「歴史的」精神分析――フロイトとベンヤミン 1


前回の記事におけるコメント欄において、イマダさんとの「異種格闘戦」と言っていいようなものをおこないましたが(残念ながらいまはそのリングでの記録は消えてしまったようです)、その中で次回のテーマを「昇華」というふうに予告しておきました。しかしながら、独語の学習に追われてまったくと言っていいほど勉強が進んでおりませんので、2回目というあまりにさっそくな時期ながら、別のことについて考えてみたいと思います。「昇華」についてはいずれ必ず取り上げるつもりです。


ところで、この連載のタイトルを「『睡眠障害』に関するノート」にしました。不定期ながらおいおい書いていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。この括弧付きの睡眠障害を、私はさまざまな洞察が交差し、同時に一致するような場として考えていきたいと思います。


さて、近頃の私においてはこの日常こそが「睡眠障害」です。このところ、夢を見るのが楽しくて仕方ないのです。以前はあまり夢を見なかったのですが、最近よく見るような気がします。


つい先日、こんなことがありました。
ある友人と会い、そこで私たちは前日に放送されたあるテレビ番組の話をしたのです。その番組というのは、みなさんご存知のタモリ倶楽部でして、前日は世界をまたにかけた総合電動工具のメーカー「マキタ」が取り上げられていました。マキタの電動ドリルと言えば、ドリル奏法(ドリルの刃の先端にピックを取り付けて、それでギターの弦を弾くのです)で有名です。私たちはドリル奏法をしたギタリストとして番組の中で取り上げられた人物の話をしていたのですが、どうも話が噛み合ないのです。彼が言うには、私が番組の中で取り上げられたと主張する人の一部は出ていなかったというのです。
私は気づきました。実は私は前日タモリ倶楽部を見ていなかったのです。私はその日の朝の夢の中でそのタモリ倶楽部を見ていたのでした。あとになって次のようなことが起きていたことを思い出しました。前日の夜、ちょうど番組が放送されている時間に、彼からいまタモリ倶楽部で「マキタ」をやってるというメールを私は受け取っていたのです。しかし私はテレビを見ないで、翌日の症候会議ICUの準備をし続けていたのです。


このような事態は一体なにをあらわしているのでしょう。おそらく私は、翌日に彼と会うということ、そして彼からメールが送られてきたのにそれを無視してしまったということを隠蔽するために夢の中においてタモリ倶楽部を見たのです。そしてこの夢の隠された意味*1とは、「私はなかなか孤独である」ということだと私は考えました。友人と話を合わせるために、夢の中において現実を捏造したのですから。しかしながらこの解釈もあやしいものです。精神分析においては自己分析は不可能だとされていますし、あるいはこれ自体夢であったらどうでしょうか。


思わず「症例」を紹介してしまいました、私が言おうと思っていたのはそもそもこれではありませんでした。
さきほども書きましたように、このところちょっと現実がしんどいせいか私は夢を見るのが楽しいのですが、夢を見るコツというか、どういうときに夢を見るかがわかってきました。
とりあえずいま思い浮かぶのは二つです。一つは寝心地の悪いところで寝ること。布団やベッドではなくて、カーペットとかフローリングにじかに寝ることです。もう一つは二度寝です。これにはさらにポイントがあって、「あと10分だけ寝かせて」という感じで、(起こしてくれる人もいませんので自分で)10分後にアラームをセットしてから二度寝することです。
これらはいずれも睡眠に適さない環境という点で共通していますので、夢は睡眠の持続に奉仕するという原則を例証していると言えると思いますが、そんなことよりも私が考えてみたいのは二番目のコツおいて顕著にあらわれる事柄です。
この後者の場合において、もちろん私たちは10分後に起きるわけですが、そのとき不思議な感覚を覚えます。その感覚というのは起きて時計を見たときに感じられるものです。そのとき私たちは、自らの「主観的」時間と時計が示すような「客観的」時間との相違を感じることになります。それはおそらく、たとえば女の子とどこかに遊びにいくといったようなきわめて壮大で長時間を要した夢と、たった10分という短時間を示す時計の針の移動距離とのあいだの途方もなく深い裂け目です。というのも、女の子とどこかに遊びいってくるということが、たった10分でできるわけないのです。


夢におけるような私たちの「主観的」時間と時計におけるような「客観的」時間を並べた場合、ここで言えることとは、夢においては時間は圧縮されているということではないでしょうか。さらにフロイトによれば、夢の作業で圧縮されるのは時間だけではありません。言葉やイメージといったものも圧縮されるのです。しかしながらここでは時間について考えましょう。夢においては、一つの夢というある一定の平面の上にそれ以上の時間が表現されることになるのです。
夢のほかにはないでしょうか。ここでとりあえず思いつくのが写真です。ふつう写真はある一瞬、つまり「点」を捉えたものだと考えられていますが、実際は決して「点」ではなく「線」、つまり一定の時間的経過が捉えられたものです。さらに言えば、最近のほとんどのカメラで採用されているシャッター機構(たとえば、フォーカルプレーンシャッター)においては、一つの写真においても部分によって捉えている時間は異なっているのです(もちろんほんの一瞬ですが)。つまり、写真においても時間は圧縮されていると言えるのではないでしょうか。
さらに写真について考えてみましょう。ふつう、あらゆる物体はある瞬間においてはある一つの空間的な位置に固定されることになります。同じ瞬間において、一つの物体が二つの位置にあるというようなことはあってはならないのです。しかしながら写真はどうででしょうか。写真においては一つのネガから何枚もの同じものを作り出すことができます。つまり、複製技術においてはさきほど書いたような物理的法則が「揺らいでいるように見えます」*2


もし夢と写真を並べて考えることができるとしたら。夢や無意識へのまなざしとしての精神分析あるいはフロイトと、写真や映画といった複製技術へのまなざしてしてのベンヤミンの思想を並べて考えることができるとしたら。精神分析は歴史的なものであると言えるのでしょうか。つまり、精神分析はある一つの時代に特有の状況に依拠したものであり、時代を超えていくような普遍性を持たないというように。なぜなら「複製技術『時代』の芸術作品」という名が示しているように、ベンヤミンは歴史を重視しているように思われます。しかしながら本当にそうでしょうか。ベンヤミンの歴史哲学と一般的な歴史主義と重なるものなのでしょうか。


非常に中途半端ですが今回はこのあたりで。
次回は無意識と写真との関係について考えみたいと思います。


現時点で思いつく参考文献は次の通りです。
フロイト「マジック・メモについてのノート」(1925)、『文化への不満』(1930)
ベンヤミンの「写真小史」(1931)、「複製技術時代の芸術作品」(1936)。
(自らの備忘のために)


湯川

*1:ここで気をつけなければならないのは、「夢は無意識への王道である」(フロイト)のであって、決して夢それ自体が無意識ではないということです。

*2:この括弧がおそらく重要になってくると思います。