7通目「おいお前、俺の名を言ってみろ」


先日、バイト終わりにみんなで話しているときにこんな会話がありました(大意)。


おばちゃん「ゆーざき君ってもみあげ凄いよね。伸ばしてるの?」
ゆーざき「いや、ただ何にもしてないだけです。」
おばちゃん「じゃあこれからもみあげ君って呼ぼう。」
男性社員「もみざき君とかどう?」
一同「あははは」



これはうざい。確かに僕は結構もみあげが長いので気になるのは仕方が無いと思う。しかし僕自身コンプレックスでもないし、言われるまで特別気にしていなかった。それなのにその部分を取り上げてニックネームとして僕個人を呼ぼうとすることがとても気に入らなかった。もちろんその場は適当にやりすごしたわけだが、この「ニックネームで人を呼ぶ」という行為自体に対して根本的に違和感があるのは僕だけでしょうか。かつて、何人か僕にニックネームを付けようとして、僕の愛想の無さに断念した人たちがいましたが、今回もそんな感じで結局「ゆーざき君」と呼ばれて終わりになってしまうような気がします。*1


そんな経緯もあって僕は人をニックネームで呼ぶこと、人からニックネームで呼ばれることに非常に抵抗を覚えるのです。ニックネームといっても名前が「徹平」だから「てっちゃん」とかなら分かるんです。しかし、おぎやはぎに似ているからといって「おぎや」では意味が分からない。その「似ている」という評価は他人が勝手に判断したものであってその人個人が自覚しているかどうかに関わらず非常に無遠慮な侵犯であると思います。もちろん人と接する上で、相手に一定のイメージを結びつけてその人を捉えやすくすることが出来たりするのですが、それは本来個人の内面やその人のいないところでやるべきであって、直接その人に言うべきではありません。ある程度打ち解けた仲で、相手に向かってその人の印象とかを言うのはより親密な関係を築く上で踏まなければいけない儀式のひとつですが、相手との距離を縮める初手としてはあまりにも短絡的で利己的で安直な行為です。



新たな環境に投入された人間はその寄る辺無さから、どこか安住できるポジションを見つけたがるものです。人間関係においては自分がどのポジション取りをするかでその場における今後の立ち位置が大きく変わってしまうので、初期はそのことに大きく神経を向けざるを得ません。そこで悪魔の一言がこう囁くのです。「○○君って××っぽいからこれから○×って呼ぼうよ!」そこで場が和み、なんだか周りとの距離も縮まったように感じられます。しかしその場の心地よさに流されてしまったら、今後その人は他人の印象から来る名前で呼ばれ、その名にふさわしい役を演じなければいけなくなります。もちろんその人の人間関係はそこだけではないでしょうから、一生その役を演じ続けなければいけないというようなことは無いのですが、すでに一部他人から押し付けられたイメージによって自己が浸食されているのです。残念ながら、人間は他人からの評価や判断によって自己形成していくことがほとんどですので、完全なオリジナルの自分という部分は無いと言うしかありません。それでも、ニックネームというあからさまなイメージの押し付けに安住してしまってはいけないように思います。



しかし、自分もこのニックネームの心地よさに囚われていると自覚した出来事がありました。元猿岩石の有吉弘行が最近あだ名付けとしての芸風を押し出して、品川祐を「おしゃべりクソ野郎」、岡田圭右を「ちゃらすべり」と呼ぶなどして笑いを取っている状況を見るにつけ、自分もそれを無抵抗に受け入れていたのです。それどころかそのニックネームが芸能人としての彼らの部分を見事に言い当て、ぎゅっと要約したような爽快感がありました。それをもって品川とか岡田を一気に把握できたような気持ちの良さが確かにありました。



これは対象がタレントだから成立した現象でしょうか。もちろん、彼らの個性や有吉のセンスなどが関係して笑いにまで高まっているようには思いますが、その廉価版が日常的に存在しているのは事実です。しかもその廉価版はたちが悪く、番組内だけというような区切りが存在せず、あだ名もそこまで面白くないというような場合がほとんどで、微妙な人間関係や状況によってやめることができずに、若干すべりながら続けていかなくてはいけないのです。

このように、ニックネームは対象のイメージを表象する上で便利な道具であることには間違いないのですが、同時に付けられた方の自由を奪うような作用も持っているのです。本人のいない場所では自由な言論が飛び出すのもかまわないのですが、そのノリを本人にまで反映させようとするのはなんとも愚かなことでしょう。個人的には、本人に影響を与えない限りでくすくす笑ったり、勝手にイメージ加えて楽しんだりする方が楽しいようにも思うのです。しかし、そのように楽しんでいる弊害として、自分ももしかしてそんな風に笑われているのではないかという恐怖と戦わなくてはいけなくなりました。電車内で女子高生たちが笑っていると、「あのメガネきもーい」なんて言われているのではないかと思ってしまったり。自意識過剰ですね。



話が逸れたので元に戻すと、ニックネームを付けて呼び続けていくのは自他共に認めた場合にのみ為されるべきであり、それ以外はただの侵犯であるということ、イメージを固定化したいのなら好きにすればいいが、それは必ず本人のいないところでしなければいけないということ。結局はこんなことが言いたかったのです。しかし、これって非常に当たり前のことでみんな知っていることなんじゃないのかという当然の意見が飛んできそうですが、現に僕自身被害にあったわけで、当然のことでも言い続けていかなくてはいけないようにも思います。少なくとも、僕をニックネームで呼ばないで下さい。それだけです。


ゆーざき

*1:この文の草稿は金曜日に書いたものであるが、それからまだババ…おばちゃんの呼び方は変わらない。ちなみに呼んでいるのはそのババアだけ。バイト始めて3ヶ月、なぜ急にそんなことを提案したのか、なぜ人が嫌がるということが普通に分からないのか、なぜそんなに面白くないということが分からないのか、ババアの意図がまったく分からない。たぶん僕のことが嫌いなんだと思う。そんなの知るか。