〇六部隊の前線便4通目――VILLAGE VANGUARDが好きな男の人って・・・   

                               
この前、研究室に置くマグカップを探そうと「VILLAGE VANGUARD」に行ってきました。幸いにも気に入った品があったので購入したのですが、この「VILLAGE VANGUARD」、なんだか気に入らない。何がここまで不快にさせるのか、その時は良くわからなかったのですが、今日改めて行って来たのでここに記したいと思います。


VILLAGE VANGUARD」に来る客はいわゆる普通かそれ以上のおしゃれ意識を持っている人が多い。気分的にはここに来れば何か変わったものが見つかるかもしれない、そんなところでしょうか。僕もそう考えていた節があります。普通のおしゃれアイテムじゃなくて、一癖あるようなものがより個性的な自分を演出してくれたり、普段目にしないようなものを見ることで美術館に行ったときのようにセンスの磨かれた気分になったりする。その思考回路は理解できるのですが、その姿勢がどうにも気に入りません。というのも、本来センスの良いもの、ちょっと変わったものは自分が探し出してくることに大きな楽しみがあったはずです。誰もが見落としているであろう部分に輝きを見つけるとか、自分しか知らない情報やスポットとかのように、変わった品物が先に来るのではなくて、それを発見した(人とは違う)自分を自覚した後に、変わったものに対する愛着が湧くというものです。メガネっ娘がメガネはずしたら実はかわいいというのを自分だけが知っているというドキドキ感を想像してみると分かりやすいです。


ところがどうでしょう、「VILLAGE VANGUARD」にはそういった感覚が欠如し、お手軽に(ヴィレバンを知らない)人にちょっと変わった自分を見せつけることが出来るのです。何の労力も無く手に入れたちょっと変わった品物に何の価値があるでしょうか。もし彼ら彼女らが他人にちょっと変わった自分を見てもらいたいと思っているなら、あるいはちょっと変わった自分に酔いたいのなら「VILLAGE VANGUARD」に行っていることを恥じるべきです。


VILLAGE VANGUARD」を捉える上でもうひとつの見方があります。陳列されている品物自体に対する思い入れ、大仰に言えば愛の欠落です。何がそこにあるのかではなく、雑多なジャンルの品物があること自体に価値がある。それは、見ていて非常に不快です。確かに、一度に様々なジャンルの商品を見ることができるという簡便さもあり、普段出会うことの無いであろうものに会えるかもしれません。しかし、それらはヴィレバン店員が既に検閲した範囲の中でしかありません。そんな、いわば店員のオナニーに付き合わされる筋合いはないし、そうして並べられた商品を見て嬉々としている人たちを見ても良い思いはしないものです。ある程度選択されたものからしか選び取れないというのは仕方の無いことであり、完全な自主選択という行為は不可能に近いものではありますが、あたかも自分がセンスの良い人間で、素敵なものを選び取れているというような錯覚の下に悦に浸っているならば、それは嘲笑の対象にしかなりません。



抽象的な話が続いたので、具体的なものを見ていきましょう。ここで僕が批判の対象としているのは、サブカル系人間あるいはサブカル系を気取った人間です。きっと彼らが崇拝しているであろう人物の一人にみうらじゅんがいます。彼こそサブカル人間の権化であり、ゆるキャラ、マイブーム、天狗や仏像、グラビアのスクラップなど多くのサブカル文化を牽引してきた一人であると思います。もちろんそんな彼も「VILLAGE VANGUARD」の一コーナーにちょっと変わった世界へ招待してくれるおじさんとして飾られています。それを見て彼らは何を思うのか。あんな人に僕もなりたいとか、ああやって好きなことを突き詰めていくのも面白そうだなとか思うんでしょうか。しかし、それはみうらじゅんの模倣であり、すでにカテゴライズされた生き方のひとつに過ぎません。結局普通の人生を歩むことになるのは明白であるし、そんな人生を送りながらも人と違う感性を持っているんだという自負を持ちながら優越感に浸っているのが多くのサブカル志向人間のたどる道です。そして、多くの人がそうであるという時点でその生き方もまた普通なのです。


なぜ彼らはそんなにも中途半端なのか。そこにある答えはひとつ、モテたいからです。モテとは開放的な側面を多く持ちます。ただし、彼らが憧れているサブカル人間、言ってみればただのオタクなわけですが、そんな人たちは極めて閉鎖的です。冒頭に述べた被承認欲求も一つのモテ志向であるし、ちょっと変わっているとなんだかおしゃれに見えます。しかし、果たしてそれらが元々モテる為の道具、モテツールであったかというとそういうわけではありません。現にいまオタク文化が陽の目を見ているからといっておしゃれに見えるでしょうか、モテるでしょうか。サブカル志向である以上そこにある選択肢は二つ、諦めてモテに走るか、諦めてオタクに走るか。「VILLAGE VANGUARD」に来る客はその潔さが無いと思うのです。一度、ゲーマーズメロンブックスに行って見ましょう。ただ「萌え」一点を追求している人たちの純粋な瞳が見られることでしょう。そして残念なことに、そんなオタクな彼らはおしゃれではありません。申し合わせたかのように黒や灰色の服、Tシャツの上にシャツがちょっとのおしゃれ、かばんはリュックかトートバッグ、そんな彼らを見ているとピンクや紫を着ている自分が申し訳なくなります。まだ自分にも覚悟が足りないと実感させられます。



話が逸れました。なぜこんなにも「VILLAGE VANGUARD」が気に入らないのかということでした。それはきっとモテツールとしてオタク的なものが消費されているからであると思うのです。オタク的なものに限らず、文学や思想などもそこに回収されてしまいます。北田暁大内田樹、「ニーチェ入門」や「バタイユ入門」もまさか「VILLAGE VANGUARD」に陳列されるとは思わなかったことでしょう。しかしここで誤解していけないのは、そうして何かに没入してしまうからといってモテと両立できないかというとそうではないということです。一心不乱に研究したり追求したりする姿はかっこよかったり美しく映ったりします。その結果として、付属物としてモテたのであり、モテようとしてその道にいったのではないということです。要は、モテようとサブカル志向に走る彼らに向かって言いたいのは、順序が逆だということなんです。人と同じでいたくないと思うのも分かる、センス持った自分に酔いたいのも分かる、でも、そうであるならなおさら「VILLAGE VANGUARD」なんかに行ってはいけません。


VILLAGE VANGUARD」の凄さは、潜在的にそういったサブカル志向人間がいるという読みをもって意識的に展開していることでしょう。アニメや漫画などが一般的なものになり、ちょっといかした兄ちゃんがエヴァの話を電車内でするような時代になりました。「アスカ・ラングレーっていうドイツに留学してた天才少女が云々・・・」なんて言っているのです。そこで「アスカは元々ドイツと日本のクォーターだろ」とかいうような突っ込みは必要とされていません。そこまで一般レベルにまでアニメや漫画文化は浸透してしまっているという事実があるのです。そして新たなフロンティアを目指して、モテはまた違った分野に手を伸ばしていくことでしょう。そんな傍若無人な「モテ」に嫌悪感を示すオタクたちがいたとしても不思議ではありません。それぞれ領分をわきまえてこその共存です。

前回取り上げたしずかちゃんのフィギュアに「も〜 のび太さんのエッチ(はあと」というポップが上がっているのを見て、彼女がただのビッチになってしまったと切ない気持ちになりました。「VILLAGE VANGUARD」とはそんな、「モテ」が多文化を侵食しているレイプ現場であり、だから僕は不快感を覚えたのかもしれません。


ゆーざき