moso magazine issue25――古畑任三郎の精神分析後編



誰も待っていないという説もありますが、みなさんお待たせいたしました。古畑任三郎精神分析後編です。

前回のmoso magazine――isuue24では、古畑任三郎という刑事が、スラヴォイ・ジジェクのいうところの古典的探偵に見事にあてはまるということを確認した。古畑任三郎は事件からの外部性において、事件と密接にかかわるハードボイルド探偵と異なる古典的探偵的デカなのである。

しかし前回持ち上がった論題は、「古典的探偵はこれまでにもいただろうし、これからも再生産され続けるだろう。そのような他の作品の中で古典的探偵の地位を担うキャラクターと古畑任三郎の間に、はたして本質的な違いが見出せるだろうか。そして、そんな違いがあるとしたらそれは何なのか」、ということだった。

ここで僕は、論点を視聴者、あるいは読者、つまり物語の受容者の側に移したい。
古畑任三郎」において、視聴者が同一化する人物―視聴者が感情移入する人物、あるいはストーリーを追っていくために視点を仮託する人物―とはいったい誰だろうか。
この問いに対する答えとして、もっとも最初に退けられなければいけないのは、古畑任三郎自身である。

前回も書いたとおり、ジジェクによれば古典的探偵は一人称では語ることができない位置にいる存在である。すなわちそれは、古典的探偵小説の読者が古典的探偵による「僕・私」語りの文章を読むことが原理的に不可能であるということになる。古典的探偵が登場する小説では必ず、第三者や神の視点から物語は語られることになる。

だがしかし、「古畑任三郎」は小説ではない。テレビドラマという映像作品である。映像作品の場合は、小説という文字媒体よりも、同一化するキャラクターの位置が決定しにくいように思える。そうすると、場合によっては古畑にさえ同一化する人物として想定することができるのでないだろうか(何よりもまず、彼はこのドラマの主人公である)。しかし、この可能性も否定される。それは「古畑任三郎」特有の構造において。

ここで「古畑任三郎」の構造を簡単に振り返ってみよう。
視たことがある人はわかると思うが、「古畑任三郎」ではオープニングでいきなりその当の古畑が登場する。黒い背景の中に立つ古畑がカメラ側(つまり視聴者側)を振り返り、視聴者に向かって「え〜、みなさん・・・」と語りかけ始めるのである。そこで彼は、その回の事件にまつわる小話や事件解決への手がかりとなる象徴的なものについてのエピソードを披露してオープニングテーマに移行する。
このことが示しているのは、古畑任三郎の「分裂」であり、事件が事後的に語られるということである。

古畑はこの冒頭部分の視聴者への「語りかけ」によって、刑事として物語内で実際に事件を解決する古畑から、メタ視点的、俯瞰的な古畑任三郎ストーリーテラーとしての彼が分離しているのである。
わかりやすくいえば、ドラマ内で実際に事件を解決する古畑と、その事件がテレビドラマであるということを知っている古畑に分裂しているということになる。

そうすると物語の語り手も古畑となり、古典的探偵の大前提のひとつ「一人称では語れない」という大前提が崩れるのではないかというと、そうではない。このオープニングの小話を終えると、この「メタ古畑」は幕間に引っ込んでしまうのだ(後に再登場するが)。
この語りかける「メタ古畑」の存在によって、当の事件が後日談的に語られているということを暗に示されている。後日談ということはつまり、事件が解決した後(=古畑が犯人を捕まえた後)ということである。このことは、先週書いた古典的探偵の精神分析家との類似点、「知っているはずの主体」という彼の位置を補強する。

そしてそれと同時に、この「メタ古畑」という存在の冒頭での登場は、視聴者と古畑の立ち位置の違い―何も知らない視聴者とすべて知っている古畑―を明確にすることで、むしろ視聴者と古畑を隔てている。
この冒頭部分での古畑による視聴者への「語りかけ」には、視聴者を古畑への同一化へといざなうよりもむしろ、古畑の位置を視聴者からさらに引き離す効果が秘められているのである。このようにして、視聴者が同一化する対象の選択肢として、真っ先に古畑本人が消えてしまう。では誰が視聴者の同一化対象なのだろうか。

古畑の部下である今泉君や西園寺君だろうか。古典的探偵の代名詞ともいえる、シャーロック・ホームズであればワトソンの位置にいるのがこの二人の部下である。しかしもし二人の存在が、視聴者の同一化対象であるのであれば、このドラマには施されて当然の演出が施されていないことになる。それはナレーションである。もしも「古畑任三郎」が、彼ら二人のうちのどちらかの視点から語られる物語であるならば、彼らによるナレーションがあっても不思議ではない。しかしそれはないのである。また彼らは、その登場のタイミングからして、視聴者の同一化対象としては、古畑と同様「遅すぎる」のである。

では、視聴者は誰に同一化するのだろうか。それを探す手がかりは、誰がストーリーのはじめから関与している人物なのか、ということにある。すなわち視聴者の同一化対象とは、殺害される当の本人やその人の遺族となる人か。普通のサスペンスならばそうであるが、「古畑任三郎」においてはそうはならない。それはある特殊なスタイルによって。

再び「古畑任三郎」の構造に話を戻そう。このドラマの特徴は第一に、なんといってもそれが「倒叙もの」というスタイルをとっていることである。簡単に説明すると、「倒叙もの」とはミステリー作品のある一つの特殊なスタイルである*1。ふつう、ミステリーでは事件の犯人や謎は受け手に明かされぬまま、ストーリーが進行していく。そして、探偵あるいは刑事によって解決されることによって、事件の真犯人や謎のそれらすべては最後になって、ようやく受け手に明らかにされることになる。この分野における受け手の享受する快楽とは主に、そのまま探偵による「事件の真犯人や謎」の「解明」によってもたらされる。だからこそ、視聴者をこれら物語への没入にいざなうのは、被害者遺族の悲しみや、警察関係者の犯人逮捕への情熱である。この手法は、古典的探偵とハードボイルド探偵にかかわらず、一般的に当てはまるはずだ。

それとは反対に「倒叙もの」のミステリーでは、あらかじめ事件が―ふつうの推理小説の言う意味では―「解決」されていることになる。なぜなら、このスタイルにおいては出来事がすべて時系列におきるからである。つまり、最初に犯人の犯行が描かれ、後から駆けつけた探偵ないし刑事によって事件は推理されていく。だから、「倒叙もの」は、「事件の真犯人や謎」の「解明」は受け手の快楽には成り得ない。それらは始めに解き明かされているのだから。読者はあらかじめ犯人を分かった上で、探偵の操作現場を読むことになる。「倒叙もの」の魅力とはずばり、探偵と犯人の純粋な対決にある。謎を仕掛けたものと、謎を解き明かす者。この二人の化かしあい、知恵比べともいえる舌戦の構造を理解した上で、読者ないし視聴者は胸をときめかされるのである。

この「倒叙もの」というスタイルであるため、「古畑任三郎」ではキャスティングの力点も、被害者ではなく殺人者の方におかれることになる。
このドラマは一話完結ものであるが、毎回犯人として俳優に限らずさまざまなジャンルの有名人が登場する。役者は役者でも、普通の二時間ドラマなどでは決して殺人犯役などは演じないような俳優(陣内智則田中美佐子など)まで出演する。総じてみな人気タレント の部類に当てはまる*2。これら豪華なキャスティングは、『古畑任三郎』というドラマが「倒叙もの」の醍醐味である探偵と犯人の純粋な対決を魅力的に描き出すことを、大前提に制作されているということを表している。田村正和とゲストらの「演技合戦」を余すことなく描ききることがこのドラマの魅力の一側面となっている。
よって「古畑任三郎」では、言ってしまえばトリックは二の次。重要なのは「誰が古畑(田村正和)と対峙するか」なのである(思い返してみれば、リアルタイムで見ていたとき僕は、本編終了後も次回は誰が犯人なのか?(ゲストなのか)という興味で、予告も欠かさず見ていた)。

そして、何を隠そうこの「古畑任三郎」における視聴者の同一化対象とは、この殺人事件の犯人の位置なのである。

最も一般的な「古畑任三郎」の形式においては、オープニングテーマが終わった後は、その回のゲストとなる人物(これから殺人を犯す人物)の日常のシーンから描かれる。そこでは、その人物の性格や職業、どのような生活環境で、どんな動機が彼を殺人へと駆り立てているのかなどなど。それらが事細かに描かれていく。殺人犯は、このようにして視聴者にとって、より身近な存在に変貌する。
ここで重要なのは、これが犯人が最初から明らかにされる「倒叙もの」ならではの現象であるというこである。

犯人の正体や謎の解明がメインテーマとなる、いわゆる一般的なサスペンスや推理ものにおいてはむしろ逆ではないだろうか。犯人は正体不明の「他者」として描かれ、しばしばその存在は、犯行の残虐性や無慈悲性を通して、邪悪でとらえどころのないものとして描かれるはずである。

古畑任三郎」における殺人者の描かれ方の特異性を際立たせているのは、殺人のシーンである。

一般的なサスペンス等の殺人シーン。大半のそれは被害者の視点で語られてはいないだろうか。
おびえる被害者の首に背後から縄が掛けられ、ギュっと締め上げられる。被害者は目を開き、驚きと恐怖の表情を浮かべるが、やがてこと切れる。だいたい、サスペンスドラマなどで描かれる殺人シーンはこのような具合に、その被害者の視点に視聴者は誘導される。殺人シーンは被害者と同時に、視聴者にとってもショッキングなシーンとして描かれる。一方、犯人の存在は縄を持つ手首や、黒い影によってしか示されない。彼ら殺人者は崇高な、捕らえどころのないモンスターのように、その全体像は明かされない。殺人シーンでは彼の邪悪さのみが強調される。

倒叙もの」である「古畑任三郎」においては、それとはまったく逆に犯人の視点から殺人は描かれる。殺人遂行への熱情から当の殺人を犯した後の後悔や恐怖が描かれることによって(犯人のほとんどはそれまで窃盗などの軽犯罪すらほとんど起こしたことのない様な人格者である)、犯人は視聴者とって身近な存在へとなり、見事に犯人側の視点に釘付けになる。「倒叙もの」において殺人者は、刑事の捜査の手がいつ自分におよぶかに怯える愚かな一人の人間として視聴者の前に現前するのである。このように愚かな一人の人間として描かれることによって、視聴者の同一化する位置が殺人犯になるという詐術が完成する。

本当に視聴者は犯人目線になって「古畑任三郎」を見ているのか。その証拠に、一度でもこのドラマを観たことがある人は思い出してみて欲しい。あのドラマを観ているとき僕たちはいつの間にか、(それが不可能な願いであろうとも)犯人が、真相が突き止められないことを願っていないだろうか。古畑が推理に失敗することを願ってはいないだろうか。

ところで、ジジェクは古典的探偵の精神分析家をまったくの同一なるものと捉えたのか。実はそうではない。彼は両者の間には、「類似性の限界」が存在すると考える。それは何か。精神分析家でいうところの患者の症候とは、古典的探偵においては死体(にまつわる罪悪感)ということになる。
古典的探偵小説やそれに準ずるものにおいては、探偵が真の犯人を見つけ出すことで、死体によって構成された集団(容疑者たち)の「『内的』真実をいっさい否定する」のである。ここでいう内的真実とは、前回述べた心的現実と重なる。容疑者たちはたとえ殺人に関与していなくとも、「欲望の無意識においては」殺人犯と同じである。しかし、探偵によってもたらされる理路整然とした殺人事件の「解決」は―正当な解釈は、その無意識の深層構造は扱わない(当たり前である。扱ってしまうと、だれもが殺人者たりえてしまう)。それをジジェクは、精神分析家と比べたときの探偵の「実存的虚偽性」と見て取る。

探偵の「解決」によって、(真犯人以外の容疑者たちは)「欲望が実現したことにたいするいっさいの罪悪感から」解放されるのである。
既存の古典的探偵小説における真犯人以外の容疑者には、もちろん僕たち読者自身も当てはまる。なぜなら、僕たち読者ほど物語の中で殺人がおきることを欲望している者はいないからである。

ジジェクによれば、その実行されなかった無意識のうちに秘めた殺意の「欲望の実現にたいする罪悪感はスケープゴート(実際に手を下した犯人―引用者)の中に『外在化』される」ため、僕たち推理小説などの読者は、精神分析のように「欲望を手に入れるために支払わねばならない代価に、すなわち回復不可能な喪失(「象徴去勢」)に、直面させ」られることから回避できるのである。

しかし「古畑任三郎」には、その古典的探偵小説における、真犯人ではなかった容疑者に仮託される読者の位置などどこにもない。ここまで考えてきたようにこのドラマではむしろ、視聴者が殺人犯の位置に釘付けにされるが故に、犯人が当の同一化対象であるが故に、「欲望を手に入れるために支払わねばならない代価」をまさに支払わされるはめになるのだ。

古畑は劇中に、幾度も「一般人は殺人者と紙一重です」「人はいつ殺人者になるか分かりません」ということを口にする。つまり、ささいなことで人は殺人者への道へと転落してしまうということ、人生何で暗転するかはわかったものではないということを言っているのだ。これは犯人の目星が彼の中で十二分に付いた後に、当の犯人(その時点ではまだ容疑者)に向かって投げかけられる言葉であるが、それは間接的に視聴者へも投げかけられている文言なのである。

では、「古畑任三郎」の(僕も含めた)視聴者は、なぜかくも厄介で苦痛を伴う役割を負わさせられるドラマに没入してしまうのだろうか。なぜ僕たちは自らをそのような境遇に陥れるのだろう。僕はそこに人間の根源的なマゾヒズムや、罪悪感、自罰的な側面の存在を見て取りたい。かつてフロイトは「文化への不満」において、自我がもてあました破壊欲動が回り回って、良心の呵責や罪悪感という自分自身を苦しめるものになって回帰することを明かした。僕たちはたとえ根拠があろうとなかろうと、罪の重荷に苦しめられるのだ*3

先に「古畑任三郎」においては、トリックは二の次であると述べた。実際、ある事件においては犯人さえ知りえなかった(=視聴者さえ知らなかった)事実の発見によって、犯行は思わぬ綻びを見せ、解決されることがある。それははっきりいって「後出しじゃんけん」のようなものである。しかし、それは特別に重要なことではない。ドラマ「古畑任三郎」とそれを視る者にとって重要なことは、いかにあがこうとも最終的には(視聴者の同一化した)犯人が罰せられるという事実なのである。ドラマ「古畑任三郎」とは、犯人(と犯人に視点を仮託する視聴者)がいかに断頭台への道を歩むのか。それを視聴者自身が見届けるという、マゾヒスティックな快楽を満たすものなのだから。

イマダ

*1:有名なものでは「刑事コロンボ」も倒叙ものに当てはまる。また、実は「金田一少年の事件簿」にも倒叙もの的作品が存在する(「タロット山荘殺人事件」)が、これは特異中の特異な例だといえるだろう。

*2:今まで犯人役として出演したタレントには、明石家さんま笑福亭鶴瓶SMAP(しかも五人全員で犯人!)、山口智子福山雅治などがいる。そしてなんといっても、あの世界のイチローが犯人になっているのだからすごい!

*3:その気休めといっては何だが、「古畑任三郎」において自白をした後に自殺をした犯人はただ一人しかいない(共犯者に殺された人はいるが)。この事実は、犯人に対するというよりは、その視点に仮託した視聴者に対する留保のように思える