僕の好きなもの


今月から放映されている「キリンチューハイ 氷結」のCMが個人的にツボにハマってしまったらしく、テレビを見ていてあのフカキョンが歌う『青い珊瑚礁』が聞こえてくるだけで、テンションが異常に上がってしまう。いままでまったく意識していなかったが、深田恭子があんなに可愛かったなんて知らなかった。いま、僕の中で彼女の株はうなぎ上りだ。


しかし、実は「好き」なものを「好き」と言うことは、自分にとってもリスクが大きく、他者にとっての責任も重い、かなり危険な行為ではないだろうか。たとえ僕が「キリンチューハイ 氷結」のCMに感じた身体的な次元の快感にしても、すべての人間が同じような身体的感性を共有していないことを考えると、気軽に公に発言することは憚るべき行為となっているではないだろうか。


おそらく、どんな人にもひとつくらいは、心から「好きだ」と言える作品や作家があるだろう。あるいは、それは特定の作品や作家でなくとも、小説や映画や音楽、マンガやアニメといった大きなジャンルか、また「最近の日本映画」だとか「オールドロック」だとか「少女マンガ」だとか、もっと限定的な小ジャンルだったりするかもしれない。
そして、たいていそれが好きになったきっかけというものは、「お兄ちゃんが好きだったので、自然と私も」という“影響型”か、「たまたま買った雑誌に載っているのを見て感銘を受けた」という“事故型”のどちらかだ。僕の場合は、大学に入ったころから毎日の多くの時間を映画に費やしてきた映画フリークであったが、そもそも映画フリークになったきっかけは、当時基礎演習のクラスを担当して頂いていた教員に進められて見た、ある映画に感銘を受けたためと、自分では理解している。そのため、“影響型”と“事故型”の両方の特性を備えた出会いだといえるが、もしかしたら僕のような“折衷型”が一番多いのかもしれない。


どちらにしても、「好き」になるそのきっかけは偶発的で、かつ身体的なものに違いない。偶発的なものということは、他の「好き」になるかもしれなかった無限の選択肢の中から、それがいくつかの要因で選ばれてしまったということである。だから、その「好き」なものは、ある要因が欠けていたら、もしかしたら死ぬまでその存在すら知ることができなかったものだったかもしれない。現に、自分以外の大勢はそれぞれ別のものを「好き」だと言っているのだから。


まったく自分と関心領域を異にする大勢の他者を前にすると、そのような「他の選択肢」の浮上は避けることのできない壁であるように思われる。そして、本来はそのような「他でも良かった」という疑念が浮上すると、それ以外の選択肢も当たろうとするはずである。にもかかわらず、現在の多様に分別されたサブカルチャーが“オタク化”の名のもとに流動性を極度に欠いた、同好者同士の集団と化してしまっているのを見るてわかるように、普通、自分が「好き」なものに対して、否定的に考えることはしないのである。


ひと昔前までは、「好き」なものは自分で選択するどころか、ほとんど最初から決められていた。それが教養であったり、「夜のヒットスタジオ」のような歌謡曲のヒットチャートだったりするので、ひとびとは「ハイカルチャー」や「国民的人気」の名のもとに、安心して自分の趣向を決定することができた。いわば、高等なものと下等なものとの二項対立によって、自分がどちらの側に組するかは、それほどリスクもないままに、判断することができたのだが、今では文化作品が量産されジャンルも多様に枝分かれしていくとともに、その価値が並列で扱うほかなくなってしまったのだろう。では、統一的な価値基準が崩壊したあとで、「好き」なものを決定づけるものは何かというと、身体的な感性、いわば自分独自の「嗅覚」でしかない。


自分がどう感じるか、自分がそれを快楽と感じるか、という原初的な判断軸だけで、文化作品を品定めすることによって、自分の「好き」なものは、(“影響型”であろうと“事故型”であろうと)その偶発生を無化されるほど徹底的に肯定される。どれだけ、他者が否定しようとも、私の嗅覚だけは、他者によって否定されるべきものではない、というわけだ。つまり、統一的な価値が崩壊したとたん、「本来の自分」というものが、異様なほど重要度を増してしまうのである。


つまり、「本来の自分」とは、何か特定の価値基準に収斂されるべきではない絶対的なものであるという思いから、大勢の異なった関心領域は、自分が「そうだったかもしれない」という失われた選択肢ではなく、むしろ、それと差別化を図ることによって、はじめて「本来の自分」の輪郭を掴むことができる、「自分」が「自分」であるという根拠として、機能しているのではないだろうか。そのため、何かを「好き」なひとは、別の何かが「好き」だったかもしれない、という可能性が頭をよぎることなど、ありえないのである。


「好きだ」ということが、危険なのは、そもそもどれだけ信頼できるかわからない身体的な「嗅覚」が、はじめからその人の内に備わった、独自な感性して扱われることによって、他者からの否定を回避してしまうことにある。それは回避するだけでなく、否定されることによって、その審美眼が独自のものであるということを、根拠づけてしまうという、悪循環を生む。なかなかその「好き」なものから離れたところから、客観的に判断することを困難にしてしまい、特定の同好グループとその外部の人間は相容れないものとなってしまう。


その対立が浮き彫りになったのが、先日京都大学で行われた日本記号学会大会のシンポジウムだったのではないだろうか。僕は会場には居なかったし、その実情はいくつかのブログや出席者からの話から、推察するしかないのだが、おそらくBLマンガややおい小説といった腐女子文化の細かな研究討議を期待していた同好のオタクや腐女子と、腐女子文化を外側から考察し、その内実を暴こうとする司会者室井尚が衝突したということだろう。


室井氏は自身のブログでこう語る。

次から次へとその手のオタク質問が続き、永久保さんもその方が安心するのか、セッション中の途切れ途切れの話し方から一変して澱みなくしゃべり出すようになって、さらに会場からは沢山の手が上げられるようになった。このまま終わらせたのでは、今回の学会の企画意図が完全に潰されると思ったため、こちらからキレて、質問を封じるという実力行使に出ることにした。


(「日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」終了: 短信」より)


つまり、「好き」であることを、自らにとって自明なものとしてしまうと、こうなる。もちろん、この場合、何かを「好き」なのは腐女子・オタク陣営だが、しかし、一方の室井氏がこれほどまで過剰に反撃に出たのは、本当に「学会の企画意図が完全に潰される」と思ったからだけだろうか。たとえば、このシンポジウムのテーマが「腐女子」ではなく仮に「唐十郎」だったならば、室井氏はどうしただろうか。唐を否定されれば、おそらく今回のオタク・腐女子たちと、同じように振る舞ったのではないだろうか、と僕は邪推してしまう。しかし、すぐさまこう否定するだろう。「唐十郎」と「BLマンガ」は同列に扱うべきものではない、と。同日の日記より、ふたたび引用する。


物心がついた頃からネットで育っている世代にとって、世界とはこのようなグローバル・スーパーマーケットに他ならず、生きるとはその中でもっとも自分に快楽を与えてくれる商品やジャンルを選択し、その中で遊ぶことにすぎない。「データベース型消費」の快楽に浸り込む人々は確かに増えてきているし、彼らはこの「窒息感」をネットやコミュニティの中で共同化することによって乗り越えようとしている。だが、それでもぼくたちはスーパーマーケットの「外部」やデータベースやジャンルの規則には取り込めないものがあることにこだわりつづけなくてはならないと改めて思うのだ。
日本記号学会第28回大会「遍在するフィクショナリティ」終了: 短信同上


つまり、「唐十郎」は本来的に「データベースやジャンルの規則には取り込めないもの」である、と。しかし、その論理は果たしてどれほど有効だろうか。例えば、オタク・腐女子陣営の加担者のひとりは、自身のブログでこのように言う。

 

そしてこのあとの部分では、現在のBL・おたく文化の受容のあり方を、「データベース的消費」として「劣ったもの」としています。人間の心の機微をとらえることができない消費のあり方としています。これまたそんな単純な話ではないはずなのですが。むしろそうした単純な割り切りをしてしまえる考え方に、逆に感心してしまいます。ちょっとでも実際に触れてみれば、そこにある豊穣さはすぐに分かると思うのですが。


2008-05-14より)


ここで問題なのは、BLや唐十郎がどれほど「豊穣」で、「データベースやジャンルの規則には取り込めないもの」であるかではなく、どちらもその魅力を相手方に伝わっていないこと、その魅力を理解しようともしないことに、腹を立てているという事実の方だ。
自分が「好き」であるものの魅力は、自分が一番よく知っている。それを知らずに批判をする人間は、はなから話にならない。「好き」なものを巡る対立の本質は、ここにある。そして、このような対立が日常的に起こりうることを、ほとんどのひとは知っているのではないだろうか。


だから、「好き」なものを「好き」だと主張することは、必ず危険が伴う。おそらく、「好き」だと主張することで、一定の同意を求めることはできるだろう。しかし、その主張に同意しかねるひとは、広く見渡せばもっとたくさん出てくるはずだ。それどころか、同意しなねるひとは、そもそもその主張に耳を傾けたりしない。耳を傾ければ、今回のように不快感を覚えるであろうし、ましてや主張に異を唱えれば、深い対立を生み、お互い理解はさらに遠のく結果になる。そのことを、何となく気付いていながら「好き」だと主張すれば、満足より伝わらなさの空虚を味わうことになるだろうし、反対に気付かないまま主張しても、同好者の間で「好き」の強度を高めっている間に、知らないうちにそれへの反抗心を高めて、自分の「好き」を差別化させている人間がいるかもしれない。そのため、他者の意見には耳を貸すな、という無関心を決め込むことで、はじめてわれわれは趣味の世界を享受することができるのはないだろうか。


果たしてこの悪循環を断ち切る方法はあるのだろうか。僕自身を振り返ってみると、やはりどうしようもなく、身体的に好きなものというのがあり、それをひけらかしたい願望は常にある。それは恥ずかしいことかもしれないが、どうしようもないことだ。だが、一応実践している方法としては、あまりブログなどの相手が見えないところではその願望は自粛して、実際に会ったひとと、チャンスを見つけてはそれを言うくらいに留めるように、心掛けている。面と向って言えば、少なくとも相手の無視は避けることができる。


たとえ、他者の意見と真摯に向き合い、実際にその魅力を目や耳で確かめようとしても、膨大に広がった作品群の中で、すべてに接することは物理的に不可能だ。どこかで限定しなければならない。映画というジャンルにおいては、まだシネフィル(映画狂)の間で、支配的な評価というものが、かろうじて存在している。古典や教養としての基礎知識もあるし、現代映画でもその延長線上の作品が、良しとされる風潮もある。だから、ひとまず映画フリークとして、必要とされる文化だけを接するという戦法も悪くはなかったかもしれない。映画なら、原作や挿入歌から、他分野へ関心を広げることも可能だ。


だが、世間はおかまいなしに映画フリークを映画フリークという属性としてのみ認識する。何かを「好き」ということの一番の弊害は、それが「好き」なひととしか認識されない、『「好き」なもの=「本来の自分」』という図式が共有されてしまっていることである。だからこそ、何かを全身全霊をかけて「好き」なひとは、他者に「好き」なものを否定されれば、本気で怒る。


僕の前でフカキョンを馬鹿にする奴は、許さない。


松下