もっと努力すればよかった。 後悔6日目



ティーリラッタティラリラッタ
ティーリラッタティー


あなたは、
あなたが選んだものでできている。


スタイリッシュを選ぶ人へ。
日産の軽 MOCO



軽快なリズムと一緒に聞こえてくるこのキャッチコピーに、背中をゾクっとさせられる。
昨年10月より放送されている(ニューバージョンが最近流れ始めた?)日産のMOCOのCMで児玉清がつぶやくこの言葉は、消費文化の到達点を見事に言い当てた、素晴らしいコピーだ。




「あなたは、あなたが選んだものでできている。」
これには二通りの意味がある。


一つは「あなたが今、歩んでいる道は、あなたが自分で、幾多の選択肢の中から選び取ってきた人生なんですよ。」というような、どことなく自己肯定的な雰囲気漂う意味だ。ああ、青春っぽい。高校の女子バレー部の部室にでも貼ってありそうである。末尾に「みつを」と書いてありそうである。HYの歌詞にありそうである。野球部のマネージャーがお守りの中に書いてくれそうである。文化祭で軽音楽部がしっとりと歌い上げそうである。


「あなたは、あなたが選んだものでできている。」で検索をかけてみると、そんな「自分だけのエンディングに向かって」系の甘酸っぱい感想を、このキャッチコピーから連想しているblogが多数ひっかかる。青春って、いいなぁ。



それは置いておくとして、今日取り上げたいのはもう一通りの意味だ。


「あなたは、あなたが選んだものでできている。」
これはつまり、
「あなたは、あなたが選んで消費したものによってしか、表されない。」
ということに言い換えられる。
僕がしばしばゾクっとするのは、この意味からだ。




例えば服。どこのどんな服を着ているか、あるいはどういった系統でまとめているか、によって、人の印象はバチっと決まる。ジャケットをよく着るかパーカーをよく着るか、寒色系か暖色系か、靴の先がとがっているか否か、などなど、とりあえずのところ「人は見た目が9割」である。そしてその9割は、それら服をどこのお店で買ったか、つまり消費によって決まるということだ。


我々が消費によって形作られている場面は、服という「目に付く」ところだけにとどまらない。見ている映画や、聞いている音楽、読んでいる本に応じて、その人は「その人」になるのである。「『時効警察』が好き。」と言った人は、その人の意思に関係なく「ああ、ソレ系ね。」とよく分からない系統にまとめられ、「じゃあさ、ダイバスターとかも好きでしょ。」と返される。あるいは「好きなアーティストは椎名林檎です。」と言った瞬間、その人は「椎名林檎を消費する人」という大きな人影に取り込まれてしまう。


他にも、無印良品信者、コーヒーは自分で挽いて入れる系、富士通マニア、などなど色々ある。その生活形体がどういった消費によって出来ているかで、その人がどんな人か、量られてしまう世の中なのである。




動物化するポストモダン』の中で、批評家の東浩紀はオタクの「データベースモデル」という消費形態が存在することを指摘している。例えばアニメ一つをとってみても、その作品から発せられるメッセージや物語の進行は問題にならず、登場するキャラクターやシーンにのみ強く惹かれる、という状況がオタクの間で起こっているのだ。それらキャラクターやシーンは「萌え要素」という記号に分解され、データベースの中に蓄積される。そして消費者の欲望に合わせて、自由に組み合わせ可能なキットが出来上がるのである。


として、先ほどの消費の話に戻ると、僕自身、そんなデータベースから持ってきた要素の組み合わせでしか成り立っていないような気がしてくる。社会(あるいは文化)というデータベースの中から「あなたが選んだもの」を消費することよって、自分自身が作られているという事実、これは紛れもない。


松本人志信者」「スネオヘアーとか聴いてる人」「パーカーばっかり着てる」「紙パックのジュースをよく飲んでる」…、そんな消費の要素の組み合わせによって、僕という人間は他の人間と差別化されているのだろう。



はてなblogのサイドバーサービスの中に「最近言及したキーワード」というものがある。今もおそらく右側に表示されているだろう。これは文字通り、最近このblogで言及されたキーワードが、回数などに準じて大きさ別に表示されるというものだ。このサービスの面白いところは、逆説的に、言及キーワードを見れば、大体このblogがどんなことを言っているのか、分かった気になれるということである。細部では全然違ったことを言っているにもかかわらず、勝手に「ソレ系のblog」としてフィックスする手法は、我々が日常生活で行っている、「他者を消費の要素の総体として見る」という方法と似ている。重要なのは相手自体ではなく、相手の「消費キーワード」なのである。「おおはし」の言及キーワード、消費キーワードは、なにかね、と。




内田樹氏が割と最近のblogの記事で、同じようなことを言っていた。


「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。
どんな家に住み、どんな家具を並べ、どんな服を着て、どんな車に乗り、どんな音楽を聴き、どんなレストランでどんなワインを選ぶか・・・といった一連の「商品選択」を通じてその人の「個性」は表現されるという考え方のことである。
現在のメディアが「個性的な」という形容詞で記述している人間的行為の99%は「どんな商品を購入しているのか」という水準で語られる。

「あなたは、あなたが選んだものでできている。」という言葉そのままである。
氏は、今の子供たちが「学び」を商品として消費するものと捉えているから、教育が成り立たないとし、「努力」すらも「買おう」とする現状を嘆いている。消費によって「自分」が作られるということに慣れた我々は、10万円払えば「英語で80点取れる自分」になり、100万円払えば「進学校に入学できる自分」になり、「1000万円払えば東大生」になれると、どこかで信じている。


だが、結びにある通り、努力はお金では買えない。*1


「努力って、どうすれば買えるの?」と彼らは訊く。
でも、誰も教えてくれない。


引用元:「またインタビュー - 内田樹の研究室



我々の、「より良いものを、より良く(安く)買おう!」という方面への努力はすさまじい。気になったものの価格情報をいち早く取り集め、徹底的に比較検討し、2chで口コミ情報を漁る。さてさて、そのモチベーションはいったいどこから来るのだろうか。やはりそれは、「消費による自己実現」を肯定するしかない世代の症状なのだろうか。


だとすると、今度欲しくなるのは、「努力をするわたし」である。
「努力」が買えないのは分かった、
でも、「努力をするわたし」は、売っているんじゃないか?
売っているとしたら、どこに?


「努力するわたし」を手に入れようと、努力する自分に、
後悔した。


おおはし

*1:努力が買える空間は、実はある。それは、MMORPG、いわゆるネットゲームの世界だ。経験地や所得、所有物の能力などなど、自分の仮想キャラクターによってコミュニケーションが代替される世界の中では、外部世界(いわゆる現実)からの資金導入(課金と呼ばれる)によって「努力」すら「買う」ことが可能である。これに関してはまた別の機会に詳しく述べたい。