのだが、子どもだから応援しているほうにも熱が入る。詳しくは聞き取れなかったのだが、応援していたある少年が、相手チームのプレイのミスをなじる発言をしたらしい。教師はすぐさまプレイを中断。その子だけでなく、他の応援している子どもも集めて、「そんな言葉を言われたら、相手チームの人はどれだけ傷つくかよく考えてみなさい」という説教をし始めたのだ。


ひぇ〜と思った。なぜなら同じイギリスで開催されるサッカーの試合は、相手のプレイのミスをなじるどころか、試合中終始アウェイのチームはなじられっぱなし、というかブーイングされっぱなしだからだ。サポーターには相手チームへの尊重のその字も、頭にないのではないだろうか。


この違いは、2つのスポーツを見る階級の違いといっていいだろう。
イギリスでは、上流の人間はラグビーを慎ましくお上品に観戦している間、下流階層の人間はおそらくスポーツバーで酒瓶片手に悪態をつきながら、テレビをにらみつけているのだろう。

このようにサッカーのスポーツは労働者階級の領分にあるといえる。
そして、サッカーが土日開催なのはそもそも彼らの日頃の憂さ晴らしという側面があったのではないだろうか。サッカーの母国であるイングランドでは、ニューイヤーズデーでも、リーグ戦は中断しないで行われる。そこには、労働者層への慰安の意味が込められているという。


二年ほど前にイングランドのリーグ(プレミアシップ)の、チケットが高騰しているというニュースを読んだ覚えがある。最近では、上流階級もサッカーを観にスタジアムに足を運ぶようになってはいるらしい。しかしそれでもなお、テレビを通してでも聞こえるあの地鳴りのようなブーイングは顕在だ。


生のサッカー観戦というのは、特にヨーロッパ圏においては非日常的なのかもしれない。
ヨーロッパサッカーではよく人種問題が取り沙汰される。
アフリカ系の選手に対して、プレイ中にサポーターが侮辱的なブーイングをするのだ。これで試合をボイコットする選手などもいて、かなり深刻な問題になっている。
ヨーロッパのサッカー協会も本腰を入れてこれに取り組んでいるのだが、なかなかそういう罵声はなくならない。日本人からすれば今の時代になって未だ人種差別をしているのかというあきれた感情を覚えてしまうが((追記)そりゃもちろん日本でも、『嫌韓流』が売れたり、ネット右翼とかいう類の中国などをからかう言説はあるけれども、面と向かってモノを投げるとか罵声を浴びせるということはないわけだ。)
、あれもサッカーが祝祭だからではないだろうか。
今流行の世界のナベアツではないが、特にヨーロッパのサポーターは「休日のサッカースタジアムだけはアホになります」な人たちなのではないかと、僕は思う。思いついちゃったことは、心にとどめておくのは精神に悪い。だから、つい口にしちゃうのである。だからといって差別しちゃだめだけど。


「休日のサッカースタジアムだけはアホになります」のは、イギリスだけではない。
スペインリーグでは、バルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手(ルイス・フィーゴ)が、古巣のスタジアムで試合でした際に、試合中まれに見る大ブーイングを受けつづけた。中でも彼がコーナーキックを蹴るために客席付近まで行ったときに、客席から豚の耳(!)が投げられたのは有名な話だ。
これはバルセロナサポーターが熱狂的という理由だけでなくて、サッカーというスポーツ、サッカーという空間自体が日々の生活とは乖離した祝祭的な空間だからではないだろうか。


他にもサッカーでは過去にサポーター同士の暴動で400人以上が死傷したこと(ヘイゼルの悲劇)もあるが、他のスポーツ、例えば日本のプロ野球でそんなことがあったなんて皆目聞いたことがない。今回聖火リレーで何人ものけが人や逮捕者を出したオリンピックだってそれはない。選手でなく観客が死ぬというのはサッカーだけなのである。


先日、イタリアの首相の選挙が行われたときに、「サッカーを通して子どもにスポーツマンシップを養わせたい」という公約を掲げていた候補者がトッティ(イタリアのサッカー選手)を広告塔に起用していたが、そもそもサッカー選手は民衆(特に日々の生活に不満をためた)の鬱憤を変わりにはらす代行者なのであって、サッカーしたって友情なんて生まれないのかもしれない。憎しみは生まれても。


だから、ワールドカップよりチャンピオンズリーグ(クラブチームの一番を決める大会)の方がコアなファンには人気があるという話がある。それはワールドカップの万国の友愛という精神は、サッカーとは本質的に水が会わないからだと、僕は思う。
それよりか、サポーターが「マジ」になれるのは、週末の戦い。おらが村のクラブチームの試合なのである。
日常で溜まった不満を爆発させるために必要なのは、世界平和を願う「式典」としてのサッカーなでではなく、非日常としてのサッカーだ。
加えて、そんなサポーターたちが落としたなけなしの金と、昨今の莫大な資金力を持った外国資本家たちによって、近年のサッカー選手の年収は高騰しつつある。
選手のパフォーマンスも、ワールドカップに比べれば、クラブチームでのそれの方が断然上なのである。


「やっぱり金か!?」
こちらは文字通り、カネでございます。
お後がよろしいようで。


イマダ