moso magazine issue23―― 今週の「秋葉原」

「点」と「線」の違い



今朝方、症候会議のメンバーと本場のメイド喫茶に行ってみようという話になっていたので、今日の事件には戦々恐々した。

松本人志が以前「一番強いヤツは誰か」という話題で、あらゆる格闘家を退けて、「平気で人を殺せる人」と言っていた。僕もそう思う。ボクサーや空手家、柔道家の繰り出す技は、場合によっては人を殺めることが可能なものもあるかもしれない。しかし、ある意味当たり前のことではあるが、彼ら格闘家は「人を殺すことができたとしてもできない」だろう。そのような能力があったとしても、いざ実際にそれを実行に移すことは彼らにはできない。インタビューなどでは「相手を殺すつもりでいった」などと話すかもしれないが、実際には殺さない。いや殺せない。試合中に弱った相手に対して無我夢中で拳を振り下ろしていても、レフリーが間に割ってはいれば、彼らは我に返り、それ以上相手に拳を振り上げることはない。
それは普通の人間なら「当たり前」ことだが、情緒や道徳観、そしてフロイトに言わせれば「超自我」というものによって雁字搦めに束縛されている僕たちは、能力の有無に関わらず原理的に人を殺すことはできないということだ。
だからこそ、「平気で人を殺せる人」という人―例えば今回の通り魔犯―は、ある意味「最強」、ということになる。

犠牲者となった人の中には、傷が肺にまで達していた人もいるという。これが意味するのはつまり、犯人がナイフで被害者を切っただけではなく、その先端で「突き刺し」もしていたということだ。

チベット問題に端を発する、先月の北京五輪聖火リレーにともなう世界各地での妨害活動。その最中聖火が韓国に来たとき、チベットの支援団体が滞在するホテルに、その何倍もの数の中国人がなだれ込み、傘や棒などで彼らを袋だたきする動画が公開され、物議を醸したという出来事がある。ロビーに追い込まれた支援者達を「壁」のごとく包囲した群衆が、傘などで執拗に叩く。もちろん、集団でリンチをしている時点で、正気の沙汰ではないが、僕の目をさらに釘付けにしたのは、その中で傘を通常の持ち方ではなく「逆手」(つまり小指の方が上に来る状態)に持ち、相手に向かって「突き刺す」ように振り下ろしていた青年である。

「刺す」ことと「切る」こと。
細かいことのようだけれども、それらの間には確かな違いがあると僕は思う。
僕の想像だと、自分の命が危うくなったときなどに、持っていた傘で相手に物理的な攻撃を加えなければならなくなっても、例え相手に斬撃(つまり持っていたものを振り下ろすこと)はできたとしても、相手にその先を突き刺すことはできない。
文字通り物理的な問題であるが、刃の部分だといわば「線」であり面が広い分、相手の核心までは傷つけられない。それに対して、先端の部分は突き詰めれば「点」であり、相手の核心部分まで切っ先は届いてしまう可能性がある。そのことが経験的に分かっているだけに、普通の人ならば突き刺すことなど、なかなかできないのではないだろうか。

相手の皮膚(=表層)を斬りつけることはある種のフリクション(摩擦)である。それは相手への違和に対する表明ではあるのだが、相手の臓物(=核心部分)に対しては侵入していないという点で、相手の存在は認めているともとることができる。しかし、それに対して突き刺すという行為は皮膚に穴を開けると同時に、相手の臓物をもその手にかけているという意味で、相手の存在自体の抹消を狙っていると考えることが出来る。現に裁判などでは、殺意の有無に関して、凶器を振り回したか、突き刺したかどうかが争点になる場合もある。もちろん、殺意があると判断されるのは後者である。

ドラマや映画などでよく、キャラクターが我を失って死にものぐるいで相手を殺すというシーンがあるが 、殺人者は凶器を逆手に持って無我夢中で相手に何度も何度も突き刺す。あれなどは、相手のことを実体的な人間としてとらえる感覚を失い―いわば相手が単なるものと化し、ただ自分の生存だけが目的になっているという印象を与える。相手の存在が、いわば「どうでもいい」ものになったときなのである。
しかし、それらを見た僕たち自身は、そんなことはなかなかできそうにない。

そういった意味で、僕たちと今日のアキバの犯人は中国人の暴徒の中の一青年とは異なる。僕たちが相手に危害を加えるとしても、それでもなお突き刺すことは生理的にできず、叩くことしかできないのは、僕たちの中に危害を加える段になってもなお、相手(=他者)のことが「どうでもよくはない」という部分があるからではないだろうか。それはどういうことか。

精神分析家のジャック・ラカンに、「鏡像段階」という理論がある。
人間は、動物の中で例外的に寄る辺ない存在としてこのように生を受けなければならない宿命を持つ。感覚器官が未発達で、かつ母親などの過度な保護を必要とする幼児は、確固たる「自分」という確信をもたない。それゆえに彼彼女の認識うえにおいては、自分が母親を始めとする外界(=世界)と未分化の存在であるのだ。「僕」と「世界」との間に境界線が、引かれていない状態なのである。
このように、幼児の中では「僕」という個の存在の定義が曖昧模糊のまま放置されていることになる。

そんな幼児が、いかにして自分のイメージを形成するのか。ラカンによれば、それは鏡像段階においてだ。
鏡像(あるいは具体的な他者)という、自分の外にある表象に自分が投射された姿を視認することによって初めて、彼は自分のパーソナルイメージを獲得するとともに、「僕」と「世界」の間にはじめて境界線を引くことができるのである。この鏡像段階を通過したことによって、赤子は「僕ってこういう仕組みなんだ」ということを確認し、「僕って<僕>なんだ」ということを実感するのである。

ここで重要なのは、人間は自分を知ることは不可避的に他者を迂回してしかできないという逆説的な状況である。
小学校の道徳などの情操教育の授業でたびたび先生が「人の身になって」考えなさい、ということを児童たちに諭すのだが、僕たち人間はそもそも原初の時分に「人の身になって」みないと、自分という存在を確定することができなかったのである。
幼児がよく、他の子どもが打たれる現場を目撃した際に、自分自身は打たれていないのにもかかわらず泣いてしまうというようなエピソードがある。幼児は、世界から個として自分を切り離すことに成功したことと引き替えに、他者という迂回路を通った。このエピソードはそのことによって引きおこされた「僕」と他者との「取り違え」の一例といっていいだろう。
しかし、このような「僕」と他者との「取り違え」は、幼少期の一時のものとして片づけられるだろうか。

この鏡像段階を通して自分と自分と世界の境界線を手に入れたということの「名残」みたいなものが、成熟してもなお僕たちには残っているのではないだろうか。

例えば、映画やアニメにおいて人が刺されたり打たれたり殺されたりするシーンに、苦手な人であれば目を背ける。そうでなくても、それらを不快に感じることは誰もがわかることだろう。
なぜ僕たちの内面ではそのような感情が生起するのだろうか。見ている光景は映画やアニメのそれであって、それはフィルムに焼き付けられたもの、セル画に描かれていること、それはこちら側も重々承知のはずである。それでもなお、僕たちは画面上に映る他人の身体の傷に痛みを想起せざるを得ない。

それはつまり、画面上で傷つけられる他者がそもそも原初の自分のイメージを得るための媒介(メディア)であったからではないだろうか。それだからこそ、無関係な他者への危害の表象でさえも、僕らはそれから痛みを想起してしまうのである。

他者のことを「線」で危害を加えることができたとしても―叩くことはできたとしても―、「点」で危害を加えることはできない―突き刺すことはできない。
そして、そのように相手(=他者)のことが「どうでもいい」とは思えないのは、「僕」と「世界」を切り離した際に、他者という存在を身代わりにして自己の身体を得たという経験が、原初の起源としてあるからではないだろうか。


イマダ