高校生バンド、やっとけばよかった。 後悔7日目



山下敦弘監督の『リンダ・リンダ・リンダ』という映画を見た。
「女子高生4人が、バンドを組んで、文化祭で、ブルーハーツを歌う。」という、そんな4要素に還元されてしまう単純なストーリー*1なのに、最後のライブのシーンで心が昂揚してしまう。



よく、そんな『リンダ・リンダ・リンダ』的な妄想をする。
何の因果かバンドをすることになった自分。やたら大きなアンプと照明装置に輝く楽器。体育館に作られた特設ステージ上でジャーンとギターを弾きながら脚光を浴び、上がる黄色い声援。アーティスト気取りで使い終わったピックを投げて、ちょっとファンサービスなんか、しちゃたりして。


ロング・バージョンの妄想では、そこに来ていたスカウトさんの目に留まり異例のCDデビュー!まで到達したり、初ライブまでいくこともある。グループ名を真剣に考えたり(いやー、やっぱり漢字がいいかなぁ。でも略しやすいのもいいし…。英語でよく分からないのつけるのも、何か狙いすぎだしな…。)、デビュー曲と次のアルバムの構想まで練ったり、する。



そんな「バンドやってた俺/私」という妄想は、高校という青春文化を経た人たちは全員持っているものだとばかり思っていたし、今も思っているが、どうだろう。


しかし謎なのは、僕の高校には軽音楽部がなかったし、体育館での発表もほとんどチンケでつまらない有志発表しかなかった。上手いのか下手なのか、演奏を見ていても分からなかった。にもかかわらず、なぜこんなに憧れてしまうのだろう。




精神分析ジャック・ラカンの「シェーマL」という図式がある。この図式に拠ると、我々がいかに「青春文化」を内面化してしまっているかが良く分かる。


「日本一わかりやすいラカンの入門」書である斉藤環の『生き延びるためのラカン』では、シェーマLはこう説明されている。


Sは「主体」、a’は小文字の他者こと「対象a」、Aは「大文字の他者」、そしてaは「自我」だ。で、この図がなにを言わんとしているかというと、「主体と大文字の他者との関係は象徴的なものである」ってことと、「その関係はいつでもa’-aの平面、つまり想像界の介在によってジャマされる」っていうこと。
斉藤環著・『生き延びるためのラカン』P109


図はこうだ。



主体である「S」は、何かしらの意思や欲望はあるものの、私的な言語しか持たないために自分で何がしたいのか分からない。言語を通してしか自身を理解できない我々は、自らのリビドーをどの方向に向ければ良いのかわからないのである。
それを、まるで占い師のように「あなたは○○がしたいんですよ。」「あなたがしたいことは、ウチの世界では○○と言います。」と「言語」によって言い表してくれるのが、「A」こと大文字の他者である。このAに担保されていることで、我々は自分が何をしたいのか、知覚できるようになるのである。
しかし、そうした担保は、図の「a’-a」ラインによって常に邪魔されてしまう。「a’」は「S」が自分で作り出した欲望の対象であり、決して満たされない欲望の核である。どうにかこうにか「A」の力を借りて言語化はできるものの、永遠に捕まえられないのがこの「a’」すなわち対象aなのだ。そして「a」、いわゆる自我は、そんな「a’」によって作り出された想像物でしかない。ラカンが言う「我々の欲望は全て他者の欲望である」という根拠は、まさしく我々の自我、「○○したいぜ!」と思う気持ちそのものが、「A」大文字の他者の力を借りて作り出したものでしかないというところにある。




S=主体
A=青春、学校文化
a’=モテたい、自己実現したい
a=バンドをやりたい!


こう置いてみると、我々がどうしてこんなにバンド妄想をよくしてしまうかが分かる。


僕(S)はなんだかわからないけれども、何かがしたい。でも言語化できないから何がしたいのかわからない。「それはこういうことでしょ」と大文字の他者さん(A)は言っているけども、何か見えない壁があって聞こえてこない。大文字の他者さんのパクパクしてる口を見て、分かりづらいながらも読唇術っぽく言葉を拾ってみると、「君は、自己実現したいんだ。モテたいんだ。」(a’)と言っているように見える。よし、じゃあどうやって自己実現しようか、モテようか、そうだ「バンドを組もう!」(a)…


つまり、学校文化という大文字の他者が支配する世界は、それを経験した人たちに確実に、ある。その支配的な他者によって提示される選択肢にあうように、僕らは「バンドをしたい!」という漠然とした欲望を持つのである。


だから、妄想の中の自分は別にボーカルだって、ベースだって、ドラムだっていいし、それぞれのバージョンの妄想がちゃんとある。「対象a」にたどり着けそうな道筋であれば、何でも良いのだ。テストで全て98点くらいをとってチヤホヤされる妄想だったり、体育祭で大活躍したり、絵画コンクールで優勝したり。




学校文化に対峙した時に我々が形作る対象aは、先ほど挙げたように「モテたい、自己実現したい」というものだ。今でもそんな妄想をしてしまうというのは、やはり自分がそんな学校文化という大文字の他者に未だに支配されているということの証拠である。


じゃあどうすれば、そんな学校文化という大文字の他者の支配から逃れられるのだろう?
いくら欲望がオルタナティブだとはいえ、結局は「モテたい」んでしょ、というところに回収されてしまう欲望(対象a)しか、持てないということだろうか。もっと違う妄想だって、したいよ!



文化祭でライブでもしてアゲアゲな日常を送っていれば、
大文字の他者さんはもっと弱ってくれたんじゃないのかなぁ。
高校生バンド、やっとけば良かった。
後悔した。



おおはし

*1:その4要素以外のところで、女子高生どうしのいざこざや気まずい関係、文化祭にノリ切れない気だるい生徒たちの心情などがリアルに描かれているので、映画には余計に共感できる。低空飛行なテンションが「リンダリンダ!」の上昇気流にぶつかった時の爽快感はたまらない。