『ランボー 最後の戦場』 ハリウッド映画と「筋肉」の盛衰



2003年の『ターミネーター3』から、昨年の『ダイ・ハード4.0』『ロッキー・ザ・ファイナル』、来月公開される『インディー・ジョーンズ クリスタルスカルの王国』と、前作から10年以上の年月が経ち、さすがにもうないだろうと思っていた大ヒットアクション大作の続編が、立て続けに公開されている。アクション俳優が完全に高齢化してしまう前に、確実にヒットする大作シリーズの続編を製作させて、興行収入を搾り取ろうという映画会社側の思惑とネタ不足はさて置き、少年時代を金曜ロードーや日曜洋画劇場を見て育った僕としては、単純に嬉しい。


そして、現在公開中の『ランボー 最後の戦場』(以下『最後の戦場』)もまた、誰もが知っているシルベスター・スタローン主演の大ヒットシリーズの続編/完結編である。そしてこの映画、ハリウッド超大作映画におけるひとつの境地といってもいいような作品である。


『最後の戦場』は、タイの密林地帯で見せ物小屋の下働きをしている、ベトナム帰還兵で無敵の戦士ジョン・ランボーのもとに、医療援助のためにミャンマーに向おうとするアメリカのNGO団体の先導役を依頼されるところから始まる。最初のうちは、「あんな激戦地へ行くより、自分たちの幸せを大事にしろ」と依頼を断っていたランボーだが、美女団員のサラの熱心な態度に先導役を引き受け、戦地へ送り届ける。しかし、案の定、軍事部隊の奇襲に遭い、団体は捉えられてしまい、ランボーは派遣された傭兵部隊とともに彼らを救出するため、ふたたび戦地へと向う…。というのが、簡単な物語の説明、というかこの物語のすべてである。


というのも、『最後の戦場』の見所は、なにより映画史上かつてないほど残忍な戦闘シーンにある。もともと、『ランボー』は、ベトナム帰還兵のその後のトラウマを描いた反戦映画であったが、シリーズ化がなされるとともに毛色を変え、続く『ランボー/怒りの脱出』(85)『ランボー3/怒りのアフガン』(88)では「ランボー」という無敵のスーパー戦士が、はちゃめちゃに敵をやっつける好戦的なド迫力アクション映画である。なので、もちろん『最後の戦場』も、その延長線上の映画であることは確かなのだが、それにしてもその残虐さといったら、前作、前々作の比ではない。これでもかとばかりに、人間が果物のように破裂し、肉片をまき散らすシーンが続く。とてもじゃないが、日曜映画劇場では放映できそうもない。


しかし、なぜここまで直接的な殺戮シーンを見せ場とした作品が、スタローンという特権的なスター俳優主演の映画で可能となったのか?これは、考えてみるとなかなか面白い問題かもしれない。


スタローンとシュワルツェネガーは、80年代にハリウッドを席巻した、いわゆる「筋肉アクション」の二大巨頭といわれる俳優だ。彼らの映画では、よく考えればまったく無用なカットでしかない、「筋肉」のどアップショットがこれでもかとばかりに強調され、演技などというものは二の次である(実際、スタローンは演技が下手な俳優の代名詞となっている)。それはある意味では、ハリウッドの歴史において、異常な事態のようにも思えるが、一方で、この二人は、伝統的なハリウッドスターの資質を十分に備えているのである。


実は「映画俳優」とはもともと、「役者(役を演じるひと)」のことを必ずしも意味しない。というのは、銀幕を飾った往年のスターたちの多くは、ほとんど「演技」してないに等しかったからだ。例えば、ジョン・ウェインなら、どの映画で見ても、それはジョン・ウェインでしかない。ハンフリー・ボガードにしても、ジェームズ・スチュワートにしても、どの映画を見ても同じようなキャラクターしか演じることはなく、スクリューボール・コメディからメロドラマ、サスペンスまで多様なジャンルの主役を務めたケイリー・グラントですら、いくつかのキャラクターの類型を演じ分けているに過ぎない。たとえセリフが棒読みだろうと、動作がぎこちなかろうと、そこにジョン・ウェインが映ってさえいれば、人々は安心して西部劇の世界に没入することができるのだ。


「映画俳優」が、本質的な意味で「役者」となったのは、おそらくマーロン・ブランドジェームズ・ディーンといったアクターズ・スタジオ出身の俳優が、名を成し始めてからだ。*1そして、アメリカン・ニューシネマ以降のハリウッド映画を支えているのが、アクターズ・スタジオの出身者、および、その「演技」に影響を受けたスターたちであるのは間違いない。彼らは、登場人物の内面心理を重視し、自然でリアリティある人物を熱演する。その中にあって、スタローンやシュワルツェネガーは伝統的なハリウッドスター像というものを、「筋肉」を持って復活させたのである。


しかし、なぜ「筋肉」という、異様でものものしいアイテムなくして、従来型のスターシステムを復活させることができなかったのか。それには、映画における表現形態の推移が深く関わっている。蓮實重彦によると、60年代のヘイズ・コード*2の撤廃とそれに続く撮影所システムの崩壊によって、ハリウッド映画の重点は「物語」から「イメージ」へと移った(『ハリウッド映画史講義』より)。つまり、自由な性や暴力の表現が公的に許可されたことにより、より直接的でより過激な表現が可能になったのである。


その「イメージ」の映画の、もっとも純粋なジャンルが、『悪魔のいけにえ』(74、トビー・フーパー)や『ゾンビ』(78、ジョージ・A・ロメロ)に代表される、いわゆる「スプラッター・ホラー」である。スプラッター・ホラーとは、殺害シーンを誇張を含むあからさまな表現で、生々しく描写することを特徴とする、70年代以降に発展した映画ジャンルである。そして、スプラッター・ホラーのもうひとつの特徴とは、(それがときにB級ホラーと呼ばれることからもわかるように)名の知れたハリウッドスターが主演を張ることが、構造的に不可能だという点にある。


つまり、スプラッター・ホラーにおいては、主眼はあくまでシリアル・キラーやゾンビに惨殺される死体たち(のイメージ)であって、怪物に勇猛果敢に立ち向かうヒーローの存在ではないのだ。だから、広く認知された従来型のハリウッド・スターの出演は、絶対に回避されなければならない。観客にマスイメージに合った演技=出演を期待させる従来型のハリウッド・スターは、その存在だけで何かしらの「物語」を含んでしまうのである。


そしてここで、「筋肉アクション映画」の「筋肉」の謎について、ひとつの仮説を呈することができる。
「筋肉」は、直接的で過剰な「イメージ」と、「演技」を必要としない従来型の「映画俳優」とを結ぶための、媒介物だったのではないだろうか。つまり、スタローンやシュワルツェネガーは、たくましく隆起した「筋肉」に、過剰な「イメージ」を内包させることで、「物語」から「イメージ」へと移行したハリウッド映画に、ある種の規制を働かせていたのである。その規制とは、まず物語性を持ったスターが出演していること自体によって発生し、ハリウッド映画を、スプラッターホラーではなく、ヒーローもののど迫力アクション映画として見ることを可能にするのである。


こうして、ようやく、『最後の戦場』がいかなる映画であるか、語ることができる。
還暦を超えたスタローンにとって、もはや彼の「筋肉」は、それ自体がものものしい「イメージ」としては機能できない。あるのは、「シルベスター・スタローン」という記号としての彼だけである。この固有名としてのハリウッド・スターが、「筋肉」という「イメージ」を内包できなくなったとき、スーパーヒーローはとんでもなく残忍な殺戮ショーを繰り広げるという、不測の事態を引き起こしてしまうのである。つまり、ジョン・ランボー(=スタローン)が、以前のような観客のマスイメージに応えられなくなったとき、やむなくスプラッター・ホラーに接近し、敵軍を皆殺しにすることで、何とか固有名としての威厳を保ち、かつ観客の満足を得るのである。もはや、ヒーローとして敵から仲間を救出することが目的なのか、ひとりでも多く敵を蜂の巣にすることが目的なのか、まったく判然としないのである。


余談だが、スタローンは、インタビューに応えて「極力ランボーのヒーロー性を排除して、現実の悲惨さを訴えたかった」と発言している。もちろん、これを見て「ランボーのヒーロー性が排除」されているなどとは思えないし、「現実の悲惨さを訴え」るというのなら、『プライベート・ライアン』(98、スティーブン・スピルバーグ)のように、生々しい痛みが伝わってこなければおかしい。だが、明らかに『最後の戦場』の殺戮描写は、スペクタクルとしてのみ機能している。もしかしたら、このような描写はより現実に近いのかもしれないが(僕も70ミリ弾丸で撃たれたらひとはどうなるのか見たことがないのでわからないが)、しかし、このような見ていて「スカッ」とする殺戮シーンが、「現実」のものだと主張するのは、明らかに危険だ。


『最後の戦場』のラストは、激戦を終えたランボーが、父親がいるという生まれ育った家へ、何十年ぶり帰還するシーンで終わる。シュワルツェネガーも『ターミネーター4』には出演しないようだし、僕が少年時代に没頭したこの手のヒーローアクションも、一時代に幕を閉じたと見ていいだろう。しかし、これ以上に素晴らしい終わりがあっただろうか。『最後の戦場』は、超人的スーパーアクションの不可能性を、見事に知らしめてくれた。



松下

*1:アクターズ・スタジオとは、1947年にエリア・カザンらによってニューヨークに創設された俳優養成所。出身俳優の一部を列挙すると、ロバート・デ・ニーロジャック・ニコルソンポール・ニューマンスティーブ・マックイーンアル・パチーノダスティン・ホフマンメリル・ストリープアンソニー・ホプキンス、ブラット・ピットなどである。

*2:ヘイズ・コード(正式には、映像製作倫理規定。プロダクション・コードとも言う)とは、「映画は人生の正しい規範を示すべきであり、観客を犯罪や不道徳なことに共感させてはならない」という理念のもと運用されていた規制。過度な露出や、性的表現、違法行為の正当化などの違反を、検閲によってチェックしていた。1930年に制定され、1968年に完全に廃棄された。